第15話 初めての敗北
ゴブリンキングが、大鉈を持ち上げた。
錆びた刃が焚き火の明かりを鈍く跳ね返す。 王は崖の縄に吊られたノアくんを見上げたまま、ゆっくりと広間を横切ってきた。ひれ伏したゴブリンたちが、道を開けるように左右へ這いずっていく。
「縄を引け! 急げ!」
ガスパルさんが叫んだ。 私とティムくんとリナさんは、三人がかりで縄を引いた。ノアくんの体が岩棚に近づいていく。あと少し。あと腕一本分。
王が大鉈を振りかぶった。
狙っているのは、ノアくんではなかった。 崖の縄だ。
「させるかよ!」
ガスパルさんが王の前に飛び込んだ。 長剣で大鉈を受け止める。鉄と鉄がぶつかる、耳を裂くような音が広間に響いた。
ガスパルさんの足が、地面を削って後ろへ滑った。 それでも、刃は縄に届かなかった。
「今のうちに上げろ!」
私たちは最後の力で縄を引いた。 ノアくんの体が岩棚の縁を越えて、岩の上に転がった。リナさんがすぐにノアくんを抱き起こす。息はある。目は閉じたままだけど、胸が上下している。
「ノア、ノア……!」
リナさんの声が震えていた。
「カイルさん! 次はカイルさんを!」
私は縄を下へ投げ下ろそうとした。 下では、カイルさんとセラが背中合わせになって、ゴブリンの群れを食い止めていた。
王が、また大鉈を振り上げた。
ガスパルさんは王の大鉈を三度受け止めた。 四度目で、長剣が弾かれた。
王の大鉈が横薙ぎに走った。 ガスパルさんは身をひねってかわしたが、刃先が左腕を浅く裂いた。浅く、と見えたのは一瞬だった。袖が見る間に赤く染まっていく。
「ガスパルさん!」
私は岩棚の縁から右手を突き出した。
撃たなきゃ。 王の顔に〈火線〉を当てれば、せめて怯ませることくらいはできるかもしれない。
「印を! ティムくん、王の顔に印を!」
「は、はい!」
光の粒が飛んで、王の額に灯った。 私は息を吸って、細く長く吐き出した。
赤い線が手のひらから伸びて、王の額の光に吸い寄せられていく。
当たった。 王の額で、小さな火花が散った。
それだけだった。
王の額には、小指の先ほどの焦げ跡がついただけだった。 オークの胸を貫いた〈火線〉が、王の分厚い皮膚の表面で止まっていた。
王が、ゆっくりと顔を上げた。 黄色い目が、初めて岩棚の上の私をまっすぐに見た。
背筋が凍った。 狼の群れの長が、同じ目で私を見ていたのを思い出した。一番危ない相手が誰なのか、分かっている目だった。
違う。 あのときとは違う。
この目は、私を危ない相手だとは見ていなかった。
王は腕を振りかぶって、手にしていた大鉈を岩棚に向かって投げつけた。
「障壁っ!」
ティムくんが私の前に飛び出した。 光の膜が張られた瞬間、回転する大鉈がそこに叩きつけられる。
膜は一瞬で砕け散った。 勢いを殺された大鉈が岩棚の縁に食い込み、崖の岩をえぐり取った。
ティムくんが衝撃で後ろへ吹き飛ばされて、岩壁に背中を打ちつけた。
「ティムくん!」
「だ、大丈夫、です……っ」
ティムくんは杖にすがって体を起こした。 新しい杖の先の月光石に、大きなひびが走っていた。
「撤退だ!」
ガスパルさんの声が、広間じゅうに響いた。
「セラ、カイルを連れて縄を登れ! 俺が最後だ!」
「ガスパルさん、でも……!」
私の叫びに、ガスパルさんは振り返らなかった。 左腕から血を滴らせたまま、落ちていた長剣を右手だけで拾い上げる。
「指示に従え、リリス! ギルドマスターとの約束を忘れたか!」
喉の奥で、何かが詰まった。
撤退の指示に、必ず従うこと。 一度でも逆らったら、冒険者証を取り上げる。
分かっている。 今の私には、もう何も撃てない。最後に残った魔力は、さっきの〈火線〉で使い切っていた。
岩棚の上で、私はただ縄を握りしめることしかできなかった。
セラがカイルさんを縄のほうへ押しやった。 カイルさんは縄を握りかけて、それから手を離した。
