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雲が飛ぶ。  作者: ゆ~の
2/9

背中を向けたまま

「黒コショウを、少々?」

 モスグリーンのシャーベットカラーに、ネイビーブルーでひつじ雲を描いたかのようなエプロン模様の端っこへ、視線を落とすと、ゆずなは困って首を傾げて戸惑った。コンロ上のレッドポットは、中身が煮えたとパカパカ鳴いて、彼女の真横で次の工程作業の催促を告げる。

「……ど、どうしよう」

 ゆずなはコンソメスープに揺られる、宝石のような淡いグリーンのキャベツ諸君に問いかけた。ただいま、手持ちで最も黒コショウと類似をしている調味料。

「黒ゴマだ!」

「この、おバカたれっ」

 カスタードレーズンパイをこしらえるべく、並びで丹念に生地をこね回していたはずの鈴木真斗が、彼女を制してハラハラと白い粒子を振り落とす。

「……何、それ」

「白コショウ」

「あった?」

「あるでしょうが、目の前に。アンタのお目めは節穴ですか」

 中華食堂などではお馴じみの、赤いキャップのソレを奥の棚へと、ゆずなには届かぬであろう高さまで、彼はわざわざ背伸びをしてまで仕舞い込む。

「それじゃ、見えない」

「もうこれ以上は入れちゃダメなのっ」

 ピンクローズの刺繍に水玉パープル模様を散りばめた、彼の前掛けレースを引っ張った。真斗がいては、レシピ通りになんて作れない。ゆずなは仕方なしに「お手軽お料理本」をポテンと閉じると、台所の角へと押しやった。

 鈴木真斗は器用なルームメイト。一緒に暮らし始めて、もう直ぐ一年。

(……いつ、言おう)

 本当は思い立ったが吉日。昨日のうちに勢いで誘ってしまいたかったのに、一週間も猶予ができてしまったがために、なかなか言い出せそうにはない。

“畔道に囲まれた温泉に、一緒にお泊りしましょ?”

 さらっと、何気なく。

 一年間、お世話様。

 理想はそんな感じで。

 生憎、ゆずなが望む関係には逆立ちをしたって、泣き叫んだって、叶わないのであろうから。せめて、大切にしたいこの友情。いつも窮地を救ってくれる、寛容で温かな広い手が、今だって呆れたようにして彼女の従順な前髪をくすぐっている。

「どうして、こうもモノグサかしらね。ゆずなは」

 白いTシャツに色褪せた黒いジーンズ。ミスマッチな前掛けにはレースがふんだんに施されている。先月の春物バーゲンセールに、二人で挑んだ戦利品。

「……いい匂い」

 ロールキャベツは、ゆずなの知らぬところで火加減調整までされていて、程良くコトコト笑い出す。

 やっぱりどうして一人では、こんな風には作れない。

「うん、美味しそうだわ」

 東北美男子特有の白い肌。某男子芸能プロダクションにいたっておかしくはない真斗。欲目かもしれないが。そんな風貌の彼は、笑うと愛らしく、コケティッシュだ。いつもは尖った奥二重が少しクールなだけに。

「お腹空いたあ」

 菜箸で、ロールキャベツをつんつくと突っつく。一人頭は二つであるから、八つが寄り添うように揺れている。それに、炒めたバターライスのお米は四合。香る食卓、お昼のセッティングは間もなく終了。

 となれば、真斗を独り占めできるゆずなの時間もやむなく終了。

「ゆずな」

「ん?」

「もう少しで、羽部兄妹が到着よ」

 ふわりポカポカお日様薫る、そんな温もりを届けるかのような、幸せいっぱいの笑顔。彼の表情が、ユルリと溶ける。締まりなく頬を緩ませて、目の前で別の誰かを想うのだ。

(……やだな、もう)

