第二十話 Epilogue 姫の独白。
暑かった日のこと、そんな、夏の日のこと。
――私が一人の青年に出会ったのは、日差しの眩しい、そんなある日のことだった。
epilogue 姫の独白
陽射しは強く肌を刺し、むんと漂う熱気はただじっと立っているだけでも汗を噴き出させる。
この夏一番の猛暑を記録するでしょう。天気予報のお姉さんが滑舌良くお知らせする声に背を押されて、私は一人で街をぶらついていた。
暑いのは嫌いじゃない。
こういう時に遊ぶ友達が、居ない訳ではないけれど、どうしても家の事情で距離を置かれがちな私は今まで、誰も誘ったことがない。
子供は中々に残酷だ。小学校、中学校、高校、大学。私はいつも、輪の外に居た。
私の両親はかなり有名で、そして資産家でもある。
両親は忙しく、余り構ってもらった記憶がないが、その変わりおじい様に良く遊んでもらっていた。
学校で出会う人達がどこかいつも余所余所しいのは、ええと、類まれな人生を歩んできたおじい様の常識に私が被れているからかもしれない。
お金持ちだから、親が有名だから、男好きする容姿だから。
様々な理由と確執がそこにはあったのだろう。
大学三回生。大部分の同級生が先の就職活動で苦しむ中、ただ一人確実な明るい将来が約束されている――それも、あるのかもしれない。
それももうどうでも良い。
そんな訳で――特別、フリーの日に気軽に遊びに行ける様な友人が居ないのは真実だった。
「はぁ」
溜息を吐く。
突風が吹き、舞い上がりそうになったスカートと幅広の帽子を慌てて手で押さえた。
失敗したかも。デニムにすれば良かったかな。
心の中で呟き、繁華街に足を踏み入れる。おじい様に護身術の手ほどきを受けている私なら、絡まれても何とか逃げることくらいは出来るだろう。
それに、この街は嫌に絡んでくる人は少ない。
小さな雑貨屋さんを冷やかし、細々した物を入れてあるハンドバッグを片手にウィンドウショッピング。
本屋さんで流行りのファッション誌に目を通したり、最近特集で取り上げられたカフェに足を延ばしたり。
目的もないまま、ただぶらぶらとあっちへこっちへ歩きまわる。
だから、その子供達を見つけたのはほんの偶然だった。
「子供が……泣いてる。迷子かな」
呟き、辺りをきょろきょろと見る。とにかく子供たちの方へ足を向ける。
繁華街の片隅、そこそこに人ごみのある往来で立ち尽し、ただただ泣きじゃくる男の子と女の子。
彼らは泣きながらもぎゅうと女の子の手を握りしめていて、どことなく似た感じのする顔立ちからきょうだいなのかな、と思う。
結構な音量で泣いているのだが、親御さんが現れる様子はない。
行きかう人々も一瞬だけ子供たちに目を止めはするものの、何事もなかったかの様にふっと目を逸らして立ち去って行く。
そういうのは寂しいなぁ、と思う。子供には差し伸べる手が必要なのに、この国の大人達はそれを忘れてしまっているかのよう。
せめて私だけでも。子供たちまで後五メートルくらいだろうか。ちょこちょこと、少しだけ早足で歩く。
そして。
「おーう坊主にお嬢ちゃん。どうしたどうした」
びっくりして立ち止まる。ふっと現れた男の人が、地面にしゃがみ込んでで子供たちに話し掛けていた。
少し長めの黒髪で、そして多分少しだけ背が高い。細くも太くもない男の人。年はどのくらいだろう。多分、年下。
ここからでは横顔しか見えないが、だらしなくない程度のラフな格好で子供たちに笑いかけるその顔にはどこか愛敬が滲んでいる。
優しそうに細められた目も、纏ったゆったりとした雰囲気も好ましい感じの人だ。
ただ、男の人は、胸ばかり嫌らしい目で見るから苦手だ。何となく話しかけづらくなって、丁度良い所にあった日蔭に入り彼らを観察する。
「うぇぇぇぇぇぇぇん!!」
男の人が話し掛けても、子供たちは一向に泣きやまない。どうするのかなぁ、と見ていると。
「……んお、坊主、お前凄ぇ良いモン持ってるな!? 野球が好きなのか?」
