Faille 8
場所はようやく大通りになり、ひとまず2人は自宅へと避難した。佳志は相変わらず息を切らしている。部屋に入って躊躇なく亜里沙の布団へ大の字に寝そべった。
「ちょっとそこ私の布団! 前もアンタ私の使ってる布団入ったでしょ! いつも思うけどデリカシー持ちなさいよ!」
「じゃあ俺はこの硬い床で寝ろってのかよ」
「いいえ。ちゃんと新しい布団がふすまにあるから。自分で取って来なさい」
佳志はふすまを開け、そこにある布団を取り出した。
広げてみると、本当に新品だった。
「わざわざ買ってきたのかよ」
「か…買ってないから! 何でアンタのために私の生活費削らなきゃいけないのよこのバカ! 元々あっただけよ! 元々!」
「値札まだあるよ」
それに関しては彼女も想定外で、その札を速やかに切り取り、何もなかったかのようにした。
彼は黙って布団を敷き、そこで寝そべった。しばらくして亜里沙は彼に一つだけ問う。
「あ、アンタって、怖いモノ知らずなの? それともアンタみたいな奴でも、怖いモノとかってあるの?」
「急に何だよ。俺だって怖いモンの一つや二つくらいあるに決まってんだろ」
「例えば?」
「弱味でも握られると厄介だから言わないでおく。まぁ一つだけ言うなら、自分自身ってとこだな」
「何よそれ。自分が怖いとでも言いたいの?」
「うん。その通り。自分で言うのもなんだが、基本的に俺は自分以外は死のうが生きようがどっちでもいい。自分以外に価値観なんてないように見える。だから、強いて言えば俺からして価値のある人間。これが一番怖いんだよ」
「言ってる意味がイマイチ分からないけど、価値のある人間がどうして怖いのよ?」
「…………そんなの、その人が死んだら、俺はどうすりゃいいんだよ。守るべき人が、いなくなるってのは、メチャクチャ苦痛なんだよ。オメエには分からないと思うけど。第一、こんな事、何で今の俺が言えるのかもよく分からない。別に大切な人とか、今まで出会ったことも作ったこともないはずなのに」
彼は天井に手を伸ばしてそう言った。
――もしかしたら、あの優しい時の佳志に深く関連するのではないのだろうか。
亜里沙はそこに目をつけた。
「人なんて所詮、死んだらそこで終わりなんだよ。どう足掻こうが、そいつが生き返る事なんてない。だから殺してしまえば、それでいい。俺にはなぜか分かる。お前は、どうなんだよ」
「私は人は死んではいけないと思ってるわ。確かに死んじゃったら、もうそれ以上何もなくなってしまう。けどその前にその人を守ればいいと思うの。殺される前に、一刻も早く」
「…………オメエはポジティブで羨ましいな」
「私はアンタの保護者代理人だし、そもそも警察官だから一応アンタを守らなきゃいけないじゃん? まぁちょっと嫌だけど、アンタの身に危険が生じたら私の責任になるし。だからアンタも、そう簡単に死ねとか死ぬとか言うんじゃないわよ。アンタにどんな過去があったのかは知らないけど、私は人の命を大切にする。例えそれがアンタみたいな、通りすがりのチンピラでも」
「…………………」
あまりにヒーローじみたセリフに、佳志は吹き出しそうになった。
「お前、やっぱ何か違うわ。最初はただのウザいだけの婦警かと思ったけど、飴とムチってとこなんだな」
「ウザいは余計よ! ウザいは!」
佳志は布団の上で胡坐をかいた。
「いいよ。オメエの今の言葉だけは信用する。本当に例え俺みたいな屑でも守るかどうかは、まだ分かんねえけど、丁度今がその時だろ。わざわざ自分の組を俺にまで巻き込みやがって」
「悪かったわね。でも生憎、アンタをここで逃がす訳にもいかないのよ。柊はともかく、春成は必ずアンタをまた襲ってくるはずだわ」
「そうかい。でもそんなのどうでもいいんだよ。俺が言いたいのは、オメエは死ぬ前には生かす。そんだけだ」
それが『お前だけは絶対守る』という事に、亜里沙は薄々察していた。
佳志が亜里沙という1人の女の子に対して、どういう気持ちを抱いているのか。それだけは不明であった。
一般的な男性は好意を抱くはず。しかし彼は女性に向ける好意とはまた別の感情だった。
しかし残念ながらそれについては洞察力のキレた彼女でも察することはできなかった。亜里沙はあくまでもただの女の子である。しかも彼女は十六歳という若い年代の1人でもあって、本来は高校生なのである。
「け…佳志、アンタまさか私の事……」
赤面している彼女に、佳志は首を傾げた。
「す……好きなの?」
「バカなんじゃねえのお前」
一秒も経たず即答され、亜里沙は穴があったら入りたいといった無駄な絶望感を感じてしまった。
「年頃の人間はすぐにそれを『恋』って思い込むんだよな。まぁ俺もまだ十六だから分からなくもねえけどよ」
「うるさいうるさいうるさい! 黙れ! アンタ黙れ! 勘違いするようなこと口に出すからよ! 何で私こんな事言ったんだろ……意味分かんない」
無造作に色んな物を佳志に向けて投げるが、それも全て避けられてしまった。そして中には包丁も混じっていたことを避けてから気付く。
「オメエ、俺にそういうの触れない方がいいよ?」
「ん……ん?」
佳志は理由を言おうとしたが、それ以上はあえて言わない様にした。それを言うだけで、彼女がどれだけの苦痛を抱くか、バカな彼でも分かっていたからだ。
「やっぱ何でもない。別にいいんじゃない? 好きな人いるのお前? あの金司とかいう眼帯男とか?」
「いやいやいやいや! 年齢に差があり過ぎでしょ! できれば年上の人とかと付き合いたいわよそりゃあ! でもせめて二十代が限界だわ!」
「ふーん。まぁ恋愛なんて所詮恋愛なんだよ。男なんて所詮、女の身体しか狙ってねえんだしよ」
「あ…アンタも男じゃん」
「……………。面倒くせえな。俺がそんなものに興味があるとでも思ってんのかよ」
「だって男って、そういうものなんじゃないの?」
「俺をそんな欲求不満な奴らと一緒にすんな。俺はお前を受け入れたが、お前を好きになった訳でもないし、お前の身体になんて何の興味もない。勘違いするなよ」
「わ、分かってるわよそんぐらい。私だってアンタがそこらへんのヤカラとは何か違うってことぐらい承知の上だわ。そもそもアンタにそんなとこ興味持たれたら一番困るの私なのよ!」
「そうかい。なら不幸中の幸いってとこだな」
二人のよく分からない恋バナはそこで終了した。2人は同年齢だが、佳志は高校の歴が見当たらなく、多分あんまり思春期と言うものを知らないのだとということが考慮される。
しかし中学を通っているのであれば、異性に好意を持つことも一度はあるはず。なのにどうして佳志にはそういうのはなかったのだろうか。
ちなみに亜里沙も高校に通った経歴はない。増してや中学校もロクに通う事もなかったのだ。恐らく以前のギャング業界を過ごし、普通の青春に憧れたのだろう。
「……なぁ、お前って元々ヤクザだったのか?」
「うん。まぁね…。父親の娘だったわ。だから仁神組では下っ端から幹部まで慕われてた。そしてその生活が当たり前だと思ってたの」
「まぁデコになるくらいだから、よっぽどのキッカケがある事に越したことはねえよな」
「…………」
亜里沙はその場で正座し、ちゃぶ台越しの佳志の目を見て自分の過去を話した。