 彼女は、苦笑する。

 一番しんどかったあの時期に、躊躇いもなく一緒に住もうと、手を差し伸べてくれた友人。

 同時に、失恋もくれた男友達。

 ただ、ひたすらに楽しかった高校時代、一緒に遊ぼうとはしゃいで誘ってくれたのもいつだって真斗だった。同時に妬みも散々味わって、それでも優越感にほくそ笑んだ過去。社会人になった今も、それは変わらないのに……ただただ、男としての彼だけが欠落してしまった。

 消え失せてしまった。

 一年前のカミングアウトを境に、それまでは少なからず、例え彼の心が男の人ではなかろうと、漂っていた異性の面影。今や、口調からは完全に男言葉も消え失せている。

「あ、お塩足すからとってくれない?」

 お玉片手と菜箸片手に、真斗にせがむ。

「ちょうどいいわよ」

「薄いよ」

「薄くない」

「味しないって」

「するってば」

「しない」

「する」

「しない!しない!」

「味が濃くなるんじゃ、ボケが!!」

「あ、お、男口調だよ?」

「……やっだぁ」

 ピーンポーン。

(来ちゃった……)

 身をくねらせて、真斗はコンロの火を留めた。

 待つ暇もなく、玄関扉の開閉音を耳にして、足音が一気にキッチンまでなだれ込む。

「おっすー!……おおっ、ロールキャベツじゃんか」

「ひゃ」

 ゆずなの旋毛に腕を乗せ、ポットの中身を覗き込んだ細身の男が、彼女の想い人を振り返る。

「そうよ。慎、好きでしょう?」

「サンキュー。愛してる」

「作ったの、私だし!」

「んあ?どうせ、味付けしたのは真斗だろうが」

 押し黙る。言い返せない。

 見下ろす男の忌々しい重みを頭から払いのけ、ゆずなは美佳へと駆け寄った。自分よりも十センチ程も身長の低い美佳が、にっこりと微笑んで首を傾ける。ゆるゆるパーマで、セーラー服姿の羽部美佳は、兄とは七つも年の離れた妹で、瑞々しき現役の女子高校生。

「あれ、今日学校だったの? 土曜日なのに?」

 不思議そうに、真斗が言う。

「違うよ、これから公民館で部活なの」

「面倒だわね」

 美佳はゆずなに抱きつきながら、偉そうに威張って言い放つ。

「いいんです。それに、わたし、制服大好き!!」

「お前の場合、着てないと小学生に間違われっからな」

「お兄ちゃんヒド!?違うから、中学生だから!!」

(どっちにしても間違われちゃうんだね?)

 ゆずなは苦笑をかみ殺し、美佳の頭をポンポンと撫でてやる。

「優しいなぁ、ゆずなさん。お兄なんかより、ゆずなさんの方が絶対に素敵だよ!ねえ、真斗さん」

「バーカ。真斗は俺にメロメロなんだっつの。だいたい、どうしたらこんな弱っちい生物に惚れるんだ?」

「お兄は両方イケるのに?」

「……」

「ライバル、多くて困るわあ」

 真斗が溜め息の合間に、バターライスを盛りつける。脇では、ゆずながプチトマトを無造作に放り投げて皿に乗せる。美佳は、おみやげだと四つのプリンを箱から取り出して、慎一はさっさとソファに踏ん反り返る。

 ゆずながもたもたとロールキャベツを突っついていると、美佳が見かねてお玉を取り上げた。

「っけ。何にもできないのな」

「ひどいわ、慎。ゆずなはおっとりしているだけなのよ」

「そうだよ。ガサツなお兄とは違うんだからね」

 皆にフォローをされるも、それはそれで落ち込む原因ではあるのだが。

 羽部を睨んで、溜め息吐息。見た目もパッとしない、ただちょっと忍耐強いだけが取り柄のゆずな。

 まさか、この年でコンプレックスをこだわったりもしないけれど、羽部兄からは悪意を感じることも、ままあるわけで。

(気分が良くなるはずはないもんね、そりゃ)

 嫉妬と、了解はしている。いくら真斗が女性に関心がないとはいえ、仮にも自分の恋人が家族でもない異性と二人きりで暮らしているのだから。

 密かに、思うことだってあるに違いない。

(もう、考えたくないや。今日は、何しようかなあ。……あっ)