少年が握りしめている、スナック菓子にオマケとして付いてくるプロ野球選手のカードを指差し、首を傾げる。
それに反応したのか、少年はだらだらと鼻を垂らしながら少しだけ泣きやんだ。
ん? と男の人が首を傾げると、小さくコクリと頷く。
「んっふっふー。そんな少年に、俺も凄い物を見せてやろう!」
彼は自慢げに笑みながら、片手に持っていたビニール袋を漁る。
そこから手を引き出し、子供たちにほい、と掌を見せた。その手には何も握られていない。
何をするのだろう。
「よぅしいいかオコチャマ共め。今から不思議なこと見せてやるからな。今、俺こっちの手に何も持ってないよな?」
興味を引かれたのか、少年はじっとその手を眺めた。涙の跡はあるものの、ひとまず泣き止んでいる。
妹と思しき女の子は少年の手をぎゅっと握り、大きな目をうるうるさせながらそぅっと少年の後ろからその手を見ている。
「はい、何も持ってませーん。でもいいか、俺は魔法使いだから、呪文を唱えるとパッとお前たちが好きな物を取り出すことが出来るのだ!」
子供たちは、それこそ不思議なものを見る目で男の人を見ている。私にも何が何だか分からない。
傍を通り過ぎた女性が、男の人を見てくすりと笑みを零して行った。
「よし、特別にちょっとだけ魔法を見せてやろう。行くぞー、ちちんぷいぷいちちんぷーい!」
ぐっと差し出した手を握りしめ、芝居がかった仕草と声音で呪文とやらを紡ぐ男の人。
ほい! と叫んで再び開いた手の上には、真新しいカードと飴玉が一つ、乗っていた。
一体、どうやって取り出したのだろう?
見ていた私も全く分からなくて、んむ、と首を傾げる。
「わぁ! すげー! これレアカードだよ兄ちゃん!」
「ぁ……」
「ふっふっふ。こっちのレアカードは少年にやろう。こっちの飴玉はお嬢ちゃんな。ほら、友好の証だ」
「ゆーこのあかし?」
「あぁ、仲良くしよう、ってことだよ」
突然目の前に現れたカードを、真丸な目で食い入るように見ている子供たち。
人見知りがあるのか、少年の後ろに隠れるようにしていた女の子も、大きな目を見開いてじっと男の人を見ている。
男の人はカードと飴玉を子供たちの手に渡し、くしゃくしゃとその頭を撫でた。
二人とも、さっきまで泣いていたのが嘘の様に満面の笑みを浮かべ、はしゃぎながらもう一回やって! と騒いでいる。
得意げに笑った男の人は、
「ははぁ、特別だぞ。でも本当は一回しか見せちゃいけないんだ……そうだ、俺と約束しよーか。二人とも、も一度魔法を見たかったら泣いちゃダメって約束だ。出来るか? ……よしよし、偉いぞ。よぅく見とくんだぞ!」
「うん!」
と言って、今度は反対の手をぬっと突き出す。目を輝かせて大きくブンブン頷く子供たちの頭を一度撫でる。
そして、笑いを誘う位大袈裟で芝居じみた台詞と動作で再び掌を開くと。
「すっげーーー!」
「すごい……」
そこにはキラキラと光る飴玉の袋が二つ。一つずつ子供たちに渡して、男の人は子供たちに向かって首をかしげた。
「ははは、オコチャマ達が喜ぶから、今日は魔法も絶好調だな。そいで、今日はどうしたんだ?」
「何でもないよ! べ、別におれたちだけで何とかなるもん……!」
子供たちの機嫌は急転直下。
少年はむくれた様に口を尖らせ、女の子はじわりと涙を浮かべる。やっぱり迷子なのだろうか、酷く不安そうだ。
「おや、泣いちゃダメだぞー、約束したろう? ほら、涙を拭きな。可愛いお顔が台無しだぞ」
女の子に向かって笑顔を向け、指先で彼女の涙をぐしぐしと拭ってやると、女の子は恥ずかしそうに俯いた。もう泣いては居ない。
今度は少年の方を向く。涙と鼻水でぐちゃぐちゃのままの顔を、ポケットから取り出したティッシュで拭ってやっている。
「よーし、見た所お前は兄ちゃんだろう?」
「う、うん」
「じゃあ、妹は絶対に、兄ちゃんのお前が守ってやらないといけないんだ。分るか?」
「そんなの分るよ! ルリは俺の妹だからな!」
