第11話 帳簿の穴
数字が、合わない。
五年目の春。机に広げた家政費の帳簿を、私は三度目の眩暈を堪えながら睨みつけていた。
去年の秋に締めた半期決算では、収支に問題はなかった。灌漑路の効果で収穫は安定しているし、ベッカー商会との契約も健全に回っている。なのに──今期の家政費だけが、妙に膨らんでいる。
指先で項目を辿る。
食材費。使用人の給与。屋敷の維持管理費。ここまでは例年並み。問題は、その下に連なる項目だ。
「装飾品購入費」。三ヶ月前。金額は、使用人一人の半年分の給与に匹敵する。
「特注衣装代」。二ヶ月前。さらにその倍。
「王都宝飾店支払い」。先月。金額を見て、ペンを持つ手が止まった。
(……嘘でしょう)
合計すると、今期の家政費の三割近くが、この三項目で消えている。
宝飾品。衣装。宝飾店。全て、この屋敷の日常運営には関係のないものだ。義母様は療養中で外出もされない。使用人に宝飾品を贈る慣習はない。
残るのは一人しかいない。
帳簿を閉じる音が、やけに大きく響いた。
◇
ハインツを呼んだ。
「この三項目について、心当たりはある?」
帳簿の頁を指で示す。ハインツは老眼鏡の奥から数字を確認し、わずかに眉を寄せた。わずかに──だけど、この人がこの表情をするのは、言いにくいことがある時だ。五年もいれば、それくらいは読める。
「……公爵閣下が、王都のヘルマン宝飾店にて、品物をお誂えになっているようです」
「品物」
「はい。指輪、首飾り、耳飾りなど。いずれも──ご自身のためではなく」
ある女性への贈り物。
ハインツはそれ以上言わなかった。私も聞かなかった。
五年間、この人は夜ごと夜会に出かけている。社交界で「若き名君」の評判を保つために。──その夜会で誰と会っているのかなんて、今さら確認するまでもない。
(怒るところかしら。妻として)
不思議と、怒りは薄かった。もう慣れたのかもしれない。あの人が私を見ていないことに。お金の使い方を見れば、人の優先順位がわかる。帳簿はいつだって正直だ。
怒りの代わりに湧いたのは、もっと冷えた感情だった。
──予算が、足りなくなる。
「ハインツさん。今期の家政費で義母様のお薬の材料費と、領地の運営経費を賄える?」
「……厳しゅうございます。このままの支出が続けば、夏の薬草発注に回す分が」
「わかった。予算を組み替えるわ」
帳簿を開き直す。ペンを取る。
指輪や首飾りに消えた分は、もう戻ってこない。なら、残りの予算で何ができるかを考える。
食材費の見直し。旬の安い食材に切り替えれば、一割は浮く。屋敷の維持管理費のうち、本棟の応接間の花代は削れる──義母様の部屋の花だけは残す。庭師の苗の発注を夏まで延期。
一つずつ、削れるところを削る。爪の先で紙を辿りながら、数字を書き直していく。
最後に残った空欄。薬草の発注費。
足りない。あと少しだけ。
引き出しの奥に手を伸ばす。革の袋。持参金の──残り。持ち上げると、嫁いだ日より随分軽くなっていた。二年前に義母様の薬草を初めて発注した時から、少しずつ減り続けている。
(あと一回分。これで夏の発注は賄えるけど、秋以降は……)
革袋を引き出しに戻した。考えるのは後でいい。今は、目の前の帳簿を片づける。
ペンを走らせる。数字を書き直す。消して、直して、また消す。
──五年。五年間、私はずっとこれをやっている。帳簿を読んで、数字を直して、足りない分を工面する。義母様の薬。領地の運営。使用人たちの給与。全部、この手と、このペンで。
なのに家政費の三割は、顔も知らない女性への指輪に消える。
(……笑っちゃうわね)
笑えなかった。口元は動いたけれど、声は出なかった。
◇
薬草室で、義母様の薬を調合した。
擂り鉢に雪花草を入れ、銀蘭の根を刻み、霜花草の粉末を加える。三年前の夜に初めて成功した配合。もう失敗しない。手が覚えている。
透き通った琥珀色の薬液を小瓶に移す。
東棟に向かう。朝の廊下に、自分の足音だけが響く。
「おはよう、セラフィーナ。今日もいい朝ね」
義母様の声が、部屋の中から聞こえた。窓が開いている。春の風。
「おはようございます、お義母様。お薬をお持ちしました」
「ありがとう。あなたのお薬を飲むと、不思議と体が楽になるのよ」
薬を受け取るマルグリット様の手は、去年の冬より温かかった。咳は完全には消えていないけれど、窓を開けて朝の風を楽しめるくらいには回復している。
「ねえ、セラフィーナ。最近あなた、疲れた顔をしているわよ」
「……そうですか?」
「目の下に隈がある。帳簿の仕事?」
「ちょっと、数字が合わないところがあって」
「まったく。この家の帳簿ばかりあなたに押しつけて」
義母様がため息をついた。それは私に向けた言葉じゃない。この家の──息子に向けた、小さなため息。
「大丈夫ですよ。慣れてますから」
「慣れちゃいけないことよ、それは」
窓辺の花瓶を直しながら、義母様がぽつりと言った。
慣れちゃいけないこと。
