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雲が飛ぶ。  作者: ゆ~の
3/9

新聞とチョコレート

 がっかりするにはまだ早い。晴天吉日、日曜日。気張って出かけた墓石前には、既に向日葵チョコと、カスミ草。

 やって来たのは午前九時。愚痴って帰る頃には、時計の針も十時半。

(……どこ、行こうかな)

 わびしく一人温泉への買い出しにでも行こうかと考えて、いびつに地面に埋まった葡萄酒色の岩から飛び下りる。

 視界の上隅から飛び込んで広がる、水色ソーダと白いラ・フランスな空模様。

(……キレー)

 言語表現に乏しいのはご愛嬌。ゆずなは、純白を通り越して、黄金がかったぽっちゃり雲に、思わず口元をほころばせると、帽子の白いつばをキュッと摘まんでみる。風は満腹で熟睡している赤子のようにおとなしく。穏やかで、レースカーテンのような日和。

 ロングカーデのポケットの中にいる、チョコレートのセロハン包みを握り締め、水族館へと目標を設定。

 先日、真斗が行ってきたという水族館が、臨海公園の中にあったはず。

 そして、観覧車も。

 ゆずなは、落胆を抱えながらもパリパリと包みを指先でほどき、口の中に投下する。

 母より失敬。

(大丈夫。まだ会えるチャンスはたくさんありそうだもん)

 もう一度、今度は空を見上げて、大胆なくらいに手を伸ばす。

 どうして、なんだか。

 少しだけでいい。あの積雲に近づきたい。

 そんな衝動に突き動かされて。

 恋しくて。

 上空は、いつだって無限に広がる雲図鑑。







 くるくる、くるくる。

 海水遊泳をする深海魚たちは、華々しさとは無縁とばかりに、暗い水槽の中を単調に行ったり来たり。反面、大空の光が遮られた世界に住むその生物達は、無知なくせに、飄々としていてかつ堂々としている。

 我に返って小走りになると、ゆずなは混雑する方のフロア、煌びやかな魚達が暮らす水槽へとつま先を向けた。

 魚類だって、外見至上。

 ピロピロと、囁くように館内の照明が演出するのは海でもなければ、地上でもない。曖昧な人工世界は、まるでゆずなの今の立ち位置のようだった。

 ちらちら、ちらちら。

 ちらちらちら、ちら。

 そんな光に導かれ、知識はないのに、一途に生真面目に魚たちを見て回る。

「……そうだ」

 ペンギンを見よう。

 思いついて、館外にあるゴールを目指して駆け上がる。近づくほどに人口密度は増していく。

 さすがは人気のエリア。

 やはり、ぽてりぽってりと行進している様子のペンギンは、人だかりのせいでちっとも見えない。

 せっかくだからと、強引に体をねじ入れようと試みて、硬直した。

(……え?え?)

 真斗がこの水族館を気に入った理由の一つは、ヤツのお気に入り場所だからだと言っていたような気がする。

(似合わない)

 けれども、水族館巡りが趣味の一つだとか。羽部に関する片隅の情報を手繰り寄せて、納得する。

 つまり、きっと、見間違いなんかではない。

 一人なのか。辺りを見回した。真斗の姿は見当たらない。

「……」

 いないらしい。

 ゆずなは、仕方なくこっそりと恋敵の方へと視線を移す。いつになく、爽やかに見える男はやっぱり大人気なく手すりの大部分を独り占め。羨ましそうに、怒ったように、近くにいる少年が羽部を睨んでいる。

(……そうだよね)

 羽部はそういう男だ。更に、ホックでぶる下がったミニバッグからはみ出た新聞が、少年の頬をペチペチと掠める。ふっと、ゆずなには見せない柔らかな笑みを浮かべるのは、ペンギンが相手であるからか。真斗の恋人ではなく、同性愛者でもなかったら。確かに、二人が並んで歩く姿は、褒めてもいい。彼が好きになった人だから、冷たい人ではないはずだ。

 ないはずなのに、それでも。

(……私のこと、嫌いなんでしょ?)