やっぱり兄弟だったのかぁ。涙を拭うと、かなり愛らしい顔立ちのきょうだいだと良く分かる。
「そうだな。じゃあ、いいか? お前さんはルリのことを、泣かせたりしちゃあいけないんだ。そんなのは格好良い男のすることじゃない。さっき、この子は泣いてたろう? お前が男で、お兄ちゃんならちゃんと、どうすれば泣かなくて良くなるのか考えて、守ってやらなくちゃならん」
気温三十度を超す炎天下の中、熱心に子供相手に兄とは、を説く男の人。少年は、小さな体でも妹を守らねば! と決心したようで、
「うん!」
大きく頷いた。くりくりと良く動く瞳には、今は活発な少年らしい感情が浮かんでいる。先程までの不安げな光はかけらも無い。
「お、いいぞ、元気良いな。なら、今さっきはどうして妹が泣いてたんだ? もしかしたら俺にも何か手助け出来るかもしれん」
人懐っこく笑う男の人は、真っ直ぐに少年の目を見てそう尋ねた。子供には子供なりの、プライドや考えがある。
それを、ちゃんと理解しているのだ。
子供というのは、いくら優しげな言葉を使っても、相手を信じていなかったら言うことを聞いてくれない。
素直な子たちだというのもあるだろうけれど、この男の人が対等に自分を扱ってくれることが嬉しかったのか、少年は誇らしさで頬を染めた。
「その……買い物の途中で、お母さんが居なくなっちゃったんだ!」
「ははぁ」
言って、顎を撫でる男の人。
居なくなっちゃった、というのは、恐らく迷子になったのが恥ずかしくて言ってしまったのだろう。
少し罰の悪そうな表情の少年だ。
「よし、じゃあお前たちのお母さん探しに行くの、手伝っても良いか?」
「……ふふ」
笑みが零れる。あの男の人は、どうしてこんなに対等に子供と向かい合っているのだろう。
言い方は悪いが、さっさと交番に連れていけば面倒はないのに。
子供のプライドを何よりも尊重しているのだろう。その姿勢が、心の琴線に触れた。
「うーん……仕方ないな! 兄ちゃん、一緒に行こうぜ! 俺、ダイチ!」
「おうダイチ、太っ腹だな! んで、ルリ、お前はどうだ? 兄ちゃんは着いてっても良いか?」
「……うん」
どうやら相当引っ込み思案な子らしい。しかし、ルリという女の子はおずおずとではあるものの、綺麗な笑顔で頷いた。
「よぅし、じゃちょっくら行きますかー」
気だるげにそう言って、ひょいとルリちゃんを肩車する男の人。
驚いた様なルリちゃんの声は、すぐに楽しげな笑い声に変わる。
そして、不満気なダイチ君の声が大きく響く。
「あー! ルリ、ずるいぞ! 俺も肩車が良いー!」
「まぁまぁ、レディファーストって言うだろう、ダイチ。ちゃんと代わるから、ちょっとだけ我慢しろ、な」
宥める様に言う男の人は、すっとダイチ君の手を握り、もう片方の手にビニール袋を下げ、肩の上にルリちゃんを乗せて人ごみに歩き去っていく。
すぐ後に、お母さーん! という少年の嬉しそうな声が響いて来て、ふっと頬を綻ばせた。
どうやら、彼らはちゃんとお母さんに出会えたらしい。
自分は結局何もしなかったけれど、ほっと安心する。
「何だか、不思議な人」
言い、笑う。
時計を見るともう二十分も経っていた。久しぶりに見た、何だか珍しい青年の後姿を心に留めながら踵を返した。
今日は、もう一軒カフェに寄ってみようかな。少しだけウキウキとした足取りで、雑踏に紛れて行く。
今でもはっきり覚えている。それが、彼との――三丈太郎との出会いだった。
「あれ……あの人?」
くり、と小首を傾げる。
夏の終わり、大学の夏休み中に何となく散歩している時に、どこかで見た横顔を見つけたのだ。
お婆さんを背負って横断歩道を渡っている。
「どうも、ありがとうねぇ」
「いやいや、お気になさらないで。暑いから気を付けてね、おばあちゃん」
「はい、本当にどうもありがとね、お兄さん」
聞き覚えのある声。少し考えて、ぽんと手を打った。
少し前、街中で子供たちと喋っていたあの人だ。
