新・第38話『零の気だるげな暇つぶし』―「君の覚悟が本物であることは、この私が証明しよう」――凍てついた零(ゼロ)の心に灯る光』―
――一花が心を閉ざし、宿舎の部屋のドアが一枚の冷たい壁となって2人を隔ててから、さらに数日が経ったある夜。
零はギルド本部の隅にある、薄暗い酒場のカウンターで一人、強い酒を何杯も喉へ流し込んでいた。
一人、泥のように強いアルコールをジョッキで何度も、何度も煽っていた。
「チッ……クソが……ッ!」
どれだけ強い酒を胃袋に流し込んでも、脳裏にこびりついたあの日の最悪の景色が、一花の引き裂かれた明るい赤色のジャケットが消えてくれない。
間に合わなかった。自分が、いつも通りダルそうにロビーを歩いていた、あの無駄な数分の遅れのせいで。すべては、自分の無力さと甘さが招いた最悪の結末だ。零は自らの拳が血に染まるほど強くジョッキを握りしめ、粗暴に、狂ったように自分を責め続けていた。
恋だの愛だのという感情は今も分からない。けれど、あのひまわりのように笑っていた一花の光を奪ったのが、他でもない自分の「遅れ」だという事実が、彼の胸の奥を激しく抉り続けていた。
そんな、自責の絶望に押しつぶ死にそうになっていた彼の真後ろに、のっそりと、圧倒的な黒光りする巨躯が立ち塞がった。世界1位のソロ配信者、剛力モストだった。
その瞬間だった。
酒場のざわめきが、ほんの一瞬だけ消えた。
誰かが近づいたからではない。
そこにいるだけで、空間そのものが変わったからだ。
「若き探索者よ。……ひどく、筋肉が曇っているな。そのように自らを自傷のアルコールで痛めつけるのは、あまり良いワークアウトとは言えんぞ」
モストはいつもの配信用の豪快な大笑いを消し、どこまでも大真面目な、深い慈愛の宿った瞳で零を見つめていた。しかし、そのまばゆいばかりの本物のヒーローの輝きを真っ正面から浴びた瞬間、零の胸の奥で、ドロドロとした黒い怒りが爆発した。
「……触るな」
零はジャケットの肩に置かれかけたモストの手を乱暴に振り払うと、丸椅子から立ち上がり、キレすぎて地の底までトーンの落ちた冷たい声で、世界1位の男を真っ直ぐに睨みつけた。
「関係ねぇだろ……ッ! 引っ込んでろよ、そんな何でも守れるような顔した筋肉バカには、関係ねぇんだよッッ!!!!!」
酒場全体が凍りつくような零の粗暴な怒号。しかし、モストは怒ることもなく、ただ静かに、零の背負った悲痛の重さを受け止めるように言葉を返した。
「うるせぇ……うるせぇよッ!!」
零はモストの胸板を両手で思い切り突き飛ばした。
――ドンッ!!
まるで巨大な岩を押したような鈍い音だけが酒場に響くが、モストは一歩たりとも動かなかった。
「何で動かねぇんだよッ!!」
零は叫びながら何度も拳を叩きつける。
ドンッ!!ドンッ!!ドンッ!!
拳が痛い。
皮が裂け、血が滲む。
それでも止まらない。
「俺が……ッ!」
ドンッ!!
「俺が遅れたからッ!!」
ドンッ!!
「あいつは笑わなくなったんだよッ!!!」
――ガァンッ!!