 身勝手な見解。自覚もある。だが当然、テンションの上がる事実ではなくて。

(私って、バカ)

 好かれたいとも思ってはないくせに。ジッと見つめすぎたせいなのか、はたまた偶然の交差が同時に重なったのか。

「!」

「……」

 目が合って、ビクリと怯えたゆずなは迷った挙げ句に、一歩を踏み出す。彼女の存在を認めた羽部ではあったが、そのまま何事もなかったかのようにして、手すりに体を預けて注意をペンギンに向けたのだ。

(……意地悪だっ)

 ゆずなは頭一つ分飛び出た男の背後に到着すると、口調に怒りを乗せて呼びかけた。

「無視しなくてもいいじゃないの」

「……お前」

 チラリと視線を後ろに投げて、彼は呟く。

「何でこんなところに?」

「気分転換よ」

 観覧車に乗って、なるったけ高い場所で雲を見たくなった。

 そんなことを言ったら、バカにされるのは目に見えているから。

「友達いないのかよ?」

「失礼ね。一人の週末だってあるじゃない」

「まあ、そうだな。俺も今日はそんな感じだしな」

 珍しく素直な返答をもらえて、ゆずなは驚く。

「真斗は?」

 明け方、二人してリビングにいて、映画をつけっぱなしにしながら爆睡していた。

「休日出勤。会社のボーリング大会だとさ」

「……そうなの?」

 そんな事は、聞いていない。

 彼に置いてきぼりにされるのが怖いだなんて、子供みたいだとゆずなは落ち込む。

 でも、淋しい。

 ぐう。

「腹が減った」

「……」

 デリカシーなく、羽部が言う。

「やるよ」

 そこで、そんな男に引っ張り入れてもらえた隙間に立つと、ペンギンの姿がとくと見れた。

「……ありがと」

 手すりを掴む握力が増した。羽部の差し出した手の平に所在なく転がるチョコレートを、マジマジと見つめる。

「?」

「……このチョコ」

「ん、いらねーの?」

 引っ込められそうになった羽部の腕を慌てて引き止め、握り締めて、尋ねる。

「……これ、真斗にもらったりなんかして」

「ん、そうだけど。お前ももらったの?」

 それがどうしたとばかりに、小粒なチョコレートを奇怪なほどに見つめるゆずなに対し、訝しそうに表情を歪め、羽部は頭を掻いた。

「……妬いてんじゃねえよ」

「違うの」

(そうじゃないもの)

 ちょっぴり、期待をしただけだ。

(真斗なのかもって)

 だって、日曜日は買い出しだと言って頻繁に出かける彼に、ゆずなは最近、ついて行ってはいないのだから。

「おい」

「……」

「メシ、食いに行こうぜ」

(でも、真斗。背は高くない)

 むしろ……。

「おい、聞いてんのかよ」

 苛立ったように、体を折り曲げた羽部は覗き込む。

「うへっ、まさか羽部!?」

 突然、視界を男の顔に塗り替えられて、あらぬ考えへと結びついてしまった。

「何キョドってんだよ。俺がメシに誘ったのが、そんなに嫌か? あ?」

「……羽部ぇ」

「な、んだ」

 まさか、ありえない。まして、お墓はこことは逆方向で。

「ピザ」

(ナイ、わ)

「……んだっ、お前はっ」

 憤慨した羽部が、大股開きで歩き出す。

「おごり?おごってくれる?」

「絶対に割り勘。フテーヤローだな。お前におごるメリットがないだろ」

 ゆずなは膨れっ面で追いかける。

 お腹は確かに空いている。

 結局は、歩き出したヤツの背中を追いかけて、その後の小一時間ほど館内を満喫させられた。思った以上に、魚に詳しかったから。

 説明を読んでも分からなければ、羽部に尋ねる。さすれば、バカ呼ばわりとともに模範的、興味深い回答を授けられ、あらためてゆずなに対する日頃からの羽部の不親切な態度を実感してしまった。