 放棄して、本日午後の予定を思案すれば、公開間近だった映画はいつからの予定であったかと、ゆずなは小首を傾げた。

 天気は快晴。

 映画観賞の後で、お墓参りに行くのが良いかもしれない。

 母親が亡くなって三年が過ぎた。おかげで、箱入り娘も無事に卒業。

 父親は相変わらずの入退院を繰り返してはいるけれど、新たな家族と共に幸せな暮らしを見つけた様子。

 かつては、父親と離別した母親があまりにも生き生きと幸せそうにしているものだから、そんな偽りの姿を信じ込み、見落としていたものも沢山あった。それらの事実に気がつくようになって、あらためて大きな感謝も生まれた今日この頃。

 それから、もう少しだけお金が貯まった将来は、途中で脱落するしかなかった大学へと編入するのもいいかと思う。

「ゆずな」

「はいっ」

「席につけ」

 気がつけば、準備は万端。羽部に、急かされる。

「……あ、ごめん」

 そうして、今日もいつも通りの土曜日が始まろうとしていた。







「……行っちゃった」

 美佳は食べ終わると同時に、部活があるのだとトランペットを抱きしめて颯爽と出掛けて行った。

 もちろん、真斗と羽部は二人でお出かけ。

 毎週、繰り返される代わり映えのない風景。

 ゆずなはカチャカチャと大量の食器をお湯で注ぎ、水を切ってはカゴにふせた。何だか、惨めな気持ちになるのはどうしてなのか。

 エプロンを外し、イエローブラウンのシュシュで束ねていた細い髪をほどく。おシャレなんて、そんな気分にもなれないけれど、会社は制服。休日くらいは私服を身につけ、鏡を見る。そんなクセをつけた。

「……またなの?」

 サファイアブルーとアメージングパープルが慎ましやかに煌めくピアスをつけようとするが、彼女の耳たぶは自然治癒力が高いのか、直ぐに塞がろうとした。

 ねじ込む。

 ポーチに定期を詰め込んで、ダークグリーンのワンピース姿でくるりと一回転。裾の小さなレースは、器用な真斗が「この方が絶対に可愛いわよ!」との主張の末に、ご丁寧に縫い付けてくれたものだ。ちょんと目立たなぬようでいて繊細、なのにポップなディテールは確かに可憐、我ながら良く似合っていると思ってしまう。

「よし!行ってきます」

 部屋の隅にある、写真立ての中の母親に、柔らかな笑みを返しながら、パキッと告げる。

 玄関から飛び出せば、陽射しがパラパラと降り注ぎ、反射した光のベールがスポットライトのように足元を照らす。

(……ふふっ)

 仄かにちょっと、舞台上の主役になれたような気がする瞬間。鎖骨下の傷んだ毛先を摘みながら、歩き出す。

 毎朝の通勤路。彼と住んでいるおかげで、駅からも近くてとても便利だ。おまけに、都内かろうじてでも23区内。

 電車に乗って、会社までの半分の乗車時間で吉祥寺。公園のある駅に下車して、のろのろと散策しがてらシアターを目指した。木の葉の隙間をぬっては、果敢に飛び降りるお日様の煌めきが、視界をくすぐって、上機嫌。

(……気持ちいい)

 ゆずなは、一週間の疲弊を浄化するように、夢心地で小一時間、深呼吸とフリマを脇見しながら闊歩する。抜けて雑貨店が立ち並んだ趣深い通りに折れて、テイクアウトでカプチーノ。真斗が喜びそうな不細工ナマズのヌイグルミを手にとって、即購入。各店から入り交じったファニーポップなごちゃ混ぜ和音を聞き流し、ゆずなは再び足を止めた。

 巨大なたこ焼きだ。

「……いけないよね」

 本日はのっけから浪費傾向のようだ。お昼だって食べたばかり。

(……三時、か)

