ご挨拶
セラフィの誕生日からしばらく経ったある日、彼女が自室で本を読んでいると、ドアの向こう側から言い争う声が聞こえた。
喧しく言い争う男女の声は、セラフィの両親のものであった。耳を塞いで聞こえないフリをしようにも、静かな夜に良く響く。
怒鳴り声に混じって聞こえる自分の名前に耐えきれなくなったセラフィは、そっとドアを開けて廊下の様子を伺った。
そこには案の定、目を吊り上げた母親と怒気で顔を赤らめる父親の姿があった。
「セラフィ!」
「おい、セラフィ!」
二人に勢いよく名前を呼ばれ、思わず身を固くした。
「貴女、あの侯爵家の息子と婚約だなんて、やるじゃない!さすが私の娘よ!」
「お前は!いきなり婚約の書面を送り付けてくるとは一体どういうつもりだ!この私に話も通さずに勝手に婚約話を決めやがって…ちゃんと金の話はしたんだろうな?支度金はいくら貰えるんだ?金のない家にはお前はやらんぞ。」
「貴方はまたお金のことばかり言って!どうせ、娘が自分よりも高貴なお方の元に嫁ぐのが悔しいだけでしょう?はっ!いい気味だわ。」
「そういうお前こそ、娘のことをだしにして自分が侯爵家との繋がりを持とうと躍起になってるんじゃないか?見境のない奴め。」
「何よ、貴方だって…」
二人はセラフィをそっちのけで言い争いを始め、収拾が付かなくなった。
そんな二人を目の当たりにしたセラフィは痛みを堪える顔をしている。
また自分のせいだ…
自分が勝手なことをしたせいで両親が言い争いをしている。
こんなことになるくらいなら、黙って父親の言うことを聞いておけば良かった。抗おうなんてしなきゃよかった。
私がいるから家族が壊れてしまうんだ。
全部私が悪いんだ。
私さえいなければこの家はもっと…
『ごめんなさい』
謝罪の言葉を口にしかけたセラフィだったが、それは使用人の焦った声に掻き消された。
「だ、旦那様っ!!」
「なんだ、騒々しい。」
先ほどまで怒鳴り合っていたくせに、大きな声を出す使用人に嫌そうな顔を向けて、睨み付けた。
「た、大変失礼致しました。今、侯爵家の馬車が来ておりまして、それを急ぎご報告差し上げたく。」
「なんだと?」
凄みをきかせてくるこの家の当主に、使用人は顔を青くして謝罪の言葉を繰り返した。
そんな彼女を忌々しそうに見ると、セラフィの父親である、ネンスは舌打ちをした。
「お前、ヤツを呼んだのか?」
いきなり視線を寄越されたセラフィは、勢いよく首を横に振った。
ネンスの迫力に負け、言葉を発することは出来なかった。
エトハルトがなぜうちに来たのかわからないが、下手なことをしてこれ以上両親のことを刺激しないで欲しいというのがセラフィの本音であった。
「まぁいい。せっかく向こうから来てくれたんだ。目一杯金を搾り取ってやるか。うちの大事なひとり娘をくれてやるんだ。いくらでも払ってくれるだろうよ。」
ネンスはやらしい笑みを浮かべた。
エリザベスは呆れ顔でため息を吐いていたが、セラフィはエトハルトを大変なことに巻き込んでしまったと胃が捩れてしまいそうであった。
あんなこと、頼むんじゃなかった…
自分本位に考え過ぎたわ…
キリキリと痛む胃を宥めるように必死にお腹をさすった。
今すぐこの場から逃げて自室に閉じこもりたかったか、ネンスが許すはずがなかった。
「セラフィ、行くぞ。」
「っ!!」
ネンスは痛むほど強くセラフィの手首を掴むと、エトハルトが待つ部屋へと連れて行った。
応接室では、ジャケット姿のエトハルトがソファーの隣に姿勢正しく起立していた。
彼は、無理やり連れてこられたセラフィの姿を見ると、一瞬だけ目を細めたが、すぐに取り繕い、ネンスに向かって頭を下げた。
「私は、サンクタント侯爵家のエトハルトと申します。先触れもなく突然伺ってしまい大変申し訳ございません。本日は、セラフィ嬢との婚約の件でお話に参りました。本来であれば、書面よりも先にご挨拶に伺うところを、順序に不備がありご迷惑をお掛けし、改めて謝罪申し上げます。」
腰を折り、丁寧に頭を下げたエトハルト。
どこまでも低姿勢に振る舞う彼とは対照的に、ネンスはどかっと大きな音を出してソファーに腰を下ろした。
足を大きく開いて座り、値ぶみするような不躾な視線を投げ付ける。
だが、エトハルトは怒ることも焦ることも怯えることもなく、ただ真っ直ぐな瞳でネンスのことを見返した。
そんな二人を見たセラフィは、緊張のあまり内臓が口から飛び出しそうなほどであった。
エトハルトへの申し訳ない気持ちと、こんな親だと知られて恥ずかしい気持ちが溢れ、飲み込まれそうなほどの負の感情のせいで息苦しさを感じる。
辛そうな顔をするセラフィに気付いたエトハルトは、彼女のことをじっと見つめ、セラフィが自分の方を見た瞬間、ぱちりとウインクを飛ばしてきた。
それはいたずらっ子のような面白がっている表情であった。
「え…」
この場の空気にそぐわないエトハルトの行動に、セラフィは目を丸くした。
今度は別の意味で息が止まりそうになっていた。