第二十話「桜花爛漫 ーおうからんまんー」 (後編) ④
蛍視点です。
時は少し前にさかのぼります。
川に流された後、何があったのか。
木の葉の揺れる音が、ひときわ大きくなった。
(あ、お米の味だ)
舌を撫でる空気の『味』が、私に教えてくれた。
顔を上げると、空に灰色の雲がかかっていた。味は薄めだから、実際に降るかは分からないけれど。
「……いないわね」
花鶯さんが、大きな溜め息をついた。
「こっちも駄目です。見つかりません」
「となると、この辺りにはいないわね」
川に流された後、私は花鶯さんと二人で、例の化け猿を探していた。
目視だけではない。
花鶯さんが目で、私が舌で、それぞれ化け猿の『気』を探り続けている。
それだけやっても、一向に見つからないのだ。花鶯さんが言うように、近くに化け猿がいないことは明白だった。
「仕方ないわね。場所を変えましょう」
花鶯さんが歩き始めた。私も慌ててその背中を追う。一見するといつも通りだけど、足の動きが不自然に速い。
気丈に振る舞っているけど、すごく、焦っている。
(私も、なにかしないと……!)
なにか、なにかないだろうか。
一刻も早くあの猿を見つける方法。
正面からの戦闘は避けたいから、最小限の被害で無力化――――あ!!
「そうだ!! 花鶯さんの力を使えば――」
「使わない」
花鶯さんが突然立ち止まり、きっぱりと言った。
「使わないわ。あんな浅ましい力」
「え?」
「相手が怪物であろうと、使ってはならない。使うにしても、最終手段。本当にどうしようもなくなってからよ」
(あさま、しい?)
いつもみたいに声を荒げるわけでもなければ、顔を真っ赤にするわけでもない。感情豊かな花鶯さんとは思えないほどに、淡々とした反応だ。
だからこそ、味を感じるまでもなく分かった。
これ以上は追及しないでほしいという、拒絶を。
***
私が花鶯さんと出会ったのは、裳着の儀だった。
緋家では、数え十二歳で成人と見なされる。成人した証として初めて裳をまとい、垂らしていた髪を結い上げる。それが裳着の儀だ。
そして裳着の儀は、緋家の一員としてのお披露目でもある。下働きの者がその御姿を拝める、数少ない機会の一つなのだ。
そんな花鶯さんの裳着の儀で、私はやらかしてしまった。
いや……やらかしなんて言葉で片付けられる失態ではない。
花鶯さんの『気』があまりにも美味しそうで、あろうことか、彼女の目の前で涎を垂らしてしまったのだ。
当然、私は先輩から盛大なお叱りを受け、翌日から一ヶ月間、罰として早朝の腕立て伏せとごみ出しを命じられた。
世の中には、いろんな美味があふれている。
ひとたび口を開けば、舌の上で美味が花開き、広がるのだ。私にとって世界は、好きな時に手を伸ばせる食糧庫だった。
それなのに、欲望のままに食べることはできない。そんなことをしてしまえば、世の理を壊してしまうから。食べたいと思ったものが「人の気」ならば、相手を命ごと、食べ尽くてしまうから。
だから、我慢しなければいけない。
三食分の食事をちゃんと与えられていたのに、常に飢えていた。いつもお腹がぐうぐう鳴っていた。
その反動なのか、頻繁に寝坊や居眠りを繰り返した。注意も緩慢になって、よく転んだり物を落としたりした。
しかも、甘美な味を前にすると涎を垂らしてしまう悪癖があった。先輩にどれだけ罰せられても、なかなか治らなかった。
気持ち悪いって、みんなに何度も言われた。
私は、あまりにも変な子だった。
みんなが当たり前のようにできることが、私にはとても難しかった。どうしてできないのか、分からなかった。みんなと違うことが恥ずかしくて、みんなの前で怒られることが怖くて、一人になるといつも泣いていた。
「こんな朝早くから、何をしているの」
早朝のごみ出しを終えて泣いていたところで、思わぬ御方から声をかけられた。
