新・第37話:『零の気だるげな暇つぶし(前編)』:『「……一花。今日も、そこに置いとくからな」』
――脳髄を快楽の過剰負荷によって内側から焼き潰され、床の上で白目を剥いて泡を吹き、痙攣を繰り返すだけの哀れな肉塊と化した男たち。
中層の薄暗い大部屋の物陰、その凄惨極まる絶頂の地獄の真ん中で、一ノ瀬零は自身の左腕の中に、明るい赤色のジャケットを無残に引きちぎられた一花の震える身体を、自分の腕の中から二度と離さないように抱えていた。
「一花……一花っ、目を開けるな。見なくていい……っ」
零は泣きながら、喉から血が滲むほどのぶっきらぼうな掠れ声で彼女の耳元に何度も囁き、弾かれたようにその場から走り出した。
男たちの痙攣する音を背に浴びながら、中層の薄暗い回廊を、入り口(地上)へ向かって死に物狂いで地を蹴り割る。
まだ固有スキルを戦闘へ応用する術など知らない。
今の零にできることは、ただ自分の足で走り続けることだけだった。
その細い両腕に、恐怖とショックのあまり呼吸の仕方を忘れたかのようにガタガタと震え、声すら出せずに涙を流し続ける一花の重みを感じながら、零は狂ったように迷宮の闇を駆け抜けていた。
「おい、一花っ! しっかりしろ! 俺がここにいる、零がここにいるからな……っ! だから、もう絶対に触らせねぇ、誰にもお前に触らせねぇから……っ! 頼む、一花、一花ァ!!」
走るたびに、腕当てと脛当てが虚しく悲鳴のような金属音を立てて回廊に響き渡る。どれだけ必死に名前を叫び、ぶっきらぼうな不器用さで必死に励まそうとしても、彼の胸元に顔を埋める一花からは何の返答もなかった。
ただ、零の灰色のジャケットの胸元が、一花の流す熱い涙だけで見る見るうちに濡れて重くなっていく。その温かさが、間に合わなかった自分への、この世の何よりも痛烈な刃となって零の胸の奥を激しく抉り続けていた。
◇
中層の長い回廊を抜け、地上の眩しい光が差し込むギルド本部のゲートへと、零は一花を抱きかかえたまま飛び込んだ。
その瞬間、ロビーを血相を変えて横切ったのは、いつも受付のカウンターから2人のやり取りを笑顔で見守ってくれていた、なじみの受付嬢だった。
「一花さん..... っ!? 零さん..... 一体、何があった んですか..... っ!!」
受付カウンターから飛び出してきたのは、ひより だった。
いつも穏やかな笑顔を浮かべ、零と一花のやり取 りを静かに見守っていた彼女の顔から、普段の余 裕は完全に消えていた。
つ」
目の前の光景を理解した瞬間、ひよりの表情が凍 りつく。
それでも、震える手を必死に動かし、自分のギル ド制服の上着を脱ぐと、一花の身体へ優しく掛け た。
「大丈夫です... 一花さん。もう大丈夫ですか ら......」
そう声を震わせながら、ひよりは一花を守るよう に布を整えた。
ひよりの震える声を聞いた職員たちも、すぐに状況を察した。
周囲の職員たちもすぐに血相を変えて集まり、親身になって「すぐに救護班を!」「毛布と温かい飲み物を持ってきて!」と、必死になって2人の痛みに寄り添い、迅速に手配を始める。
ギルドの仲間たちの、どこまでも温かく必死な救いの手。零は一花の身体を救護ベッドへ横たわらせ、その冷え切って震える一花の手を、両手で血が滲むほど強く握りしめた。
その姿を見て、ひよりは息を呑んだ。
いつも面倒そうに笑っていた零。
何事にも興味がなさそうで、誰かに本気で執着することなんてないと思っていた男。
その零が今、誰よりも必死に、一人の少女の手を握っていた。
「……零さん」
ひよりは小さく呟く。
その声には、悲しみと同時に、確かな驚きが混じっていた。
