第10話 貴女の言葉で
窓の向こうが白い。
晩秋の朝、執務室の硝子には薄い霜が張っていた。指先で触れると、冷たさが爪の先まで沁みる。──けれど今朝は、その冷たさすら嫌いではなかった。
机の上に、昨夜のうちに届いた木箱がある。
「セラフィーナ様、ヴォルフハイム辺境伯閣下よりのお届け物でございます」
ハインツが恭しく蓋を開けると、藁に包まれた小瓶と、厚い封書がひとつ。小瓶の中には、銀色がかった葉が数枚、乾燥した状態で詰められていた。
──霜花草。
名前だけは文献で読んだことがある。北方の高地、初霜が降りた朝にだけ摘める薬草だ。流通量が極端に少なく、王都の薬学院でも実物を見たことがある者は稀だと聞く。
小瓶を傾けると、かすかに甘い香りがした。蜂蜜に似ているけれど、もっと澄んでいる。冬の空気を閉じ込めたような、そんな不思議な香り。
「……本物だわ」
私の声が、自分でも思ったより低かった。
封書を開く。ライナルト・ヴォルフハイム辺境伯閣下からの提案書は、相変わらず無駄のない筆跡で綴られていた。薬草園拡張に関する具体的な設計──北方式の温室構造、二重硝子による保温、地熱を利用した床暖の仕組み。図面まで添えてある。
(……ここまで詳細なものを、わざわざ)
私は提案書を机に広げ、図面の線を指でなぞった。温室の寸法、通気口の配置、すべてが理に適っている。これを描いた人は、実際に北方の冬を知っている人だ。机上の空論ではない。
提案書はいったん置いて、私は薬草室に向かった。
霜花草を試したくて、足が自然と早くなる。
薬草室は領館の東棟にある。石造りの壁に薬棚が並び、乾燥させた草花の匂いがいつも漂っている場所。ここだけは、誰にも邪魔されない私の領域だった。
乳鉢に霜花草を少量取り、すり潰す。銀色の粉末が白い陶器の底に広がった。ここに、雪花草と銀蘭の根の配合薬──マルグリット様の容態を安定させたあの薬を数滴。
混ぜる。
色が変わった。
淡い緑だった液体が、透き通った琥珀色に変化する。薬学の文献で読んだ「相乗反応」だ。成分が互いの効能を引き上げ合う現象──理論上は知っていたけれど、実際に目の前で起きると、手が震えた。
「……一・五倍」
簡易測定の結果を見て、私は息を呑んだ。既存の配合薬の効能が、霜花草を加えるだけで約一・五倍になる。これがあれば、マルグリット様だけでなく、領内の冬季の風邪や気管の疾患にも──。
小瓶をそっと棚に戻したとき、指先がまだ微かに震えていた。
興奮を抑えて執務室に戻ると、ハインツが茶を淹れてくれていた。湯気の向こうで、老執事の顔がいつもより渋い。
「──何かあったの?」
「は。王都の知人より、先日の秋季報告会について少々」
ハインツは声を落とした。
ヴィクトール様が、報告会の場で薬草事業の成果を誇らしげに語ったらしい。領内の配合薬がいかに優れているか、薬草貿易がいかに利益をもたらしているか。──それ自体は、いつものことだ。
問題は、その後。
王宮薬学院の審査官が質問したという。「素晴らしい成果ですな。では、その配合薬の主成分と配合比率をお聞かせ願えますか」と。
ヴィクトール様は、答えられなかったそうだ。
「……場は、しばらく沈黙が続いたと聞いております」
ハインツの声は平坦だったけれど、その目の奥にかすかな光があった。
私は茶を一口飲んだ。
(──知らないものは、語れないのよ)
怒りは、もうあまり感じなかった。以前なら胸の奥が煮えるような思いをしただろう。でも今は、ただ静かに事実を眺めている自分がいる。他人の手柄で壇上に立つ人間は、いつか必ず足元を掬われる。それが今回、ほんの少しだけ表に出た──それだけのことだ。
けれど正直に言えば、胸のどこかが軽くなったのも、嘘ではなかった。
茶を飲み終えて、私はもう一度ライナルト閣下の手紙を開いた。
提案書は先ほど読んだ。温室設計、貿易条件の確認事項、霜花草の保存方法に関する注意書き。すべて実務的で、過不足がない。この方の文章はいつもそうだ。必要なことだけが、正確に並んでいる。
──だから、最後の一行が目に留まった。
『霜花草の感想をお聞かせください。──貴女の言葉で。』
ペンが止まった。
(……貴女の言葉で?)
取引条件でも、薬学的な見解でもない。「貴女の言葉で」。それは業務書簡には不要な一文だ。配合結果を数値で報告すれば済む話なのに、わざわざ「感想」を、しかも「貴女の言葉で」求めている。
心臓が、一拍だけ速く打った。
……気のせいだ。きっと、ただの社交辞令の変形。北方の人は表現が独特だと聞くし。
(でも、この方は社交辞令を書くような人ではない)
そう、そうなのだ。ライナルト閣下の手紙には、一度たりとも余計な修辞がなかった。すべての文に意味があり、すべての行に目的があった。だとすれば、この一行にも──。
私は頬が熱くなるのを感じて、手紙をそっと伏せた。
返信は夜に書いた。
蝋燭の灯りの下、まず薬学的な分析結果を丁寧に記す。霜花草と既存配合薬の相乗効果、効能の数値変化、保存条件の確認。ここまでは、いつもと同じだ。
ペンが止まる。
便箋の余白を見つめる。蝋燭の炎が揺れて、影が壁を這った。
(「貴女の言葉で」──)
あの一行が、ずっと頭の隅に居座っている。
長い、長い沈黙の後──私はペンを取り直した。
『──北方の冬景色を、いつか見てみたいと思いました。霜花草が育つ朝の山を、この目で。』
書いてしまった。
薬学とは何の関係もない一行。取引にも、貿易にも、何の利益ももたらさない言葉。けれど──消す気にはなれなかった。
封をする指先が、少しだけ温かい。
ふと、提案書の最終頁を見直した。先ほどは温室の図面に気を取られて読み飛ばしていた末尾に、小さな文字が並んでいる。
『春の雪解けの頃、直接お会いしてお話しできれば幸いです。』
──え。
蝋燭の炎が、ぐらりと揺れた気がした。
私は手紙を持ったまま、しばらく動けなかった。心臓が、今度は一拍どころではなく、はっきりと速く打っている。
(会う。この方と。直接。春に──)
手紙を胸元に引き寄せて、私は目を閉じた。
窓の外では、もう冬の風が鳴っている。
──けれど春は、来る。
必ず、来る。
---
北方から届いた小瓶は、薬草棚の一番上──私だけが手の届く場所に、静かに並んでいる。
その隣に、封をした手紙が一通。まだ、出していない。