 いや、今から映画館でポップコーンを頬張るわけだし食べすぎ警報。

 ゆずなは小走りになって映画館を目指す。

 目移りは後。

「あ……」

 チケット売り場に流れる電子文字。公開したての映画は満席表示になっている。さらには公開後初の休日だって事を失念していた彼女は、諦めた。公開終了間近の映画に変更。苦笑交じりで購入したチケットの半券を握りしめて館内に入れば、ほとんど、独り占め。

(……ラッキー)

 そう言えば、映画館に一人で観に行く女の可愛げのなさについてお昼の最中、羽部がとくと説いてはいたけれど。

(いいもん、別にさ)

 自分が一人で入れないだけでしょと呟けば、モノスゴイ目で睨まれた。

 あれで、それなりに仕事ができる営業マンだと言うから驚きだ。

 丸いカップにてんこ盛りのキャラメルフレーバーのポップコーンを膝に置き、特等席だと気分を良くする。

 天気も良好。映画だって好条件で観賞できちゃう。

 悪いことなんて一つも、ない。

 それでも、ゆずなは数時間後には襲ってくるであろう感傷の波に腹をくくって泣き出した。

 この映画は確か悲恋物の感動ストーリー。

 泣き顔で帰ったって、真斗は苦笑いですましてくれるはず。

「……っ」

 舌の上で、パリッとキャラメルの塊が転がった。







(……やっぱり)

 パステルカラーの小さな星屑が、仙花紙の上にいくつも散らばるの見つけて、ゆずなはホッコリと頬の筋肉を緩ませた。

 本日、母の墓石前にはこんぺい糖。

 自分以外の人間が、定期的に墓参りに訪れている。そう確信したのはつい最近のことで、初めて存在に気がついたのは、まだコートが必要だった三ヶ月前の第二土曜日。あの時は水仙の花と、氷飴。

(ねえ、誰が来てるの?)

 ゆずなが訪れるのは、偶数週の晴れた土曜日だけであり、奇数週にやって来たのは今日が初めてだ。綺麗に片付けられた墓周りの様子に、掃除の必要性も感じられずに、ゆずなはその場でしゃがみ込む。

 父ではないはず。

 ならば誰なのかと、考える。

 羽部と毎週デートの真斗は除外をされるし、大穴狙いで美佳だとも思えない。親戚には心当たりがないので、小首を傾げるばかりである。

 謎の人。

 先々週、その人物がやって来るかもしれないと、長時間待ったがためにお腹を下した。真斗よりも帰りが遅くなって、心配性の彼には些かしつこいくらいに怒られた。

「……恋人、いたりした?」

 娘のゆずなの目からでさえ、母は清楚で可憐な女性に映ったくらいであるから、おかしいことではなかった。

「あ、実はね。来週は温泉旅行に行くの。一人で……かもしれないけれど」

 行こうと決心をした時も、映画公開日同様に羽部慎一の存在をすっかり忘れていた。

 許すはずがない。あの男は、嫉妬の化身ではあるまいか。

 ゆずなは肩を落とした。

「真斗はイイ男だからね」

 柚香も熟知をしているところであろう。

 高校生だった頃、しょっちゅう男手のない遠藤家を訪れて、何かと助けてくれていた。

「……」

 感慨深く、ゆずなが母親を見つめて数分が過ぎた。

 ジャリと、砂利石を踏む音を聞いて、つま先に力を込める。人影が背中を通り過ぎて、とっさに勢いよく振り返った。

「こんにちは」

「……あ、こんにちは」

 バケツを片手に持った老婆が、隣の墓石にやって来た。

 それだけだった。緩慢な動きで肩を上げ、やたら天辺の方から水をあげようとする老婆の表情には、苦痛と嬉しげな感情が入り乱れている。

「お嬢さんも、そちらの方のお墓参り?」

「はい」

 シワくちゃにして、頬と顎の辺りに肉付きをよくした年配淑女は、よっこらしょと腰を屈めながら、ニコニコと微笑んだ。

「今日はとっても良い天気だもの。あ、そうそう……そちらの仏様には、素敵な殿方もよくいらしているものね」

(……えっ)