声を掛けるのも憚られるし、その時は何となく彼を目で追いながらゆっくり歩き去った。
それからと言うもの、街の色んな所で彼の姿を見掛ける様になった。いや、何の気なしに彼の姿を探していたのかもしれない。
「待てこらひったくりぃぃぃ! 唸れ渾身のォ、真・ドロップ・キィィィィィィィック!」
「いってえ!?」
或いはひったくりの犯人を追いかけて荷物を取り返し、感謝されている所。
「ちょっとアンタ、あんまり猫に餌やらないでよ!?」
「す、すんません」
或いは捨て猫にこっそり餌を与えて近所の人に怒られている所。
「大人げなくホームラーーン! ……あ」
「やーい! 打ち上げてんじゃん! アウトー!」
或いは子供たちと野球やサッカーに興じている所。
優しかったり、適当だったり、彼は意外と、街の色んな所に出没していた。
私と同じで、散歩でもしているのかもしれない。
ただ、彼を見かける度に、私はこっそりと足を止めるようになった。
理由は特には無い。何と無く。
でも、最近出席するようになったパーティーで、色んな年代の男の人から同じような嫌らしい視線を浴びせられることが多くて、少しウンザリしてたのはあるかもしれない。
悩みの相談をしようにも、両親は忙しくておじい様は今どこか中東の方に出かけている。依然友人も、居ない。
何だか間抜けでゆったりした彼のことを見ると和むのだ。意識はしていなかったけれど。
そんなこんなで長い大学の夏休みも終わり。
ゼミに出る為に校内をぶらついている時に、私は彼の姿を見かけた。
頭部が異常に眩しい男の人と一緒に、ド突き合いながら楽しげに笑っている。
かく言う私は、諸般の事情で目立ちたくないため、大学では度の入っていない伊達メガネとウィッグで変装しているのだけども。
日本で金髪碧瞳は、とても目立つのだ。身にしみて知っている。
何となく彼らについて行き、そっと講義に潜りこむ。プリントに書き込む名前をじっと見て、初めて名前を知った。
三丈太郎。
何と読むのだろう。さんじょう? さんたけ?
これが、太郎の存在をしっかり認識した日のこと。
それからも幾度か街中で彼を見掛けることはあったけど、特にどうと言うこともなく、季節は秋に移り変わる。
私が彼を、男性としてはっきり意識した、季節だ。
その日、私はいつもの様にぶらぶらと街を歩いていて、でも珍しく、ガラのよろしくない男の人達に絡まれたのだ。
ニヤニヤ笑いながら、舐める様に私の体を見つめるその視線に怖気すら感じて、私は何とか逃げようとする。
でも多勢に無勢で、男三人の力に私が抗えるはずもなく。
しかも運悪く、人通りも少ない時間帯・道。
横づけされた車に連れ込まれそうになって。
絶望感に打ちひしがれた時にふらっと彼は現れた。
「何だテメェ!?」
無言のまま駆けよって来た彼は、私を捕えようとしている男たちの手を振りはらい、そのまま私の手を掴んで走り出した。
焦ってこちらに手を伸ばす男たちを置き去りにする、かなりのハイペースで。
「あ、あの……!」
「ねぇあれ助けて良かったの!? ひょええ追って来るー!」
「待てコラァァァ! ぬぐるあぁああああ!」
初めて間近で聞いた彼の声は、思っていたよりも心地よく心に響く。
不思議と、気分が落ち着いた。
「とにかく、逃げよう!」
大通りを目指してひた走る。やがて、無事に人通りの多い道に出る頃には、私に絡んで来ていた男たちは居なくなっていた。
走り続けたせいと、恐怖と、そして手を握られたままだというドキドキで、私の息は荒い。
同じく荒い息を吐きながらさっと手を離した彼は、すぐ傍の自販機で缶のお茶を二本買い、一本を私に差し出して来た。
何故だろう。離れた手が酷く冷たい気がするのは。
「ど、ど、どうぞ……」
「あ、ありがとう、ございます……」
胸に手を当て深呼吸。お互いに一息吐いて、顔を見合わせる。と言っても、彼は私が誰だか分からないだろう。
いつもの様に変装して、まぁ目立つのはこの不本意な胸だけだ。