花鶯さんだった。
裳着の儀で、私が無礼を働いてしまった姫君。美しく、華やかで、私と同世代の女の子とは思えない気品に溢れた御方。
「労働環境に問題があるのなら、聞くわよ」
「め、めめ滅相もございません!」
私は、涎を垂らしてしまった罰として、早朝のごみ出しをしていると説明した。
そして、とにかく平謝りした。やんごとなき御方の前で口をだらしなく開き、あまつさえ涎を垂らしてしまった非礼を、ひらすら詫びた。
話が終わると、花鶯さんは深い溜め息をついた。
「……来なさい。いいものを見せてあげるから」
「え、あ、あのっ」
「いいから早く立って、ほら!」
突然、花鶯さんに手を引かれ、近くの山に連れていかれた。私の力で、この世で最も美しい光景を見せてあげると言って。
言われた通りだった。
美しい光景だった。まるで桃源郷だった。
「私の力は、私にしか見えない色を、私の色に染め上げるものよ」
今でも鮮明に思い出せるほどに、力強い声だった。
「あらゆるものには色がある。目に見える色とは違う、唯一無二の色よ。目の良い私にはそれが分かるの。あらゆるものに味を感じるあなたと、同じようにね」
「わたしと、同じ……?」
「己の力を一番に理解できるのは、他でもない己自身よ。それなのに、己の力を、己が卑下してどうするの」
「あ――――」
「他の誰がなんと言おうと関係ないわ。ちゃんと、大切になさい」
花鶯さんに叱咤され、頭を殴られたような衝撃を覚えた。
謝っている時は、頭が混乱していて、自分でも何を言っているのか分からなかった。最初から最後まで支離滅裂だったし、今でもちゃんとは思い出せない。
だけど、花鶯さんの言葉で、私は気が付いたのだ。
謝罪にかこつけて己の力が嫌いだと、日々の苦悩を吐露していたことに。
それなのに、花鶯さんは最後まで聞いてくれた。それどころか、世界はこんなにも美しいのだと教えてくれた。
「今後は、己の力を卑下するのではなく、いかに世のため、人のために力を使うのか考えなさい。そして胸を張りなさい。いいわね」
誇らしげなその声に、心を掴まれた。
堂々とした佇まいに、圧倒された。
きらきらと煌めく笑顔に、目を奪われた。
「………………はい!」
生まれて初めて、何かを『美味しそう』ではなく『綺麗だ』と思った。美しいってこういうことなんだと、心が震えた。
ずっと私は、空腹しか知らなかった。
飢えしかなかった私の世界に、花鶯さんが花を咲かせてくれたのだ。
***
その後、花鶯さんと再び顔を合わせたのはさらに数年後。花鶯さんが巫女になったことに伴い、侍女の一人に選ばれてからだった。
巫女の傍に仕えてお世話をする。皆から羨望の眼差しを向けられる、ありがたいお役目だ。ただの下女どころか、日々の仕事もまともにこなせない穀潰しの私が、なぜ巫女の侍女に選ばれたのか、今でも分からない。
それでも、嬉しかった。
この美しい人の傍に置いてもらえる。これほど幸せなことはないと歓喜した。この人の傍にいられるのなら、なんだってしたいと思った。侍女として選んでくださったお気持ちに応えたいと思った。
だけど、私は何も知らなかった。
己の力を卑下するなと言っていたこの人が、どうして己の力を疎んでいるのか。誇らしげに見せたくれた力を、どうして『浅ましい』と吐き捨ててしまうのか。
花鶯さんがどのような人生を歩み、何を考えてきたのか。私は何も知らない。
私は、ずっと心酔するばかりだった。
この人のことを、何一つとして知ろうとしていなかったのだ。
「……私は、あの力で救われました」
ぴたりと、花鶯さんの足が止まった。
「花鶯さんがあの日、力を見せてくださったおかげで、世界は『美味しい』だけじゃないと分かったんです。花鶯さんのこと、綺麗だって思ったんです。初めて人を『美しい』と思えたんです。私は――」