だが、周囲がどれほど親身になって声をかけ、温かく介抱しようとしても、一花の瞳に、かつて零のククリナイフを「早くて格好いいね!」と本気で褒めてくれたあの輝きが戻ることはなかった。
一花の瞳はガラス細工のように虚ろで、ただ天井の一点を見つめたまま、涙だけを両目から溢れさせていた。
「もう終わったんだ、一花。……もう、あのクソ野郎どもはどこにもいねぇ。お前を傷つける奴は、この世界に一人もいねぇんだよ。……だから、頼むから、何か言ってくれよ……っ」
零の声は震えていた。これまで数え切れないほどの女性を抱き、快楽を貪りながらも、心はいつでも空っぽの「零」のままで、他人に執着したことなどただの一度もなかった男が、人生で初めて、涙を流して一人の少女に縋り付いていた。
これまで何でも手に入ると思っていた。
欲しいものなんて、なかった。
なのに。
今だけは。
元の姿に戻せるなら、俺はなんだって差し出す。
だが、ギルドの皆の温かい呼びかけに対しても、一花はただ怯えたように小さく身を縮めるだけで、
一花の口から、言葉が紡がれることはなかった。
◇
それからの日常。一花が昔のように笑うことは、本当に、完全に無くなってしまった。
一花はギルドの宿舎の最果てにある、薄暗い一室にただ一人で頑なに引きこもるようになった。
ダンジョンへ近づくことすら激しいパニックを起こすようになり、そればかりか、自分を救い出してくれた零と顔を合わせることすら拒むほどに、一花の心は粉々に壊れてしまっていた。
かつての嘘のないピュアな関係は最悪の形で引き裂かれ、ドアの一枚を挟んで、2人の距離は永遠のように遠ざかってしまった。
だが、それでも、零が一花を見捨てることなど、死んでもできるわけがなかった。
「……一花。今日も、そこに置いとくからな」
夕暮れ時、夜のネオンが街に灯り始める頃、零は毎日、毎日、一花が引きこもる冷たい木製のドアの前へと足を運んでいた。
そして、一花が大好きだったギルド近くの露店にある、温かいカボチャのスープと焼き立ての丸いパンが入った袋を、静かにドアノブへと掛ける。
――「……っ、……ぅ」
ドアのすぐ向こう側、床に座り込んで膝を抱えているのであろう一花の、声にならない微かな、怯えたような呼吸の反応が零の耳に届く。
零は灰色のジャケットの背中をその冷たいドアへと預け、床に深く腰を下ろすと、首筋をガリガリと面倒そうに掻きながら、ぶっきらぼうなな口調のまま、一花が聞いてくれているのをただ信じて、ドアの外から語りかけ続けた。
「今日さ、ギルドの購買スペースに行ったら、新しいククリナイフの滑り止め用の革が売ってたんだよ。……だけどさ、一花が前に無理やり巻きつけた、あの変な花柄のテーピング。……まだ剥がしてねぇから。経年で少し汚れて黒ずんできちまったけど、握るとちょうど手に馴染むんだよ。だから、剥がす理由がねぇ」
零は自身の左手に握られた黒鉄のナイフ、その柄に巻かれた花柄のテーピングを静かに指先でなぞった。
「一花、お前マジでうるさかったよな。俺に合うわけねぇだろって言ったのに、
『無事を祈って心を込めて巻いたんだから剥いじゃダメ! 約束!』
とか言ってさ。……約束、守ってんだから。だから、一花、早くまたうるさく笑いに来いよ。……お前がいないと、この街、すげぇ退屈なんだよ」
ドアの向こうからは、相変わらず声としての返事はない。ただ、一花の微かな拒絶の呼吸の音だけが、木の一枚を挟んだ内側から静かに伝わってくる。
それでも、零は毎日、毎日、誰も救えなかったという底なしの虚無と、一花への狂おしいほどの不器用な執念だけを胸に、冷たいドアの外で、他愛のない昔の思い出話をゆっくりと語りかけ続けるのだった。
誰かを待つことなんて、人生で一番面倒な暇つぶしだった。
それでも。
零は毎日、その面倒な暇つぶしを続けた。