「いやいや……ベタな絡み方だったよネー」
「……そうですね……うふ、うふふふ。何だか可笑しくなって来ちゃいました」
「なはは、ホント、ぬぐるあああ! は無いですよねー」
笑い合う。
何だか、久しぶりに爽快な気分だった。
その後、お礼を固辞する彼からは名前を聞き出すことしか出来なかった。
みたけ、たろう。
名前を呟くと、ほんのりと胸が温かくなる。
いつもより少しだけぽかぽかと暖かい、浮ついた気分で、私は去っていく彼の背中をいつまでも眺めていた。
「レティシアー! 今、帰ったぞ! ぬぅはははははは!!」
「おじい様! お帰りなさい!」
その晩。少しだけ傷の増えたおじい様が家に帰って来た。
久しぶりに見るおじい様は相変わらずで、夕食を取りながら色々なお話をして私を楽しませてくれる。
象を殴り倒したとか、テロリストの集団に素手で挑んで勝ったとか色々。
とても現実のお話とは思えないけれど、その中に一つ、本当に信じがたい話が入っていた。
当時幼い少年が、とある災害現場で起こした奇跡の話。
妙に勿体ぶった話ぶりが引っ掛かって、私は沢山質問をした。
それは本当なの? 助けられた子は今? その子のお名前は?
おじい様の口から告げられた言葉は、余りにも衝撃的だった。
奇跡を起こした少年の名前は、三丈太郎。
街中で良く見かけ、今日私を助けてくれ、そして少し気になる男の人と同姓同名。
音を立てて血の気が引いて行くのを察したのだろう。何事かと心配するおじい様に、取り乱した私は何もかも話してしまった。
彼がその奇跡の少年と同一人物だとは限らないのに。
「……彼は、いかん。駄目だ。止めておきなさい」
むっつりと厳しい表情で言い切ったおじい様に、私は生まれて初めて反発した。
私にも意外と情熱的な所があるらしい。業を煮やしたおじい様から聞いたのは、彼の周囲は危険にさらされるかもしれないということ。
今思い出すと恥ずかしいが、私は更に食ってかかった。
丸々一晩掛けて、世界に存在する魔法のこと、彼が狙われる詳しい経緯まで全て聞き出してしまったのだ。
その気になれば、おじい様は自分で私を守り切る自信があったからだろう。
単純に、私が執拗だっただけかもしれない。
魔法とか、色んなことが頭の中をぐるぐると回って、私は部屋に閉じこもった。
考えるのは彼のこと。じっと身じろぎもせず、ただ彼のことを考える。
しかし皮肉にも、考えれば考えるほど、私は彼に惹かれて行っていることを自覚してしまうのだ。
二十も年の離れた、嫌らしい目で私を見る見合相手の存在もあったと思う。
簡単には断れない縁談であると聞いている。
相手が、父の企業と母の所属する会社、どちらにも強い圧力をかけることの出来る男だったからだ。
両親は私のことを大切に思ってくれているが、相手は権力を使って気に入らぬ物を陥れ、眼鏡に適う女性を片端から食い物にしているという男だ。
無碍に扱うことも出来ず、さりとて承諾も出来ず悩んでくれている。
しかし、このまま行けばほぼ確実に私はあの相手に慰み者にされ、飽きられたら捨てられるだろう。
それは、絶対に嫌だ。
その時の私は、誰かに助けて欲しかったのだ。
だけれど、ふらりと現れ、そして私を助けてくれた人は、今想像も付かない窮地に立たされているという。
どうしたらいいのか、どうしたいのか、それだけをじっと考える。
結局、私はそれから二日間、ろくに寝もせずに引きこもって考えた。
おじい様に話を聞いてから三日後の朝、私は身支度だけを整え、おじい様の部屋の戸を叩いた。
「ん、レティシアか……入りなさい、顔色が悪いぞ……」
珍しく心配の色を濃く浮かべるおじい様に苦笑を返し、この三日間で考えたことをぽつぽつと語った。
彼のことが多分、好きだということ。
お見合いが嫌だ、ということ。
何とか彼を助けて上げたい、ということ。
私には力が無かった。私一人では何も出来ない非力な小娘だ。情報も、お金も、純粋な力も無い。
