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第9話 私の名前


ペン先が、紙の上で止まっていた。


秋の夜。蝋燭の灯りが揺れるたびに、自分の影が壁で大きくなったり小さくなったりする。机の上には書きかけの便箋が一枚。半分まで埋めた文字の、最後の一行が空白のまま。


──設計者のお名前をお教えいただけますか。


北方の辺境伯からの質問。あれから数日経って、まだ返事が書けていない。


答えは分かっている。私だ。灌漑路を設計したのは、私。セラフィーナ・メルヴィス。公爵家に嫁いで三年、帳簿を直し、商会と交渉し、水路を引いた。全部、私。


なのに、この一行が書けない。


(書いたらどうなる?)


「公爵夫人が灌漑路を設計した」と北方の辺境伯が知る。それが別の誰かに伝われば──「公爵当主は何もしていなかったのか」という疑問に繋がる。


ヴィクトルが秋の夜会で「我が領地の成果」と吹聴したばかりだ。それを否定するような情報が外に出れば、面倒なことになるかもしれない。


……面倒。


誰にとっての面倒だろう。ヴィクトルにとって? 私にとって?


(あの人は、私の名前なんて気にもしていないくせに)


嫁いだ初日に「愛するつもりはない」と言い、三年経っても帳簿を一度も読まず、灌漑路の存在すら知らない人。その人の体面を守るために、自分の名前を隠すのか。


ばかばかしい。


我ながら、ばかばかしい。


ペン先にインクを含ませた。


『灌漑路の設計は、私、セラフィーナ・メルヴィスが行いました。メルヴィス伯爵家で父より測量と灌漑の基礎を学び、ヴァーレンシュタイン領の地形に合わせて設計いたしました。ご質問いただきました水勾配の算出根拠につきましては、別紙にてご説明申し上げます』


書いた。


手が震えなかったことが、少し意外だった。名前を書くだけなのに、ずいぶん大仰に構えていた気がする。嘘をつくよりずっと簡単だった。


便箋を折り、封をした。蝋が固まるのを待つ間に、窓の外を見た。秋の星空。北の方角に、星が幾つか瞬いている。


──明日の朝、馬便に託そう。



返事は、二週間後に届いた。


封を開ける指先が、少しだけ緊張していた。名前を明かしたことへの反応が、怖くないと言えば嘘になる。「公爵夫人が畑仕事を?」と嘲笑されるかもしれない。「差し出がましい」と思われるかもしれない。


便箋を広げた。


最初の一枚は取引条件の確認だった。次回の穀物発注量。輸送日程の調整。価格の微調整。いつも通り、無駄のない文面。


二枚目。


技術的な質問が、五つ並んでいた。


水勾配の算出に使った基準点の選定方法。水門の開閉周期と流量制御の関係。排水路と灌漑路の交差点の処理。粘土質土壌における側壁の補強材。冬季の凍結対策。


(……本気だ、この人)


社交辞令ではない。灌漑路の設計を理解した上で、実務的な疑問を投げてきている。北方の辺境伯領は寒冷地だ。同じ灌漑路でも、凍結対策は南部とはまるで違う。この人は、自分の領地に灌漑を引く可能性を考えている。


質問の下に、一行。


『メルヴィス伯爵令嬢殿の設計と伺い、合点がいきました。帳簿の立て直しと灌漑路──両方をなさる方は稀です』


合点がいきました。


その一言が、胸のどこかに染み込んだ。


嘲笑ではない。驚きでもない。「ああ、やっぱりそうだったのか」という、納得の言葉。この人は最初から、設計者が帳簿を立て直した人物と同一人物だろうと推測していたのだ。


(……どうして分かったの。会ったこともないのに)


数字を見れば分かる、ということだろうか。帳簿の数字と、灌漑路の設計の数字が、同じ頭から出ていることが。


なんだか、変な気分だった。三年間一緒に暮らしている夫が何も見ていないのに、百里以上離れた場所にいる人が、書簡の数字だけで全部見抜いている。


笑ってしまった。声には出さなかったけれど、口元が緩んだ。


書簡。


こんなに嬉しい書簡は、この屋敷に来てから初めてだった。



技術的な質問への回答を書くのに、三日かかった。


楽しかったからだ。


水勾配の計算を説明するために、別紙に図を描いた。水門の開閉周期と流量の関係は表にまとめた。凍結対策については、父が山間部の水路で使っていた手法──秋に水を落として水路を空にし、春の雪解けで自然に再充填する方式──を詳しく記述した。


気がつけば、便箋は五枚になっていた。


(……多いわね。取引相手への返信としては)


