残香
『良かった』
目の前の銀髪の彼は間違いなくそう言った。それも、死ぬほど嬉しそうな表情で。
それは、セラフィの予想とは真逆の反応であった。
みっともなくて弱い自分を見せてしまったのに、何で彼は、あんなに嬉しそうな顔をしているのだろう…
セラフィは困惑を隠せなかった。
一方エトハルトは、嬉しさのあまり滲み出した視界に、慌てて目元を拭った。
陶器のような白い肌がほんのりと赤くなっている。
セラフィの言葉を聞いて、一気に血色がよくなったようだ。
「セラフィに嫌われてしまったのかと思っていたから…だから、あの言葉が本心でないと知れて心底ほっとした。あれがもし本気だったら、ちょっと生きていけないかも。」
エトハルトは泣き笑いの顔で、やや照れくさそうに微笑んでいる。
彼の顔を見たセラフィは、あの時の自分の言葉でどれだけ彼のことを傷付けてしまったのかを思い知らされた。
顔面から一気に血の気が引いていく。その様は、エトハルトとは対照的であった。
過去の言葉は消えない。
ならせめて一つでも多くの謝罪の言葉をと思ったセラフィだったが、エトハルトに止められてしまった。
今度は唇に人差し指を当てられたのだ。
「…もういいよ。」
「えっ…どういう…」
「僕もあの時、君に嘘をつかせてしまうくらい追い込んでしまった。君の変化に気付かなかった。だからお互い様だね。」
「そんなこと…私の方が悪いに決まってる!エティは何も悪くない。私が、私のせいで…」
セラフィは感情が昂り、つい声が大きくなってしまった。
「じゃあ、僕からのお願いをひとつ聞いてもらっていいかな?それを君からの謝罪として受け取ろう。」
「もちろん!なんでも言って。どんなお願いでも聞くから。」
「じゃあ、この関係を終わりにしてほしい。」
「え………………」
セラフィは目の前が真っ暗になった。
どんなことでもと望んだはずなのに、エトハルトから拒絶されることは全く考えていなかった。
「ごめん!僕の言い方が悪かったね。」
セラフィの異変に気付いたエトハルトは、慌てて謝罪の言葉を言った。
「僕とセラフィの今の関係、つまり利害の一致で繋がっていることを終わりにしたいんだ。もちろん、婚約者として君の盾となる役割はそのままで、ただそれを友達としてさせてほしい。セラフィ、僕は君と友達になりたい。君の友達だからという理由で、君のためになることをしてあげたい、頼られたい。どう、だろうか…」
最後は自信なさげな表情を見せたエトハルト。
セラフィの顔色を窺い、不安そうにシルバーの瞳を揺らしている。
「そんなこと、でいいの…?」
エトハルトの言葉を疑うわけではないが、セラフィは信じられない気持ちで彼の顔を見た。
自己肯定感の低いセラフィは、こんなに真っ直ぐな言葉を並べられても尚、自分にそんな価値などないのにという考えでいっぱいであった。
自分と友達になることで彼にとって何か有益なことはあるんだろうか、そんなことばかり考えてしまう。
「うん。これは僕にとって死活問題なんだ。セラフィがいるといないとでは天と地ほどの差がある。だから、今ここでセラフィが頷いてくれたら僕は死ぬほど嬉しい。」
歯の浮くような言葉ばかり連ねるエトハルトに、セラフィは少し恥ずかしくなり下を向いた。しかし、こんなにも真摯な彼の想いを無視するわけにはいかなかった。
なんて返して良いか分からなかった彼女は、言葉の代わりに頷いて見せた。
彼女の返事を見たエトハルトは、天にも昇る気持ちであった。
大きく目を見開いて、その瞳を潤ませた。
これまでこんなにも心が動くことはなかった。
欲しいものもすらない自分には、失いたくないものなんて無かった。
こんなにも必死に希うことなどなかった。
家柄とこの見た目から表面的には満たされているように見えても、心はいつも空っぽであった。
この枯渇した心が潤うことなんてあり得ないと思っていた。
ずっとこの渇きに気付かないふりをして、周囲に気取られないように微笑んで穏やかに生きていくつもりだった。
それなのに、目の前の彼女に求めてしまった。
失うことの怖さも満たされることの幸福も、彼女が僕に教えてくれた。
僕は、彼女のために一つでも多くのことをしてあげたい。人に対して優しくて自分に厳しくて、周りに助けを求めることが苦手な彼女。
そんな彼女が一つでも多く笑顔になってくれるように。
「…どうしよう。多幸感が溢れて心臓が止まりそう。」
エトハルトは、思わず胸を押さえた。
その顔は冗談ではなく本気であった。
あまりに真剣な彼の姿に、セラフィは困惑する気持ちを通り越して笑みが溢れてしまった。
こんな自分と友達になるって、そんなことでこんなにも喜んでくれる彼のことをおかしく感じてしまったのだ。
「エティ、大袈裟だよ。」
「僕はいつだって本気だよ。」
セラフィとエトハルトの二人は顔を見合わせて笑った。
彼らの間にあった気まずい空気はいつの間にか消え去っていた。
「夜分遅くに、窓から失礼したね。僕の話を聞いてくれてありがとう。明日の朝も迎えにいくかららか仮病はダメだからね。」
「う…」
エトハルトは人差し指を立て、真面目な顔で注意してきた。
だが、彼女が彼の指摘に狼狽えると、すぐに優しい顔に戻った。
冗談だよと微笑むと、エトハルトは来た時と同様窓枠に手を掛けて身を乗り出し、飛び降りる直前、セラフィの方を振り返った。
「言い忘れてたけど、セラフィ、その服も良く似合っている。じゃあ、おやすみ。また明日ね。」
最後の言葉に困惑する彼女を置いて、エトハルトは音もなく闇夜に紛れていった。
「服…?」
セラフィは、自分の服装を目で確認した。
「ひゃあああああっ!!!」
気付いたセラフィは自身の身体を腕で抱え込むようにして座り込んだ。
寝支度を済ませていた彼女の纏っていた服は、夜着であった。
こんな姿、結婚相手にしか見せてはいけない格好だ。
こんな姿を彼の前に晒していたのかと思うと、セラフィは恥ずかしさが募り、しばらくそのまま動くことが出来なかった。
ようやく気持ちが落ち着いてきた頃、部屋の中があまりに静か過ぎて、エトハルトがこの部屋に来たことは夢だったのではないかと思い始めたセラフィ。
だがその時、彼の残していった春の香りが鼻を掠めた。
確かに彼はここにいた。
だが、いきなり感じた彼の気配に、セラフィは恥ずかしくなってしまい、隠れるようにベッドの中に潜り込んだ。