だから、おじい様にそれを欲したのだ。
私の懇願が珍しかったせいか、おじい様は二つ返事で私の願いを聞き届けてくれた。
私はおじい様に情報の集め方を教えてもらいながら、まずは三丈太郎のことを調べることにした。
これは酷く簡単だった。彼はあくまで普通の大学生なのだ。義妹が居ること、住んでいる場所、年齢、健康状態。
一通り調べ終わると、今度は彼の周辺に目を向ける。
彼を狙う勢力の方針が、変わったとの情報を手に入れたからだ。
そんな、普通手に入らない様な情報をあっさり持ってくるおじい様が一体何者なのかは今になってもわからない。
情報の裏付けを取り、こっそりと人を雇って身辺警護用に遣わせた。
しかし、彼らは皆三日と立たずに連絡を絶ったのである。その後数回、人を雇ったが、同じ結果に終わる。
私は生まれて初めて心の底から身震いした。怖い。自分が直接雇った人たちが、どんどん消えてしまうのだ。
自分が関わったせいで、誰かが死んでいるのかもしれない恐怖。
同時に、こんなに恐ろしい人たちが彼を狙ってると知って、背筋の凍るような思いをした。
そして、情報整理の合間にちょくちょく街中で彼を待ち伏せして様子を伺ったりもした。
ストーカー丸出しだが、私はそうやって自分を落ち着けることしか出来なかったのだ。
何をしていても、ふと気付けば彼のことを考えている。
病気なのかもしれなかったが、同時に自分が何かの病気でないことも悟っていた。
これまでの人生の中で、ここまで他人に興味を持ったことは無い。ましてや恋愛など持っての他だった。
淡い好意を抱いた所で、相手は私の両親や両親の資産に気遅れして、離れて行く。もしくは、下卑た笑みを浮かべて近寄ってくるのが常だった。
だから、彼のことを気にしつつも、私は好きにならない様に、好きにならない様に、と念じ続けていたのだ。
実際は、気付いていなかっただけですっかり彼のことが好きになって居たのだけど。
一月が経ち、やがて季節が冬に移り変わる頃。
その頃には、もう誰か人を雇って彼を警護するのは不可能になっていた。おじい様でもなければ対応出来ないような怪物の姿が確認されたせいだ。
そのおじい様にしたって、怪物を差し向ける組織の手がかりを追ったり、どこかから入る依頼を処理したりでずっとはこの街に居られない。
それに、見合いの期限も迫っていた。
それどころではないのに、と日に日に焦りを募らせていく私を見かねたのか、おじい様はある日一つ提案をした。
「レティシア……もしもお前が望むのならば、我輩の魔法をお主に伝えることも、出来る」
「私が、魔法……」
シックな調度品で揃えられたおじい様の部屋。葉巻きをくゆらせながらおじい様はそう呟いた。
私には魔法の才能があること。魔法は最も強い欲望に応じて発現すること。
おじい様と直接の血縁関係がある私ならば、代償が必要で、しかも劣化はするものの、無理やりおじい様の魔法を手に入れることが出来ること。
何もかも手詰まりで、何とか状況を打破したかった私は、しかし聞かされた『代償』の大きさに丸一日を費やして考えた。
そして、決意した。感情を基に、感情を切り離した冷徹なメリットとデメリットの計算の末の決断だった。
あるいは、既に私は狂っていたのかもしれない。
「おじい様! ……私に魔法を、授けて下さい……!」
手に入れるべき魔法は、修練によって魔法の限界を越えてしまったおじい様の持つ、『肉体強化』の劣化版。
人間という種の持つ限界まで身体を強化する魔法。そしてそれは同時に、『常識』を逸脱した存在に対して、相克的なまでの攻撃力を持つ魔法。
根底にあるのは、ただ、三丈太郎という青年を、例え自分を犠牲にしてでも『守りたい』という気持ち。
代償は私の持つ、私を構成する『女性性』。女としての魅力、と言い換えた方が分かりやすいかもしれない。
魔法を展開すれば、私の体はそれこそ常識外の――しかし常識の範囲内限界の、屈強な肉体へと変化してしまう。
