第二十一話「桜梅桃李 ーおうばいとうりー」②
「ちょ、大丈夫!?」
彩雲君の体をとっさに支える。
完全に脱力していて、ずしりと重たい。顔色が見るからに悪い。
「葉月様!! いかがなされましたか!?」
こちらの異常に気付いたのだろう。鹿男君が湯をかき分けながら近づいてきた。
「それが彩雲君、のぼせたみたいで……」
「ぎ、ぎもぢわりぃ」
彩雲君の口から、うめき声が漏れる。普段の勢いからは想像できない弱々しさで、見ていて不安になってくる。
「あーあー。完全に茹で上がってんなぁ。これ」
同じくこっちに来た小春さんが、彩雲君の顔を覗き込んだ。
「彩雲はこちらでなんとかします! 小春さんも手伝って!!」
「えー、鹿男一人でなんとかなるっしょ。のぼせただけっぽいし」
「お願い! 一応!」
「分かったよ……ったく、せっかくの温泉だってのに」
手を合わせられては断れないのだろう。小春さんは文句を言いつつも了承した。
(どうしよう。僕もなにか……)
「葉月様はそのままで結構。巫子様の御手を煩わせるわけにはいきませんから」
「あ、はい」
心を読まれてしまった。
気まずいけど、立場が立場だ。任せるほかない。
鹿男君が「失礼します」と、力の抜けた彩雲君を僕から引き離した。それから手慣れた様子で抱え込み、風呂場を出ていく。小春さんもその後に続いた。
足音が遠のいたところで、溜め息をついた。
温泉に入っているはずなのに、なんだかどっと疲れた。気を取り直し、岩に頭を預けてぼんやりと宙を眺める。
竹が石を打つ音。
たゆたう湯の音。
ときたま吹くそよ風の音。
静かだ。自然の音しか聞こえない。
静かすぎて、ふと、違和感に気付いた。
(…………僕一人しかいない?)
もしかして、もう上がった方がいいのか。若干の焦りが生じたその時だった。
「葉月様。お隣、よろしいでしょうか?」
声がした方を見て、ほっとした。
いつもの微笑みを携える、菜飯さんの姿があった。
「あ、はい。どうぞ」
「失礼致します」
菜飯さんが湯に入り、僕の隣に腰を下ろした。ふぅと気持ちの良さそうな声を漏らす。ようやく一息つけたという感じだ。
「菜飯さん、ずっと仕事してたんですか?」
「仕事といいますか……実は結果発表の後、落葉様が倒れてしまわれまして」
「えっ、倒れたって、大丈夫なんですか?」
「ただの貧血だから問題ないそうです。お風呂にも、後で入られるそうですよ」
「そうですか……」
落葉さんの姿も見えないと思っていたけど、マイペースかつ人を避ける彼のことだから、あえて時間をずらしているのだろうと思っていた。
のぼせた彩雲君といい、激しい運動の後だから、体調を崩しやすいのかもしれない。僕も気を付けないと。
竹の音が、また高らかに響いた。
「良い湯でございますね」
「そうですね」
体の微かな動きに合わせて、湯にゆるやかな波紋が広がる。
さっきまでの騒がしさが嘘のように静かだ。静かすぎて…………気まずい。
(どうしよう。なに、話そう)
桜さんの代わりに送迎をしてくれた三日間で、菜飯さんとはたくさん話をした。
女性が多い社において、三郎さんと並んで話しやすい同性だと思っていたけど、考えてみれば、送迎の時以外に話をするのは初めてだ。しかも身分の関係上、普段は肩を並べることなんてない。
隣り合って、同じ湯に浸かっている。それだけなのに、妙に緊張する。変なことを言って引かれたくないし…………そうだ。
「あの。改めて、優勝おめでとうございます」
結局、口から出たのは当たり障りのない言葉だった。菜飯さんに「ありがとうございます」と微笑みを返してもらえて、ほっとする。
「もっとも、姫様は不本意であらせられるようですが」
「確かに、そんな感じでしたね」
結果発表の時、表向きはいつもと変わらなかった。気位が高く、溌剌とした、僕がよく知る花鶯さんに見えた。
だからこそ、笑顔は分かりやすく歪だった。
感情豊かで素直な人だから、作り笑いが苦手なのだろう。
あそこまで分かりやすかったのだ。おそらく、あの場にいたほぼ全員が、花鶯さんの心情を察している。
「……あの猿たち、花鶯さんの力で集まってきたんですよね」
「えぇ。詳しいことは申し上げられませんが、あらゆるものを魅了する御力でして。曇り空が急に晴れたのも、その影響です」
「えっ!?」
驚きのあまり、癒やしの空間にそぐわない声を上げてしまった。
さらりと言ってのけているけど、その気になれば天候をも操れるということだ。二島の巫女であってもおかしくない。
「姫様は御力を使いたくないと仰っていましたが……正直、ほっとしました。私には、御力を使うことを我慢されているように見えましたので」
菜飯さんが、いっそう柔らかく微笑んだ。
表情が柔らかいのはいつものことだけど、花鶯さんの話をする時、たまにこの顔になる。まるで娘や妹を見守る保護者のような、深い慈しみにあふれた笑顔だ。
「なんだか、嬉しそうですね」
柔らかな微笑みが、不自然に固まった。
穏やかに細めていた目を見開き、僕を凝視する。
食い入るような目力を前に、思わず身を引いてしまった。
「…………そう、見えますか?」
「え? あ、はい。見えます」
「そうですか……」
強張っていた表情が、みるみる内に緩んでいく。見えると言われたことが、心底嬉しいと言わんばかりに。
(……笑っている自覚、なかったのか?)