 だって、どんな気まぐれか今日のリードは完璧だ。まあ、臨海公園からは出ることなくして、お昼の最中ではあるけれど。

 たこ焼きとホットドックとウーロン茶。

「……」

「たこ焼きは旨い」

「……」

「……何だよ」

「マヨネーズ」

「かかってんだろ」

「羽部がマヨネーズんとこばっかり食べるからないじゃない!」

「はいはい。焼きそば、食うか?」

「ピザが良かったのに」

 恨めしそうに呟けば、芝生の上に広げた経済新聞をベリッと鳴かせた羽部が立ち上がる。それから、あっという間に露店の前まで駆けて行き、焼きそばパックと小分けのマヨネーズをちらつかせながら戻って来たではあるまいか。

(……この人も、どうしてホモかなあ)

 ぼんやりと、ゆずなは戻ってくる男の姿を眺めながら、たこ焼き二つを口の中に放り込んだ。

「ほらよ」

 残ったたこ焼きも、あと二つ。

「……お前。何で食うかね」

 呆れた羽部が、ゆずなの脇に腰を下ろすと勢いよく焼きそばを掻っ込み始めた。

「良く来るの?」

 黙っていたら、良い男なのに。

「ここにか?昼間だけな。営業にかこつけたサボり場ってところだ」

「サボり……」

 ゆずなは、封を開けながらたこ焼きにぴぴぴ~っとマヨネーズを大量にのせる。

「……うげっ」

「いい所だよね」

「ああ。でも、夜には来んなよ」

 ゆずなが見上げた先に、観覧車を見つけた羽部は眉根を寄せた。

「…ねえ」

「断る。お前と乗るメリットがない」

「じゃ、じゃあ真斗とは乗ったの?」

「さあな」

 ニヤリと笑って、焼きそばを手渡された。紅ショウガが豪快に麺と絡まっていて、今度はゆずなが嫌そうに見つめてから口に運ぶ。

「……こういう食べ方、真斗嫌がらない?」

「嫌がる」

「……」

「悪い、ちょっといいか?」

 羽部は片手でライターを取り出して、煙草に火を点した。

 初めて知った。

「吸うんだ?」

「離れようか?」

「別にいいよ」

 好きな匂いではないけれど。

「へえ、意外」

「お父さん、よく吸ってたから」

「……なるほど」

 真斗から、少しはゆずなの身辺事情が伝わっているに違いない。彼女は、恋人同士の邪魔をしているわけなのだから。

「……真斗、羽部と一緒に住みたがってる?」

「さあ、アイツがそう思ったら言ってくんだろ。俺は、あんまりアイツをせっつく気はないよ」

「私には嫌な態度なのにね」

「……誤解もはなはだしいヤツ」

 羽部は上機嫌で煙草を燻らす。

 潮風が少しだけ、膝小僧に凍みた。

 家族連れも多く、周りにもカップルだらけ。今頃気がついて、ゆずなは羽部の長く伸びた髪が重たそうに靡く様を眺めていた。

「……真斗と付き合い始めた直後、だったな」

「ん?」

「お前を紹介されたの」

「ああ、だね。でもさ、お互いに知らなかったもんね」

 恋敵だって。

「俺は直感で悟ったけどな」

「へえ」

 そんなの、ゆずなは全然気がつかなくて。真斗の友人はさすがに素敵だな、などと呑気に握手を求めてしまったものである。

 ただ一方では、初対面にもかかわらず、どうもしっくりこない違和感と既視感に囚われたのは、羽部の外見が万人受けするせいなのかと思ったが。

(敵意だったの……?)

 羽部を見ていると、こんなふうにして、唐突に思い出すことがある。

 柚香が交通事故で亡くなって、真斗と泣いて。戸籍上の父親が、申し訳なさそうにゆずなに会いに来て。

 そんなあの日のことを。

(……どうしてかなあ?)

