第14話 空になった小瓶
叫び声が広間の天井に跳ね返った。
焚き火の周りで眠っていた影が、一斉に跳ね起きた。 十、五十、百。緑色の波がうねるように起き上がり、黄色い目が闇の中でいくつも光った。
「引け!」
ガスパルさんの怒鳴り声が下から響いた。 私とティムくんは、縄にしがみついたリナさんを力まかせに引き上げた。リナさんの体が岩棚の縁を越えて、私たちの上に転がり込んでくる。
「リナさん!」
「カイルが……ノアが、まだ……!」
リナさんの手首には、縄の痕が赤黒く食い込んでいた。 三日間、あの格子の中で縛られていたのだ。
「王が……王が奥にいるの。あいつ、毎晩一度だけ広間に出てきて、私たちを格子越しに眺めていくの。自分の獲物を選ぶみたいに」
リナさんは歯を食いしばった。
「だから私たち、生かされてた。王が選ぶまでは、ほかのゴブリンは手を出せないから」
リナさんは岩棚の縁から身を乗り出そうとした。 ティムくんがその腕を必死に押さえた。
下を見ると、カイルさんがノアくんを背負ったまま、縄の根元で立ち尽くしていた。 その周りに、ゴブリンたちがなだれ込んでくる。
ガスパルさんが長剣を抜いた。
教官室で茶を飲み、訓練場では新人の試験を腕を組んで眺めているだけの人。 その人が剣を抜いた瞬間、広間の空気が変わった気がした。
一振りで、先頭の二体が倒れた。 返す刃で三体目。四体目の槍を剣の腹でいなして、そのまま喉を突く。動きに無駄がひとつもなかった。
「カイル、登れ! ノアは縄に縛りつけろ、上で引く!」
「は、はいっ!」
セラがゴブリンの群れの隙間を縫うように走り、カイルさんとノアくんの前に立った。 短剣が閃くたびに、ゴブリンが喉を押さえて倒れていく。
でも、数が違いすぎた。 倒しても倒しても、後ろから次の影が押し寄せてくる。
「リリスさん!」
ティムくんが叫んだ。
「ガスパルさんたちの周りに、印をつけます!」
光の粒が三つ、四つと飛んで、下の群れの中に灯った。 私は岩棚の縁に立って、右手を突き出した。
撃たなきゃ。 早く、早く、撃たなきゃ。
気がついたときには、手のひらの上で炎が膨れ上がっていた。 〈火線〉ではない。いつもの玉だった。
放つ。 炎の塊が光の印に吸い寄せられて、群れの真ん中で弾けた。三体、四体のゴブリンがまとめて燃え上がる。
周りのゴブリンが悲鳴を上げて、火を避けるように散った。
効いた。 私はすぐに二発目を撃った。三発目。四発目。
炎が弾けるたびに、ゴブリンが燃えて群れが割れる。 でも割れた隙間は、すぐに後ろから押し寄せる影で埋まっていった。
四発目を撃ったところで、膝が崩れかけた。
私は腰の小瓶を抜いて飲み干した。 魔力が戻る。撃つ。また小瓶を抜く。撃つ。
「お嬢様!」
下からセラの声が飛んできた。
「玉ではなく〈火線〉を! 小物は私とガスパル様で抑えます!」
分かっていた。 ゴブリン一体に、玉は大きすぎる。〈火線〉なら半分以下の魔力で済む。昨日の夜、セラに言われたばかりだった。
でも、〈火線〉は細い。 一度に一体しか焼けない。これだけの数を前にして、一体ずつ焼いていたら間に合わない気がした。
三本目の小瓶を飲んだ。 玉を撃つ。群れが割れる。また埋まる。
頭の中で、誰かが数を数えていた。 自分の魔力で四発。小瓶で三発。もう七発撃っている。残りは何本だったか。
数えようとするたびに、下で誰かの剣が鳴った。 ガスパルさんの息が荒くなっていく。セラの短剣の音が、少しずつ遅くなっていく。
早く。もっと早く。 その焦りが、数を数える声をかき消していった。
広間の奥で、杖を持った影が立ち上がった。
ゴブリンの術師だ。 杖の先に、ぼんやりと灰色の光が集まっていく。狙っているのは岩棚の上、私たちだった。
「石礫が来ます!」
ティムくんが叫んで、杖を振った。