 のど元で小さな風が旋回したみたいな気がした。

「男の方、ですか?」

 無意識に前屈みになってしまう。

「ええ」

 やはり、柚香には恋人がいたのであろうか。そんな素振りは全くなかったけれど。

 思わぬ情報をゲット出来てしまった。

「毎週、いらしているんでしょうか?」

「どうかしら。私、日曜日が多いから」

「なるほど。先週はいらっしゃったのかしら?」

「そうよ。何度がお話もしたけれど、背の高い素敵な人よ」

「背が高いんですか」

「気さくでね……。まあ、私から言わせれば大抵の男性は長身だったわね」

 くしゃくしゃと笑う。

 ゆずなは、更に身を乗り出して、ゴックンと唾を呑み込んでから、老婆に尋ねた。

「その人、オカマでした?」

「やあね、れっきとした男の人よ。凛々しい雰囲気の……お知り合いではないの?」

「ええ、ちょっと分からなくて」

「まあっ、そうなのね。でも、お嬢さんと近い年の頃の方だと思うわよ。そうだ、いつも上着のポケットからお菓子を取り出すのよ」

 可愛いのよね。と、老婆はいたくご機嫌の口調で教えてくれる。

 誰だ、それは。

 だが、ゆずなは益々もって混乱をしてしまった。

 真斗は甘党ではない。むしろ、辛党だ。そこまで考えて、ゆずなは謎の人物と真斗が同一人物であったらと願う自分の思考回路に気がついて、呆れてしまった。

(明日も、来ようかな)

「おばあさんは、いつも何時頃にお墓参りを?」

「お昼前が多いかしらね」

「そうですか」

 ゆずなは日が落ちかけの茜色の夕焼け空を見上げて、なんとも言えぬ、込み上がる期待に胸を躍らせた。

(……会えるかな)

 柚香の知人で、しかも頻繁に墓参りに訪れてくれる、貴重な人物。

 この際、若かろうが男性であろうが関係はない。真斗以外とも母との思い出を語り合える、そんな存在がひょっとしたらいるのかもしれない。

 バリバリのキャリアウーマンで、多忙を極めていた柚香とは一体いつどこで知り合ったのかと想像には難しいが。ならばぜひとも、その経緯を教えていただかねばなるまい。

 ゆずなは、夕焼け色を反射したワンピースの裾を払うと、老婆に会釈を返して砂利石を踏む。子供のようにはしゃぎたい気持ちを抑え、明日もまた来ようと、唇を綻ばせる。

 そんな彼女の顎の先をくすぐるようにして、マロンシュガーの毛先っぽがホロンと揺れた。







「ご機嫌だな。ゆずな」

 恋敵は目聡い男だ。

 真斗の隣に陣取って、ソファでサッカー中継を観戦する彼らに対して、ゆずなはげんなりしながらお盆を持ち上げた。

「……玄米茶?いい香りね。……おやすみなさい」

「うん。真斗もおやすみ」

「んあ?お前もう寝るの」

 徐に、真斗の頬へとキスをした男が横柄な口振りで尋ねる。

 気分良く帰宅をすれば、戯れ合う麗しくもなんともない光景。

 いや、一般的にはイケているとも取れなくはないのだが、ゆずなには不愉快極まりない景観である。

 そんな時は芳ばしい玄米茶を煎れて、自室に引きこもる。

「うん」

 早く明日になればいい。会える確信なんてないのに、ゆずなは楽しそうに扉を閉めると、サックリと退散してしまった。

「……念願の彼氏か?」

 閉まった扉を一瞥し、無表情で見送る真斗に向かって、慎一は人差し指を色白の頬へとグリグリ捻じ込んだ。

「痛いわね!」

「……何、ジェラシー?」

「あのね、だってもしそうならよ……?あの、ゆずなですもの。色恋沙汰に免疫なんてないと思うのよね」

「そりゃ、ごもっとも」

 慎一も天井を仰いで、押し黙る。

 急に神妙な表情になった恋人に、真斗も口を噤んで後、彼女が消えてしまった部屋に視線を戻した。

「……心配?」

「は、だったらお前が様子見に行けば?」

「イヤだ、イジメのつもり?」

「んじゃあ、俺に行けと?」

 俺ら、過保護過ぎなんじゃねえの?