 この男を見て思い出す理由は、見当たらないのに。

 あの時、病院に駆けつけた時の違和感。そんなものを思い出しては、首を傾げる。

 果たして何だったのか。

 その後は、父親に葬儀を手伝ってもらい、彼の善意の申し出を断った。母親に対する裏切りを、まだ当時は許せるほどの大人でもなくて、大学を中退してまでも自立を目指した。あの頃の真斗も、どこか茫然自失で、でも支えてくれたことで。今がある。

 最近は、合間に羽部兄妹が騒がしくうろついて、ゆずなの近くで喚きながら、時々笑顔をくれる。

 それは事実。

(意地悪なんかじゃ、ないんだよね)

 本当はとっくに気がついているのだ。真斗に固執するだけ、もはや時間の無駄だということに。ただ如何せん、知った時期がよろしくない。あの、意固地になって凹んでいた頃なのだから。そんな時に知った“想い人が同性愛者だったなんてっ!”

 頭と心は違うから、受け入れるのを拒否して、そのままになっている。

「……親父さんは?」

「ん、相変わらず。やっぱりね、麻痺症状がたまに出るんだって」

 父親の新しい奥さんが言っていた。

「お前も、心休まる時間がねえっちゃねえのな」

 去年の夏、脳疾患で父親が倒れた。

「そんな歳なのかな」

「ん?」

「周りでも、死に直面する機会が増えたんだよね」

「まあ、俺らも歳食ってくからな」

 当たり前の事。

 でも、そんなふうになってようやく父親を許せた気がした。

 本当に。

 過ちばかりの人生だ。

 皆そうに決まっている。

 真斗だって、ゆずなと暮らしているこの時間が過ちなのかもしれない。本来ならば、今ゆずなの隣で煙草を揉み消している羽部と暮らすべきなのであろうから。

(……来週、どうしよう)

 いや、もう今週。こんな状態では、さすがに誘うなんて難しい状況だ。

 しかも、先週の段階で誘ったにしろ、真斗は会社のボーリング大会だったのであろうから。

 だがしかし、キャンセルの文字だけどうしても出てこない。

 別の友人を今から誘って、同意をもらえるだろうか。

 何故なのか。

(何でこんなにむきになっちゃうのかな?)

「……ねえ、真斗のこと好き?」

「愚問だろ」

「真斗も?」

「野暮なこと訊くなよ。聞いて傷つくんだろうが、てめーはよ」

 ゆずなはムッとして羽部を睨む。

「そんなこと」

 なくはないが、もう十分に理解している。

(……真斗が女の子なら良かった)

 そうしたら、こんな気持ちにはならず、親友になれたはずなのに。

 少なくとも、ゆずなの友情は偽りだ。

「真斗が女の子なら良かった」

「それは、俺も思うわ」

「男の子じゃないんだよ?」

「俺はどっちもイケるっつうか……」

 羽部は決まり悪そうに頭を掻いて、ゆずなへと首を捻る。

「羽部はどっちも好きだって言うけど、そうは見えない」

「……どういう意味だ」

「あのね、二人ともホモには見えないのっ」

 二人とも、今時の成年男子でちっともそんな気があるようには感じられない。真斗に関しては、男の子の真斗との方が付き合いが長いからかもしれないけれど。

「……ホモって言うな。だって俺、基本は男より女派だもん」

「っ……」

 真斗は特別。

 そんな風に聞こえた。

 立ち上がった羽部が、グシャグシャと新聞を丸め出したので、ゆずなも真似てグシャグシャと新聞紙を丸める。

 目に入った腕の時計は16時。

「……」

 太陽はまだ絢爛。触れたい雲は、目測だけなら低速行進。

「ゆずな」

「何?」

「貸せ」

 丸めたゴミたちを、羽部がまとめて捨てに行く。

(気が利くじゃないの)

 何だか別人みたい。

 きっと、そう。羽部だって真斗を挟まなければ、ゆずなともそれなりに仲良くしてくれるのだ。

 何だか悔しい。自分だって真斗が大好きだ。片思い歴だって、羽部慎一なんかよりもずっと長いはずなのに。

「ねえっ、羽部」

 ならばせめて。真斗とは観覧車にすら乗れぬというのなら。

 再び売店に立ち寄り、何かを購入しているもようの羽部に対して大声で呼びつける。

「何だよ」

 戻って来た恋敵の手には、経済週刊誌が握られている。

「観覧車に乗ろう」

「嫌だね。何が悲しくてお前と乗らねばならんのだ」

 そんなの、ゆずなが乗りたいからだけれども。少しくらい、二人のデートコースに揶揄を入れてみたいのも確か。それから、最もな動機であり、目の前のこの男には秘密にしておきたいこと。