だが何よりMPを、精神力を消費する代わりに、常識外の怪物達に有効な打撃を放つことが出来る。
ただし、代償として――たった一度でも魔法を解けば、怪物に対する相克の力は失われてしまう。
彼の周囲に安全が確約されるまで、私は自らの『女』を捨てることを決意したのだ。
それから魔法を習得するまでの一月、私は生まれて初めて血反吐を吐いた。
本来ならあり得ない『魔法の継承』は、脆弱な私の身には些か以上に厳し過ぎたのである。
対怪物を想定した格闘訓練に、護衛の心得。
時間が無い為に実戦形式で、おじい様に毎日叩きのめされながら、私は少しずつ魔法を、強引に手に入れて行った。
ある程度満足出来るレベルに魔法を安定させると、私は積極的に動くようになった。
彼の周辺には気付かれないように巧妙に、怪物達が潜んでいたのだ。
幸い、怪物達は倒しても非常にグロテスクな死体を晒すようなことが無い。
魔法と科学を強引に組み合わせて作りだされた彼らは、命が尽きると灰になって消えてしまうのだ。
何故かは分からないが、都合が良いのは確かである。
そうしてまた月日が流れ、春になる。
魔法の効果は想像以上だった。メリットは想像以上だ。
私が自分で対処出来るのならば、雇った人間が怪物に襲われることは無い。
アレだけ重く私の心に圧し掛かっていたスケベ親父との見合いは、この肉体を見せるだけであっさりと破談になった。
喜ばしい限りである。
ただ……デメリットも果てしない。
この肉体になって涙する日ももちろんあった。それにそもそもこんな姿では彼の前に姿を現す訳にもいかない。
初めて怪物と対峙した時は足が震えて訓練通り動けなかったし、初めて怪物を殴り……殺した時は何度も何度も嘔吐した。
怪物とは言え、生き物を殴る感触は手から離れず、その断末魔は耳に張り付いた。食事も喉を通らず、眠れない夜が続いた。
そして私は口調を変え、考え方も少し変えた。出来るだけ女性らしさをそぎ落とし、怪物に対する攻撃力を上げる為に。
それでも、どうしても髪は切れなかった。それに、どれだけ意識しても、私は言葉の端々で女を意識した言葉を使ってしまう。
しかし流石にそこまで変えてしまうと、私が『何』であるかも分らなくなってしまう気がして、気にしないことにした。
私は女で、だからこそ彼を守りたい、と思い、彼を守るためにこそ女を捨てているのだから。
私は以前とは変わってしまっただろう。浅ましく汚れ、穢れ、彼に相応しくない醜い女になってしまったのだろう。
だけれど、彼を好きな気持ちだけは変わらずに持っていたい。
毎日、こっそりと怪物を戦って秘かに彼を守る日々が続く。
いつしか最初の頃に感じていた気持ち悪さも感じなくなっていた。淡々と、ただ身勝手に彼を守るという目的の為に、倒れるまで拳を振るう。
おじい様は怪物を差し向ける組織を追って、またヨーロッパの方へと旅立っていた。
誰にも相談できず、気丈に振る舞いながらも彼を陰から眺め、満足する日々。
おじい様が怪物達の大本を何とかして下さるまで、私は彼に知られず、一人でこの戦いを続ける気概を持っていた。
しかしそれは、ある日あっさり破れてしまう。
怪物の一体が、私の監視の目を掻い潜って彼の目の前に現れたのである。
私は焦った。
こんな姿で彼の前に出るのは、その、女として恥ずかし過ぎる。
だが、実際に彼が襲われている所を見てしまうと、そんな小さな不安は全て吹き飛んでしまった。
私のことなんてどうでもいい。気が付けば無意味に名乗りを上げ、いつもの様に怪物を倒していたのである。
もうどうにでもなれと開き直った私は、彼の家に転がり込むことにした。
初めて彼と出会ってから、早くも一年が経つ。でも、彼はそれを知らないだろう。
夢にまで見た彼との触れ合いは、荒んだ私の心を急速に解き解していった。
彼は私を嫌悪しない。嫌だと思えばそう言うが、口汚い言葉で罵られる様なことは一度も無かった。
いつも最後は、何だかんだと受け止め、受け入れてくれる。