今度は勢いのまま近くの木製テーブルを蹴り飛ばし、椅子が倒れ、ジョッキが砕け、酒場中にガラス片が散る。
周囲の冒険者たちは息を呑み、誰一人として近寄れない。
「クソがァァァッ!!」
零は自分の拳を壁へ叩きつけたけ鈍い音が鳴り、
壁にヒビが入り、拳から鮮血が流れる。
それでも痛みなんて感じなかった。
心の方が、何倍も痛かったから。
そんな零を前にしても、モストは避けない。
怒らないで静かに、そのすべてを受け止めていた。
「守れる、だと? ……いいえ、違うな、一ノ瀬零。私のこの【絶対筋肉障壁】は、味方の魔法やバフすら弾き飛ばす孤独の盾。どれほど私が前線で無敵であろうとも、その跳ね返した衝撃の余波で……後ろにいる大切な仲間(後衛)を傷つけ、失うことしかできなかった、絶望の塊だ。……君は今、あの少女を救えなかった自分を殺そうとしている。だが、それでは何も変わらんぞ」
「うるせぇ……うるせぇよッ! お前みたいに世界1位まで登り詰めた無敵の男に、俺の何が分かるんだよ! 一花は、一花はもう笑わねぇんだぞ……っ! 俺が、俺がほんの数分遅れたせいで、あいつの人生は全部めちゃくちゃになったんだよぉおッ!!」
零は泣いていた。いつものダウナーな仮面を完全に剥ぎ取られ、涙をボロボロと流しながら、自分の無力さに大声を上げてモストの胸板を両手で激しく小突いた。モストはその零の弱々しい拒絶の拳を、避けることもなく、ただその大きな生身の身体ですべて受け止め、深く、静かに目を閉じるだけだった。
零は男を睨みつけたまま、ジョッキを床に叩きつけて爆砕させると、酒場から逃げるようにして夜の街へと飛び出していった。
◇
翌日、零が発動したあの【性欲と感度の掌握】という固有スキルの情報は、瞬く間にギルド本部を激しく揺るがしていた。
ただ足が速くて強いだけの普通の探索者だった少年が、中層のベテラン数人を、触れ合うことすらなく快楽の過剰負荷だけで脳髄を焼き潰し、白目を剥いて泡を吹かせたという事実。その強力すぎる、あまりにも悍ましい最凶のスキルの顕現に、ギルド内は色めき立っていた。
零がギルドの飲食スペースで、灰色のジャケットのポケットに手を突っ込み、心底ダルそうに突っ立っていると、かつて彼が名前も覚えずに流されるままに関係を持ったことのある、きらびやかな衣装の女冒険者たちが、下衆な好奇心の引きつった笑顔を浮かべてゾロゾロと誘いかけてきたのだ。
「ねえ、一ノ瀬様。ギルドで噂になってるわよ? その、女の子をものすごく気持ちよくして行動不能にするスキルって、一体どんなものなのかしら? ねえ、私にも今夜、ベッドで試してくれない?」
「……うぜぇ。どっか行けよ、汚ぇ手で触るな」
零はいつもなら流されるままに彼女たちの誘いに乗っていたはずだった。だが、一花を失った今の彼の瞳は、完全に凍りついた「零」の虚無。零が恐ろしいほどの冷徹さで彼女たちの腕を払いのけ、一切誘いに乗らずに突き放したその瞬間、女たちの顔から引きつった笑顔が消え、一瞬にして冷酷な悪意へと反転した。
「なによ、色欲の化け物のくせに、ちょっと強いスキルが顕現したからって調子に乗らないで頂戴! どうせ、下品な性欲を操るだけの、薄汚い変態の分際で!」
「そうですわ、本当に気持ち悪いですもの。あんなおぞましいスキル、探索者としての誇りのかけらもありませんわね!」
手のひらを返し、零のスキルの内容を激しく貶し、色欲の化け物と罵る女たち。零は言い返す気力もなく、ただその人間の醜い言葉の暴力を背中で受け止めようと、首筋をガリガリと掻いて目を伏せた。だが、その時だった。
「――そこまでにしなさい、ガールズ」
地鳴りのような重低音と共に、零の背後に、あの剛力モストの圧倒的な巨躯が再び割って入った。モストから放たれる、世界1位の男の底知れない「盾の威圧感」の圧力が、大部屋の空気を一瞬にして凄まじい重力へと変えていく。モストは冷酷な言葉を吐き散らしていた女たちを真っ正面から見据え、大真面目な声でいさめた。
「命がけのダンジョンの中で、自らの筋肉を限界まで削り、大切な者を守るために死に物狂いで力を発現させた者を、安全な場所から言葉の刃で傷つけることは、この剛力モストが絶対に許さん。君たちの放ったその不純な言葉は、探索者としての誇りを汚すものだ。……すぐに立ち去りなさい」
「ひっ……っ、も、モスト様……っ」
世界1位の男の圧倒的な正義の圧、 そしてその凄まじい眼光の前に、女たちは一瞬にして顔を青ざめさせ、悲鳴を上げるようにしてその場からクモの子を散らすように逃げ出していった。
静まり返った飲食スペース。零は、自分のために怒り、自分の代わりに人間の悪意を全て弾き返してくれたモストの大きな後ろ姿を、ただ、呆然と見上げていた。 モストはゆっくりと零を振り返ると、昨日と同じように、どこまでも頼もしい笑顔を浮かべてその大きな手を零の肩へと置いた。
「一ノ瀬零君が何を恐れられようと、君の力がどれほど醜く見えようと私は知っている。」
「あの時、君の刃が向いていた先は、君は誰かを傷つけるためではなく、守るために立ち上がった」
「君の覚悟が本物であることはこの私が証明しよう」
零は自身の左手のナイフに巻かれた、あの一花の少し汚れた花柄のテーピングを静かに見つめ、それから、モストのその大きな手の温もりをじっと噛み締めていた。
世界から拒絶され、化け物と恐れられた少年。しかし、この無敵の盾の男だけは、自分の本当の覚悟を見てくれた。零の冷え切っていた瞳の奥に、初めて、折れない本物の「最速の閃光」としての凄まじい光が宿り始めるのだった。




