新・第34話:『零の気だるげな暇つぶし』―「絶対に剥いじゃダメだよ、約束!」――恋を知らないチャラ男が掴んだ、たった一輪の花―
――カン、と不機嫌な音を立てて、零は空になった木樽のジョッキをギルドの飲食スペースのテーブルへと置いた。
探索者たちでごった返す喧騒と、血生臭いオイルの匂いが漂う薄暗い空間。灰色のジャケットを乱暴に羽織り、腕当てと脛当てをガチッと装着した無骨な軽装鎧スタイルで深く丸椅子に腰掛けていれば、こちらから声をかけるまでもなく、きらびやかな衣装を纏った女性探索者たちが次々と吸い寄せられるように集まってくる。
「ねえ、零。今夜、私と楽しいことしない? 良いお店知ってるんだけど」
「……別に、いいけど。お前が全部奢ってくれんならな」
ダウナーで少し粗暴な口調のまま、零は彼女たちが差し伸べてくる腕を取り、誘われるがままに夜の闇へと消えていく。逆ナンされて、ただ流されるようにベッドを共にする退屈な日常。
けれど、どれだけ違う女性の肌を抱きしめても、熱い吐息を交わし合っても、彼の胸の奥にぽっかりと空いた底なしの穴が埋まることは決してなかった。
他人の温もりに触れれば触れるほど、自分の心の中心にある「零」という凍りついた虚無の冷たさが、より一層深く身体を蝕んでいくのを感じていた。
女なんて、みんな俺のこの顔しか見ていない。誰も、一ノ瀬零という人間には興味なんてない。
――だが、あの少女、一花だけは、最初から何もかもが違っていた。
それは固有スキルなど顕現していない、ただ足が少し速くて強いだけの、普通のイケメン探索者だった頃のこと。
ある日のギルドの広大なロビー。いつものように女性探索者たちの熱視線とうんざりするような誘いの声を浴びながら、ベンチに深く腰掛けていた零の前に、元気いっぱいの足音を響かせて突撃してきた一人の女の子がいた。
「ねえねえ! あなた、さっき訓練場で動いてた一ノ瀬零くんでしょ!? すっごく足が速かった! あんな動き初めて見たよ!」
それが、一花との最初の出会いだった。明るい赤色のジャケットを羽織った彼女は、満面のひまわりのような笑顔を浮かべ、零の顔の良さには目もくれず、ただ純粋な一人の探索者としての憧れの瞳を輝かせていた。
一花はどこまでもピュアで、優しくて、いつも元気いっぱいに零の心の領域へと踏み込んできた。
周囲の女性たちが零の「絶世のイケメン」という記号に群がる中、一花だけは、彼の顔の事などただの1言も口にしなかった。それどころか、零が毎晩のように違う女性に声をかけられて夜の街へと消えていく姿を見かけても、やましい事なんて何もしていないと本気で信じ切っていたのだ。
「あ、零くん! また女の子たちの相談に乗ってあげてたんだね! いつもみんなの話をぶっきらぼうだけど優しく聞いてあげて、本当に零くんは面倒見が良いなぁ! 尊敬しちゃう!」
「……は? 相談って、お前な……表に出て口を慎め。何をどう解釈したらそうなるんだよ」
「えへへ、だっていつも女の子たち嬉しそうに零くんと帰っていくもん! 私も今度、戦い方の相談乗ってもらおうかな!」
あまりの純粋さに、零は呆れて言葉を失い、首筋をガリガリと掻くしかなかった。いつものチャラついた態度も、女を口説く手慣れたセリフも、一花の底抜けのピュアさの前では全てが霧散してしまう。けれど、その裏表のない真っ直ぐな言葉が、彼の冷え切った胸の奥を、不器用なほど優しく、じんわりと温めていくのを感じていた。
彼女はいつだって、下心なんて1ミリもなく、ただ一人の友達として零の全てを褒めてくれた。
ある日、ギルドの購買スペースのベンチで、零が2本のククリナイフを広げて手入れをしていたときも、一花は嬉しそうにトトトッと駆け寄ってきて、その手元をじっと覗き込んできた。
「わあ……! そのククリナイフ、すごく格好いいね! 刃の形が独特で湾曲してて、零くんのあの素早い戦い方にすっごく似合ってると思う! ……あ、でも、こっちの左手の柄、滑り止めの革が少し擦れてボロボロになってない? 零くん、はいこれ!」と、可愛らしい花柄のテーピングを取り出した。
「……は? おい一花、なんだよその花柄のテーピングは。俺には似合わないだろ、今すぐ仕舞え。」
「えへへ、ダメだよ! 零くんがその格好いいナイフを持って戦場を風みたいに駆け抜けるところ、私、本当に大好きなんだから! 私が零くんの無事を祈って、心を込めて無理やり巻いちゃうんだからね。絶対に剥いじゃダメだよ、約束!」
「……チッ。約束なんか知らねぇよ。」
「ダメ! 約束!」
「……うるせぇ。」
一花は零の文句を笑い飛ばしながら、彼の左手のナイフの柄へ、楽しそうに入念に花柄のテーピングを巻きつけていく。零は乱暴に顔を背けたが、引き締まったその耳の裏が、微かに赤くなっているのを隠しきれていなかった。
一度も誰かに恋をしたことなどない。毎晩、違う女性の肌を抱きながらも心はいつでも空っぽだった。けれど、一花に対してだけは、絶対にそんな汚い手を出すことなどできなかった。女として消費して汚してしまうのが、たまらなく怖かった。
自分のことを「一ノ瀬零」という一人の人間として、初めて真っ直ぐに見てくれた、世界でたった一人の大切な友達。この美しくて温かい、嘘のないピュアな関係を、自分の薄汚い欲望で絶対に壊したくなかった。だからこそ、零は一花を恋という枠すら超えて大切に想い、ただの不器用な『友達』として、夕暮れの街で他愛のない話をしながら、隣を歩き続けていた。
「ねえ、零くん! 今度の週末、中層の新しいエリアへ一緒に探索に行こうよ! 私、零くんの足引っ張らないように特訓しておくから!」
「あぁ? ……まぁ、お前がそこまで言うなら、付き合ってやらなくもねぇよ。遅れんなよ、一花」
「やったぁ! 絶対に遅れないよ! 約束だからね、零くん!」
「……チッ。うるせぇ。」
そう吐き捨てた零の口元が、ほんのわずかに緩む。
小指を突き出して笑う一花と、それをダルそうに、けれど優しく見つめる零。
零は面倒くさそうにその指へ自分の小指を絡め、小さく舌打ちした。
「……約束だ。」
しかし――そんな愛おしくも温かい日常の約束は、ほんの一瞬の、取り返しのつかない「遅れ」によって、
最悪の血の海へと引き裂かれることを、この時の二人はまだ知らない。