「カイル様?」
「……俺が登ったら、ガスパルさんが一人になる」
カイルさんはゴブリンから奪った錆びた剣を握り直して、ガスパルさんの隣に並んだ。
「俺はまだ戦えます。ガスパルさんを登らせてください。俺は、ガスパルさんが登る間の時間を稼ぎます」
「馬鹿野郎、何を……!」
「リリスさん!」
カイルさんが岩棚を見上げて叫んだ。 血と泥で汚れた顔で、それでもあの夜の酒場と同じ、人懐っこい笑顔を浮かべていた。
「ノアとリナを頼みます! 俺はまだ生きてる! だから、必ず戻ってきてください!」
「カイルさん……!」
王が、落ちていた別の大鉈を拾い上げた。 ゴブリンの群れが、再び押し寄せてくる。
セラが一瞬だけ迷い、それから決断した。 ガスパルさんの右腕をつかんで、無理やり縄のほうへ引きずっていく。
「ガスパル様。ここで貴方を失えば、次に来る者がおりません」
「……っ、くそったれが!」
ガスパルさんが縄をつかんだ。 私たちは残った力のすべてで縄を引いた。
ガスパルさんとセラが岩棚にたどり着いたとき、下ではカイルさんがゴブリンの群れに呑み込まれていくところだった。
最後に見えたのは、王の大きな手がカイルさんの襟首をつかみ上げる姿だった。 殺さなかった。王はカイルさんを、ぶら下げたまま奥の通路へ運んでいった。
また、捕らえたのだ。
裂け目を抜けて外へ出たとき、東の空が白み始めていた。
ガスパルさんはリナさんに肩を借りて歩いていた。 左腕に巻いた布は、もう赤黒く染まっている。弓使いの人にもらった止血の薬草は、全部そこに使った。
ノアくんはセラが背負っていた。 ティムくんはひびの入った杖にすがりながら、黙って歩いていた。
私は、何も持っていなかった。 空になった小瓶だけが、腰の革帯でからからと鳴っていた。
沢の近くまで下りると、馬車の御者台からダリオさんが飛び降りてきた。
「生きてたか……! おい、ガスパルの旦那、その腕……!」
「騒ぐな。見た目ほど深くねえ」
ガスパルさんは馬車の荷台に腰を下ろして、大きく息を吐いた。 顔色が紙のように白かった。
弓使いの人がすぐに傷口を洗って、新しい布で縛り直していく。 ダリオさんは荷台のノアくんとリナさんを見て、それから私たちの顔を見回した。
「……カイルは」
誰も答えなかった。 それが答えだった。
荷台に寝かされていたノアくんが、うっすらと目を開けた。 乾いた唇が、かすかに動く。
「……カイル、は……?」
リナさんがノアくんの手を握った。 しばらく唇を震わせてから、はっきりとした声で言った。
「生きてる。王に捕まったけど、生きてる。だから、また迎えに行くの」
ノアくんは小さく頷いて、また目を閉じた。 リナさんはノアくんの手を握ったまま、声を殺して泣いていた。
馬車がゆっくりと動き出した。 朝日が木々の間から差し込んで、荷台の上をまだらに照らしていた。
「リリス」
荷台の隅で膝を抱えていた私に、ガスパルさんが声をかけた。
「撤退の指示に従ったな」
「……はい」
「それでいい。お前は正しいことをした」
優しい声だった。 それが、何よりもつらかった。
正しいことなんて、何もしていない。 〈火線〉で撃てと言われていたのに、玉を撃ち続けた。七本の小瓶を、数える間もなく使い切った。本当に撃たなければならなかったときに、私の手の中には何も残っていなかった。
もし私が、最初から〈火線〉だけを撃っていたら。 魔力が残っていたら。 カイルさんは今、この荷台に乗っていたかもしれない。
ガスパルさんの腕も、裂かれなかったかもしれない。
家では、誰も私の炎を叱らなかった。 誰も負け方を教えてくれなかった。
私は膝に顔をうずめた。 涙が止まらなかった。声だけは、必死に押し殺した。
隣でティムくんが、何も言わずに私の背中にそっと手を置いた。
家を出てから二十一日目の朝。 私は初めて、負けた。