いいのだろうか。ここまで書いて。相手は辺境伯閣下で、こちらは公爵家の嫁で、やり取りの本筋はあくまで穀物取引なのに。


でも、聞かれたことに手を抜きたくなかった。この質問を書いた人は、ちゃんとした答えを欲しがっている。数字と図面で語り合える相手が、今まで一人もいなかった。


──いや、一人いた。父だ。


でも父は遠い。メルヴィス伯爵領と公爵領は、手紙でも片道五日かかる。嫁いでから、父とこういう話をする機会はほとんどなくなった。


五枚の便箋を読み返す。説明は正確だろうか。図は分かりやすいだろうか。


(私、こんなに書簡を推敲したのいつぶりだろう……)


義母様の部屋に薬を届けに行った帰り道、ふと立ち止まった。廊下の窓から見える庭の藤棚は、秋の終わりですっかり葉を落としている。骨だけになった蔓が、夕暮れの空に黒い線を描いていた。


「セラフィーナ、顔色がいいわね。何かいいことでもあったの?」


さっき義母様に言われた言葉が蘇る。


いいこと。いいこと、だろうか。取引先の書簡に質問が書いてあって、それに答えるのが楽しいだけ。それだけの話。


──それだけなのに、顔色に出ていたらしい。


少しだけ恥ずかしくなって、足早に自室に戻った。



五枚の返信を送ってから、さらに二週間。


朝、机の上に封書があった。ヴォルフハイム辺境伯領の紋章。もう見慣れた。


開封する。今回は三枚。


一枚目。技術的な質問への回答に対する所感。私が書いた凍結対策の方式について「北方でも応用可能と考えます。当領の東区画で試験的に導入を検討したい」と書かれていた。


(本気で使う気だ……)


二枚目。穀物取引の条件提案。


読んで、目が止まった。


輸送費。前回の取り決めでは、公爵領の港から辺境伯領の中継所までの輸送費は折半だった。それが──新しい提案では、辺境伯側が七割を負担するとなっている。


『本件に限り、輸送費の辺境伯側負担を七割に修正いたします。北方の冬季は輸送路が限定されるため、柔軟な出荷時期をご設定いただけるよう、貴殿側の負担を軽減することが合理的と判断いたしました』


合理的と判断。


……そうだろうか。


輸送費の七割負担は、買い手にとって不利な条件だ。冬季の輸送路が限定されるのは事実だけれど、それは辺境伯側の事情であって、売り手の私が負担軽減される理由にはならない。


普通なら、逆だ。冬季に無理して輸送してくれるなら上乗せを要求する──というのが、商取引の常識。


(公正な方なのね。……いや、公正を通り越して、こちらに寄せてくれている?)


なぜだろう。辺境伯が公爵家に恩を売りたいのか。それとも、この取引を長期的に安定させるための先行投資か。


たぶん後者だ。堅実な人だとハインツも言っていた。長期の安定を重視するなら、相手側の負担を軽くして取引を継続しやすくする──合理的な判断だ。


(うん。合理的。それだけよ)


三枚目に目を移した。


取引条件の補足が二行。その下に──少し間を空けて。


前の書簡と同じだ。本文とは関係のない、最後の一行。


『北方の冬は厳しいですが、春になれば薬草園の拡張も可能です。──もし、ご興味があれば』


薬草園。


便箋を持つ手が、止まった。


なぜ辺境伯が薬草園の話を? 穀物取引の書簡に、薬草園の話は要らないはずだ。


──ああ。


薬草商のディートリッヒ。高山薬草を買った相手。あの商人の取引先に、ヴォルフハイム辺境伯領が含まれているのだとしたら。私が薬草を買っていることを、辺境伯は知っているのかもしれない。


(だとしたら……薬草園の拡張に興味があるか、という質問は)


取引の幅を広げたいということだろう。穀物だけでなく、薬草の流通も含めた包括的な取引関係を提案している。


堅実で、先を見ている人だ。


便箋を机に置いた。窓の外に目を向ける。秋の終わり。もうすぐ冬が来る。北方はもう雪が降り始めているだろうか。


「もし、ご興味があれば」


ある。


興味なら、ある。薬草園の拡張。義母様の薬を毎年北方から取り寄せるのではなく、もっと安定した供給路を作れるなら。それがどれほど──。


返信を書こう。取引条件の承諾と、技術的な所感と。それから──薬草園のことも。


ペンを取った。インクの匂いが鼻をくすぐる。


書簡のやり取りが、いつの間にか穀物取引の枠を超え始めていた。数字と図面だけだった紙の上に、ほんの少しだけ──別の何かが混じり始めている。


それが何かは、まだ分からない。


分からないまま、ペンを走らせた。北方へ向けて。

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