「葉月様も試合、お疲れ様でした」
「あ、あぁ、えと、ありがとうございます」
労いの言葉をかけられたというのに、挙動不審な反応をしてしまった。
「といっても、僕は助けられてばかりでしたけどね」
「そんなことありませんよ。怪我をした桜さんを背負ってお守りしたと、本人から聞いております」
「あれは当然というか、あのままにできないと思ったんです。桜さんは強いから」
「強いから、ですか?」
はいと即答した。
「桜さんは強いから、どんなに傷ついても泣かないし、絶対に逃げないんです。だから、放っておいたら無茶をしそうだなって」
「桜さんは存外、普通の人だと思いますよ」
ぽつりと、菜飯さんが呟いた。
「………………普通?」
「あくまで、私から見た印象ではございますが」
菜飯さんが再び「ふぅ」と息をつき、それからゆっくりと語り出した。
「実は一時期、夜長様にお仕えしていたことがありまして。桜さんとは、その際に初めて知り合いました。桜さんと直接話す機会はありませんでしたが、常に無表情で、どこか近寄りがたい印象を受けたものです」
どこかで、梟が鳴いた。
今は梟なんてどうでもいいのに、いやに鮮明に聞こえた。
菜飯さんの話は、淡々と続く。
「そのせいか、周囲から『鬼らしい人』と、よく陰口を叩かれていました。優秀な上に、当時の従者の方に大変気に入られていたようでしたから、やっかみも交じっているでしょうけど。でも、李々さんと話している時のみ、人間らしさを感じました。あの人には心を許しているのだなと。桜さんにとって、李々さんは自分を『鬼』から『人』に戻してくれる存在だと――」
(…………なんでだろう)
すぐ隣にいるのに、菜飯さんの声がだんだんと遠くなる。それに比例して、胸はざわめきを増していく。
なんでだろう。
無性に、苛々する。
「おそらく、葉月様もそうですよ」
「え?」
「葉月様と話している時の桜さんも、表情が人間らしいんです。だけど、李々さんに見せる笑顔ともまた違う。穏やかといいますか、安心しているといいますか」
胸のざわめきが、ぴたりと止まった。
「葉月様といる時も、あの人は『人』に戻れるのではないかと思います。だとしたら、葉月様は常に、桜さんを守っておられますよ。少なくとも私は――」
「菜飯さんごめん! ちょっと来てほしいんだけど」
風呂場の入り口から、鹿男君の大きな声がした。
「では、私はこれにて失礼します」
「あ、お疲れ様です」
菜飯さんが微笑みを残して、風呂場を後にした。
ししおどしが、また音を立てる。
髪から落ちた滴が、湯に波紋を広げる。
(…………守ってる? 僕が?)
思いも寄らなかった言葉だ。ずっと、桜さんに守られていると思っていたから。
だから考えもしなかった。
僕の存在が、桜さんを『人』にしているだなんて。
桜さんの役に立ってる。
そう思った瞬間、視界が明るくなったように見えた。
「………………うわぁ」
どうしよう、嬉しい。
やばい、顔のにやけが止まらない。
僕は、お荷物じゃない。
そうだ。僕はもう、ただ心配されるだけの病人じゃない。自分の足で走れるし、なんなら背負うことだってできる。ちゃんと、桜さんの役に立て――――
「笑い声、外まで聞こえてるよ」
無機質な声が、耳に突き刺さった。
真っ白な頭のまま、声がした方を見る。
落葉さんだった。
いつもの真顔…………いや、どこか呆れたような真顔で、僕を見下ろしている。
「え、声?」
「風呂場だから。声、反響するし」
「…………」
おそるおそる、口の端に触れる。めちゃめちゃ口角が上がっていた。
そして、客観的に思い返す。
一人になった後の、自分の言動を。
羞恥心が脳天を突き破った。
「す、すすすすすみません!! 今出ます今出ます!!」
「いや、別にい――」
落葉さんが何か言っているような気がしたけど、それどころではない。一刻も早くこの場を離れないと、死ぬ!!
僕はこけそうになりながらも、猛ダッシュで風呂場を後にした。
……
…………
………………
「なんだ、あれ」
風呂場に一人残された落葉は、ただただ困惑していた。
③に続きます。
葉月にとって、桜は「強さ」の象徴なのです。