 腑に落ちない様子で言い放った慎一は、それでも真斗の隣で立ち上がる。黒いタートルネックの長袖シャツを腕まくりして、何故だか真斗の私服であるはずのカーキ色のジャージをヘソ辺りまで持ち上げ直す。

「……気合い入れすぎ」

「あん?」

「直ぐに戻ってね」

「分かってる。お前が行くよりマシだろうが。俺は冷静な男だからな」

 二人っきりになど、させるものかとばかりに慎一はガシガシと頭を掻いた。

 面倒くさげに東側の部屋の前にて息を吐き出し、問答無用、ゆずなのプライベート空間へと踏み入った。

「おら、ブスっ」

「ぶ、ブス!?」

 突然に、いらぬ客の乱入。

 ゆずなは両手で握りしめる写真立てを取り落とした。

「じゃなかったら、マザコン」

「羽部ってどうしてそんなに性格が悪いの?真斗の趣味を疑っちゃう」

「俺は恋人には優しい男だ」

「……よくそんなで社会に適応できてるね」

「うるせ」

「……で、何の用?」

 ゆずなは笑顔の母親をカラーボックスの上段に避難させ、扉の外側を窺いつつ、羽部に嫌々ながらも近づいた。

 仕方がないのだ。彼女は、真斗が気になるのだ。

 その端では、また飽きもせずに写真を眺めていたのだと見て取った羽部が、眉をしかめる。

「ねえ、何か用なの?」

 さて、どう切り出そうかと迷った挙げ句、羽部は堂々と卑怯な手段を選択することにした。

「……真斗が心配してたからな。致し方なくだ」

「真斗が?」

「今日は帰宅が遅い、でも上機嫌だ。変な男に騙されたりしていないだろうなってさ」

「……」

 彼が心配してくれている。ゆずなはそれだけの事実に嬉しくなって、羽部を見上げた。

「保護者も大変だよな」

「真斗は保護者じゃないよ」

「そうかあ?で?」

「で?って言われても。だいたい、真斗の心配をどうして羽部が聞きに来るの」

 ゆずなはクルっと背を向けると、ベッドの端へと腰掛けた。

「んなの、俺と真斗が気分良くイチャつくために決まっているだろうが」

(何よ、ソレ……)

 どっと疲弊が押し寄せて、ゆずなは溜め息をついた。この男は、時々ゆずなを戒めるようにして挑戦的な視線を投げて寄越す。そして、目の前で真斗とキスを披露するくらいには性格が悪い 実際には、直接的な角度ではないことはありがたかった。

 見たくもない。

「違う、そんなんじゃないの。ママに会いに行って、そこで会えたおばあちゃんと仲良くなれて。嬉しかっただけなんだから」

「おばあちゃんて……」

 バカなんじゃねえの?

 羽部は呟いて、おまけに鼻で笑う。

(ホント、腹が立つ)

「……分かったならもういいでしょう」

「おい」

「何よ」

 キッと睨み返せば、男の眉根を寄せた顔が至近距離でガンを飛ばしてきた。

「……」

「……」

(近い!)

 悲鳴を飲み込んで、ゆずなは傍にあったクッションを投げつける。

「もう出てってよ!眠いんだからっ」

 舌打ちを聞く。そして、一度だけ、息を深く吐き出した男が背中を向けると、そのまま無言で立ち去った。

「……」

 閉まったドアノブ音が、まるで遮断機のようにリビングとの間に境界を敷いて、隔たりを際立たせた。

 心に響いて、こだまする。

 いつまでたっても合わない相手であると、ゆずなは背中を丸めてうずくまった。


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