 あの雲を、もう少しだけ近くで見てみたい。

 自由に飛行する雲が、まるで幸せの象徴みたいで、羨ましい。

(だから、ちょっとぐらいはいいじゃないの)

「羽部」

 泣きたくなる。

 急に泣きたい衝動に心を捕縛され、羽部をねめつける。

 人間は生まれながらにして情緒不安定な生物で。そのくせ、歳を重ねるたびに、よりあやふやな要素で心がうねる。

 幼い頃の情緒不安定要素は明確で、至極単純だったのに。

「……」

「羽部っ」

「……分かった」

 分かったよ……。もう一度繰り返して呟く羽部が、ゆずなの手を握る。

 それは、彼なりの謝罪なのかもしれない。

 真斗は彼のもの。

(羽部だって温かい)

 時々、人の温もりが妙に恋しくなって、涙したくなって。今は、それが叶って、安堵した。贅沢を言ったらきりがないけれど。羽部ではなくて、想い人であったならば至福ではあったが。今は超越した、もっと深い場所にある根本的な温もりを手の平で感じる。個体ではなく、同じ人間が周りに存在すること。生きていて、側に温度があること。

「……羽部」

「面倒くせぇ女だな。真斗の気持ちが分かっちまうのが嫌なんだ」

 そう言って、差し出された二個目のチョコレートは少しだけ、柔らかい。口に入れたゆずなは、機嫌を直して観覧車へと踵を蹴った。

「俺は読書するから、話しかけるなよ」

「うん」

 ゆずなだって、羽部と観覧車で語らい合う義理も下心もないから、素直に頷いた。

 そう、空に浮かんだ雲を幻でもいい、捕まえてみたいだけだ。







「ただいま」

「お帰りなさい!」

 玄関先で待ち構えていた真斗に熱烈歓迎の抱擁を披露され、ゆずなはのけ反って恨めしげに見つめた。

「痛い」

「どこに行ってたの?」

「んっとね」

 説明しかけたゆずなの背後から、羽部のおどけた声がする。

「おっす」

(……わっ)

 耳たぶを反射的に押さえたゆずなと、突然の彼氏の登場に驚いた真斗が、パッと自分を放り出して脇によける。

(ひどっ)

「慎!?何してんのよっ」

「それはこっちのセリフだっつの。俺のお気に入りスポットをベラベラとしゃべりやがって」

「まさか、ゆずなっ!」

「な、なに?」

 剣幕に、羽部も隣で唸り出す。

「何もされてないでしょうね!?」

「するかっ」

 羽部は真斗の頭をグリグリと押さえつけると、呆れ顔で靴を脱ぎ出した。

「慎ってば」

「水族館でばったり会っちゃった」

 追いかける真斗に、ゆずながのほほんと告げる。

「それで、はた迷惑なケンカとかしなかったんでしょうね」

「してないよ。何とか、ね。無言だったし」

 観覧車の中での、お互いがチグハグでバラバラだった情景を思い出す。

「そうなの?楽しいの、それ」

 そう告げて、穏やかに口角を上げて笑う真斗はやっぱりカッコいい。真っ直ぐで色素の薄い猫っ毛とか、何気なく力持ちで優しいところとか。今だって抱きついたところから、さり気なくゆずなの荷物を運んでくれているところとか。