それどころか、街に連れて行ってくれたり、海に誘ってくれたり。
怒られたりじゃれあったり、強引に筋トレしてみたり、私は兎に角、泣きそうなくらいの幸福を噛みしめていたのだ。
データでしか知らなかった彼の義妹も不思議な人だった。
私を恐れる様子もなく、どう見たって彼女の方が綺麗なのに、私のことをライバルだと言って気持ち良く笑う人。
実は、あんまり嬉しくてこっそり泣いたのはここだけの話。
好きな人との生活と、大好きで大切な友達の存在。
折しも、怪物を差し向けていた組織をおじい様が壊滅させたとの報告もあって、私はすっかり幸せに浸っていた。
だからだろうか。油断して、とある組織に捕えられてしまったのは。
目が覚めた時の気分は最悪だった。
瞬時に何が起こったのかについて頭を巡らし、でも目の前に居る、いつもと少し雰囲気の違う彼の姿に胸が高鳴る。
そしてぞっとした。何をされたかは定かでないが、体が元に戻っていたのである。
一応おじい様が組織を何とかしたとはいえ、怪物が現れないとも限らない。
これでは、彼を守る為に傍に居ることが出来ない。そうまで思った。
それに……考えたくもないことだけれど、もし、意識を失っている内に乱暴されていたら……。
体に変調は無いので、多分大丈夫だとは思うが、酷く心配だった。こればかりは、杞憂に終わって良かったと思う。
それから何だかんだあって、どうやら彼は、私を、女として何の魅力も無い私を助けるために無茶したのだと知って、悦びと哀しみを覚えた。
彼が優しいのも、お人よしなのも私は良く知っている。私が女だろうがそうでなかろうが、彼ならば助けに来てもおかしくない。
そんな予感が胸の内にあった。
だから、告白された時は心臓が高鳴り過ぎて死ぬかと思ったのだ。
まさか、そんな。
女に戻った私の体を撫でる彼の視線は、気恥ずかしさこそ伝わるけれども今までの男たちの様な邪悪さを感じない。
言葉に出来ない色んな思いが胸の奥から溢れでて、止まらなくて、正直、撫子と久美子さんが横槍を入れなければちょっと危なかったと思う。
――ああ、私はこんなにも幸せで良いんだろうか。
身勝手で、汚い女なのに。
いつか、この話を彼にすることはあるのだろうか。その時、彼は何と言うだろうか。
心の芯から恐ろしく、しかし彼に隠し事をしたくない一心が私にはある。
だけど、わざわざそれを告げる様な無粋はしたくなかった。彼はきっと、私の罪もひょいと担いでしまうだろう。
そして何事もない様に手を差し出してくれる気がする。だからこそ、私は彼に対する気持ちの証として、この思いをずっと持っていたい。
私は彼を守りたいのであり、守って欲しいのであり、つまりは対等な関係で居たいのだ。
お互い欠点もあるし、完全なんかにはほど遠い。
すれ違いや喧嘩もきっと、沢山有る筈だけれど、頑張って二人で歩いて行けたらいいな、とそう思う。
……撫子が、愛人発言をしたのには肝を冷やしたけれども。
「何というか、本当に、我で良いのかなぁ」
久美子さんの診療所のベッド。個室として十分な広さを持つ部屋のベッドで、すやすやと寝息を立てる彼を見下ろして、私はそっと微笑んだ。
まぁ、いいか。幸せだし。他には何もいらないのだ。
ちゃんと女の子の体で、膝の上に乗せた彼の頭を優しく撫でる。むずがる様にむにゃむにゃと呟く彼が愛おしい。
これから先、色んな障害や試練があるだろうけれど。
「我は、太郎のことが好き、だからな」
彼――太郎も、好きで居てくれると嬉しいな。心の中でそう呟く。
他に誰も居ない、静かな病室の昼下がり。差し込む日差しは優しく、頬を撫でる風もまた、柔らかい。
普通とは決して言えない私の恋は、こうして鮮やかな大輪の花を咲かせたのである。
膝にかかる愛しい重みを感じながら、ゆっくりと微睡みに誘われて、私はそっと瞼を下した。
読了お疲れさまです。
これにて本筋は完結ですが、後日談・次作もぼちぼちうpするつもりなので、どうか御贔屓に……。