「その力で人を殺したと知っても、同じことが言えるの?」
予想外の返しに、言葉を失った。
花鶯さんは、振り向かない。
だけど、その背中は震えていた。傍目で見ても分かるくらいに
「……屋敷に住んでいた下女よ。あの子にも、私の力を見せてあげたの。あれをすると、みんな喜ぶから。私を褒めてくれるから。でも、あの子は魅入られすぎた。見惚れるあまり、周りが見えなくなって――――足を、滑らせたの」
想像して、私も震えた。
あの日と同じ場所で力を見せたのだとしたら、足場の悪いあの場所で、足を滑らせたのだとしたら…………ただでは済まないことくらい、頭の悪い私でも分かる。
(あ――――)
ふと、思い出した。
小さい頃に小耳に挟んだ、噂話を。
ある日、一人の下女が不慮の事故で亡くなった。
花鶯さんの御実家である緋家は、御三家なだけあって大所帯だ。同じ下働きでも、顔を合わせたことのない人の方が多い。私も大半の下女と同様、物心がついた頃から緋家で働いていたけど、その子と話をしたどころか会ったこともない。
だけど、自分と同じ下女が事故で死んだという話は、とても衝撃的だった。
(あれが、そうだったのかな)
だとしたら、花鶯さんは、ずっと一人で抱え込んでいたのだろうか。
あれほど誇っていた力を使うことを、止めてしまうほどに。ずっと、自分を責め続けてきたのだろうか。
己の力のせいで、人を死なせてしまったと。
「だから、あの力はもう――」
「私は、浅ましいだなんて思いません」
思わず、想いが口をついていた。
「私には、力を使っている花鶯さんが、とても楽しそうに見えました。笑顔が綺麗だなって思いました。だから、そんな花鶯さんに言われて嬉しかったんです。『己の力を己が卑下してどうするの。ちゃんと胸を張って、誇りなさい』って」
花鶯さんの背中から、渋みの強い甘柿の味がした。
顔が見えなくても、味で分かる。
言葉を失うほどに、動揺しているのだと。
「私は、花鶯さんのことを何も知りませんでした。花鶯さんになんて言えばいいのかも分かりません。だけど、花鶯さんの力が好き。それだけは確かなんです」
そう。私は花鶯さんの力が好きだ。
力を使っている時の笑顔が、大好きだ。
その気持ちまで、無かったことにしたくない。
「だから、力を使うかどうかは、花鶯さんに任せます」
「え?」
「私は、昔から体だけは頑丈です。山で足を滑らせたくらいでは死にません。花鶯さんの力で、私は傷ついたりしません。だから、私のことは気にしな――」
「そういう問題じゃないのよ!!」
花鶯さんが声を荒げた。
その背中と同じように、震えた声だった。
「あの力を使えば、周辺にいる他の猿まで来るわ! 大勢の猿が一気に押し寄せてくるのよ!? そんな状況で、足を滑らせたりでもしたら……っ」
「大丈夫です。絶対に被害は出ません。私が、そうします」
できる限り落ち着いて、はっきりと断言した。無茶苦茶を言っていることは分かっているけど、やるしかない。
今の私にできることは、花鶯さんの不安の芽を積むことだけだ。
「だから、周りのことは気にせず、花鶯さんの好きにしてください。私は――力を使う貴女の笑顔が、世界で一番、大好きなんです」
大好きという言葉につられて、頬が緩んだ。
そして、自分の願望に気が付いた。私は、花鶯さんに好きにしてほしいんだ。好き勝手に振る舞ってほしいんだ。
あの時みたいに、きらきらと笑っていてほしいんだ。
(浅ましいのは、私の方かも……)
伝えたいことは、全部伝えた。
あとは、花鶯さんの答えを待つのみだ。
「……黙って聞いていれば、好き放題言って」
花鶯さんの声から、震えが消えた。
振り向いて、私を見た。
「私がどれだけ、我慢してきたと思っているの?」
煌めきが、勝ち気なその眼に宿っていた。
⑤に続きます。
次回で、さるひと合戦終了となります。