「今日はボーリング大会だったんでしょ?羽部が拗ねてたよ」

「そう?拗ねてた?」

 安堵したように微笑む真斗が、ソファで踏ん反り返って缶ビールのタブを起こす、そんな無作法な男に駆け寄って行った。

 よしよしと頭を撫でる。

「寝るし、泊まるからシャツだけ貸せ」

 真斗の寝室にある大きめのスーツの主は、羽部である。

 明日の出勤は、ここからというわけだ。

「はいはい」

「メシ食べたら寝るからな」

「分かったわよ。ゆずな、一緒に作ろっか」

「ん」

 こちらを見ないで鼻を鳴らす羽部に首を傾げながらも、ゆずなは真斗について行く。

「何か食べたいものがある?」

 腕まくりをする真斗の肘には、男性特有の太い血管の浮き沈みが見えて、ゆずなは悪戯にソソソっと指先でたどってみる。

「何するの?」

 照れたように、ゆずなの額に触れ返す指が、そのまま鼻頭をつつく。

「あ、あのね……」

「ん?」

「おい、いなり寿司!いなり寿司が食いてえ!!」

 テレビのバラエティ番組の笑い声に混じって、羽部のだだっ子のような要望がキッチンまで届けられた。

 ちょこんとゆずなが顔を、リビングへと覗かせれば、剣呑に男から睨みつけられる。

「……」

 隙がない。

「分かったわよおっ」

 真斗が呆れて声を張り上げた。

「甘くしろよな」

 甘く……。

 ゆずなは思い出して、真斗に向き直る。

「真斗、チョコレートごちそうさま」

「チョコレート?」

「羽部がくれたの。真斗があげたやつ」

(……あ、あれ?)

 キョトンとした後、真斗は合点がいったらしい。

「……覚えてないけど、私があげたやつだって言うのならそうなんじゃないの?でも、アイツは常に甘いものを携帯してるわよ」

 真斗が苦笑する。

「そうなの?」

(まあ、辛党ではなさそうだもんね)

「私はほら、持ってても食べないから。いっつも慎一かゆずなにあげちゃうのよね」

「ふ~ん」

 そう言えば、オフィスでもらったお菓子はいつでも真斗は持ち帰ってくる。

「……ね、いなり寿司でも良いのかしら?」

「うん、いいよっ!真斗が作るのは何でもおいしいからね」

「ゆずなも上手になってきてるじゃない」

 相変わらずの、横着者だけれども。

「水族館て……観覧車があるところ?」

 真斗が冷蔵庫の扉を開けながら尋ねる。

「そうだよ。羽部にね、真斗と乗ったのかって聞いたらね、答えてくれなかったんだから」

 ゆずなが、米を計りながら蛇口を捻る。

「あははっ。慎は高所恐怖症だもの……頼んだって無理でしょうね」

「え……?」

 思わず、動きが止まる。

「どうしたの?」

 油揚げと玉子、ホウレン草を取り出した真斗が振り返った。

「……でも」

 ぼんやりと、見惚れる。

 男の調理姿ってどうしてこうも、ドキドキしてしまうのだろうか。

「でも……?」

 真斗が目を眇めて、ゆずなの隣でまな板を横にする。

 触れた肩に、心臓が飛び跳ねる。

「味噌汁も作るんだろうな?」

「慎!?」

 乱入してきた男と目が合って、ゆずなは慌てて口を閉ざした。

「真斗、お前はペラペラと自分の彼氏の弱点を吹聴すんな」

「……ごめん」

「俺は完璧だ」

 ぶはっ。

 ゆずなは吹き出した。

「そんなの嘘。傲慢だし、自己中だし……」

「てめえはっ」

「やめなさいよ。二人とも」

 いつもの如く開始をされてしまう口論に、真斗は間に入って喚くと、すかさず仲裁を試みる。

「図星でしょっ」

「お前みたいなドン臭い女に言われたくはないね」

 ゆずなはポンポンと言い返しながら、頭に響いて残る、高所恐怖症の文字を羽部に当てはめてみた。

 観覧車で無言だったのはそのせいだったのか。

 怖いなら、乗らなくたって良かったのに。

(……どうして?)

 羽部ならば、きっと高所恐怖症と自白をしなくたって、言い逃れはいくつも出来たと思うのに。

 ゆずなは苦笑を強いられつつも、ケンカをやめようとは思わない。

 羽部慎一もイイ男なのだ。

 分かっている。

(……そろそろあきらめ時なんだろうな)

 仕方がない。

 ピシャリと、羽部の顔面に狙いを定めると、両手で水滴を弾き飛ばした。


普通、全敷地内禁煙ですから。

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