「障壁!」
光の膜が岩棚の前に張られた瞬間、拳ほどの石がいくつも飛んできて膜にぶつかった。 膜がきしんで、ひびが入る。
二発目の石礫が来る前に、私は術師に右手を向けた。
今度は、息を止めなかった。
細く、長く、吐き出す。 糸のような赤い線が手のひらから伸びて、広間の上を一直線に走った。ティムくんがとっさにつけた光の印に引かれて、線は術師の胸を正確に貫いた。
術師が杖を取り落として倒れた。
「当たった……!」
〈火線〉で撃った魔力は、玉の半分もなかった。 それなのに、玉よりもずっと確実に倒せた。
そう分かっていたのに。 次の瞬間、群れの中からホブゴブリンが三体、崖の岩肌に取りついてよじ登り始めたのを見て、私はまた玉を撃っていた。
ホブゴブリンは、普通のゴブリンの倍の背丈があった。 分厚い皮膚をしていて、玉を一発浴びたくらいでは止まらない。二発目でやっと一体が崖から落ちていった。
五本目の小瓶を飲んだ。 六本目を抜こうとしたとき、岩棚の縁に何かが当たって砕ける音がした。
生き残った術師の一体が放った石だった。 腰の革帯に差していた小瓶が一本、石に砕かれて、中身が岩の上に散っていた。
「……っ」
残った小瓶に手を伸ばして、それを握ったまま、私は凍りついた。 革帯に残っていたのは、その一本だけだった。
これが最後だ。 これを飲んで撃てば、もう何も残らない。
小瓶は七本あったはずだった。 一本は割れた。五本は、いつのまにか空になっていた。数える間もなく、ほとんどを玉に使ってしまった。
ガスパルさんとセラは、まだ下で戦っていた。 カイルさんはノアくんを縄に縛りつけ終えて、自分もゴブリンの槍を奪って戦っている。
私は最後の小瓶を飲み干した。
体の奥に、わずかな熱が戻る。 四発分の魔力と、七本の小瓶。玉なら十一発、〈火線〉ならその倍は撃てたはずだった。
今の私に残っているのは、たぶん〈火線〉が二発。玉なら一発だけ。
セラの言葉がよみがえった。 撃つのは、撃たなければならないときだけです。
分かっているつもりだった。 何も分かっていなかった。
「リリスさん……?」
ティムくんが、縄を握ったまま私の顔を覗き込んだ。 私の手の中の空の小瓶を見て、ティムくんの顔から血の気が引いた。
「僕の障壁、あと三回は張れます。光の印も、まだいくらでも出せます」
ティムくんは震える声で、それでもはっきりと言った。
「だから、〈火線〉を撃つときだけ言ってください。一発も外させませんから」
私は唇を噛んで頷いた。 ティムくんは、最初からずっと数えていたのだ。自分に残っているものを。私が数えるのをやめてしまったものを。
「引け! ノアを引け!」
ガスパルさんの声で、我に返った。 ティムくんとリナさんが、ノアくんを縛りつけた縄を必死に引いている。私も縄に飛びついた。
ノアくんの体が、少しずつ持ち上がっていく。 大人三人分の高さ。半分を越えた。あと少し。
そのとき、広間の奥から地響きが聞こえた。
ずしん、と。 岩棚の床が、足の裏から震えた。
広間じゅうのゴブリンが、一斉に動きを止めた。 戦っていた影も、燃えていた影も、みんな同じ方向を向いて、地面にひれ伏していく。
広間の一番奥の、暗い通路の方向だった。
ずしん。 ずしん。
足音が近づいてくる。 焚き火の明かりの届くところまで、それはゆっくりと歩み出てきた。
大人の倍はある背丈。 錆びた鉄の鎧を体に巻きつけ、片手には、人の背丈ほどもある大鉈を引きずっている。 頭の上には、どこかの貴族から奪ったらしい、歪んだ金の冠が載っていた。
黄色い目が、広間を見渡した。 そして、崖の縄に吊られたノアくんの上で止まった。
縄を握る私の手から、力が抜けかけた。
ガスパルさんが、長剣を構え直す音が聞こえた。
「……王だ」