──その通りだ。わかっている。わかっていて、慣れてしまったのだ。
◇
自室に戻ると、机の隅に封書が置かれていた。
ヴォルフハイム辺境伯領の紋章。
この封蝋を見ると、指先が勝手に動く。ペーパーナイフを手に取って、封を切る。便箋を引き出す。
一枚目。穀物取引の定期報告。前回の納品に対する所感と、次期の発注量。価格は据え置き。輸送路に一部変更あり。
いつも通りの、無駄のない文面。いつも通りの、正確な筆致。
二枚目。
取引の補足が数行。その下に──間を空けて、一行。
『北方にもようやく春が参りました。雪解け水が川を満たし、山裾では最初の薬草が芽を覗かせています』
春が来た、と。
書いてある。
今まで、この方の書簡に季節の描写が書かれたことは一度もなかった。数字と条件と技術的な所見。それだけが並ぶ、無駄のない文面。
なのに今回だけ──雪解け水と、薬草の芽。
(……あ)
思い出した。去年の晩秋に送った手紙。あの中に、私は一行だけ書いた。「北方の冬景色を、いつか見てみたい」と。
あの一行への──返事なのだろうか。
直接「お手紙を読みました」とは書いていない。ただ、北方の風景を描いてみせた。「見てみたい」と書いた私に、「今、こんな景色です」と。
(ずるい)
そう思った瞬間、自分の口元が緩んでいることに気づいた。
帳簿の数字も、指輪に消えた家政費も、底を突きかけた持参金も──この一行を読んでいる間は、どこかへ消える。
返信を書いた。取引の確認事項。次期の出荷スケジュール。技術的な補足を二点。
そして最後に、便箋の端にペンを走らせた。
『──北方の春はもう来ましたか。薬草の芽が伸びる頃が、少し待ち遠しく感じています』
書いてから、少し迷った。「待ち遠しい」は言いすぎだろうか。何が待ち遠しいのか、自分でもよくわからない。薬草の芽が伸びることが。北方の春が来ることが。それとも──。
(考えすぎよ。取引先への季節の挨拶。それだけ)
封をした。蝋が固まるまでの数秒間、指先に残る温かさ。
帳簿に戻ろう。削れる経費は、まだあるはずだ。
◇
翌日の夕刻。
ヴィクトルに呼ばれた。本棟の執務室。五年間で、この人に呼び出された回数は片手で足りる。
扉を開けると、ヴィクトルは窓際に立っていた。夕陽を背にしているせいで表情が読めない。
「近く、客人が来る」
前置きもない。いつも通り。
「屋敷を整えておけ。東棟の客室を一つ用意しろ」
「……客人とは、どなたでしょうか」
「名前は追って伝える」
それだけ。視線は窓の外に向いたまま。私を見ない。見ないまま、命令だけを落としていく。
(東棟の客室。義母様の隣の部屋じゃない)
五年前からずっと、東棟の客室は使われていなかった。掃除だけは入れていたが、寝具は畳まれたままだ。
「かしこまりました」
一礼して、執務室を出た。
──廊下で、ハインツが待っていた。
いつもの盆は持っていない。代わりに、少しだけ強張った顔で立っている。
「ハインツさん」
「奥様。……お耳に入れるべきか迷ったのですが」
迷った。この人が「迷った」と口にするのは珍しい。五年間、この老執事は迷いを見せなかった。
「客人のこと?」
「はい。王都の知人筋から──」
ハインツが声を落とした。廊下に他の使用人がいないことを確かめてから。
「お見えになるのは、フォンターナ男爵令嬢と聞いております。リゼット・フォンターナ嬢と」
フォンターナ。男爵令嬢。リゼット。
知らない名前だ。社交界には疎いから。でも──帳簿のあの項目が、脳裏をよぎった。宝飾品。衣装。ヘルマン宝飾店。「ある女性」への贈り物。
(この女性なの……?)
「……どのような方なの」
「社交界では『小さな宝石』と呼ばれる美貌の方だと。若く、華やかで──公爵閣下とは、夜会でお親しくされているとのことです」
親しく。
その言葉の意味を、私は正確に理解した。
客人。屋敷を整えろ。東棟の客室。──あの人が連れてくるのは、取引先の貴族でも、遠方の親族でもない。
愛人だ。
「ハインツさん」
「はい」
「……教えてくれて、ありがとう」
ハインツが小さく頭を下げた。その目の奥に、何かが揺れていた。怒りか。悲しみか。この家に仕えて何十年もの老人が、主人の所業を嫁に伝えなければならない──その苦さが、皺の深い顔ににじんでいた。
自室に戻った。
扉を閉めて、壁に背を預ける。
目を閉じると、帳簿の数字が浮かんだ。宝飾品。衣装。指輪。あの三割。
──全部、この人のためだったのか。
怒りは……ある。ある、けれど、五年前のあの夜ほど鋭くない。鈍く、重く、胸の底に沈んでいく。怒るより先に、疲れた。
壁から背を離した。机の上には、さっき封をしたばかりの北方への手紙。
それだけが、今の私には温かかった。
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庭の藤棚が、今年も咲き始めている。五年目の花。
東棟の客室には、もうすぐ知らない女の匂いが満ちるのだろう。




