第九話 アルス&ノクス編 第四章の終わりに——一歩、近くなった夜
王都への帰路で、アルスは馬車の窓から北の空を見ていた。
昨夜何かが起きた——そのことは右手の痕が証明していた。
鱗の形の痕は夕方になってもまだかすかに残っていた。
今夜も傷がつくかもしれない。
しかし——もう、それを恐れていなかった。
夜の自分を恐れていなかった。
何者かは分からない。
しかし——孤児院に毛布を届け、民を守るために動き、七賢院に証拠で立ち向かっている——その者が、どんな名前を持っていても、怖くはない。
むしろ——頼もしいとすら思う。
右手の鱗の痕をもう一度見た。
「……ありがとう」
呟いた。
誰に言ったのかは、分からなかった。
しかし言葉は出た。
今朝も言った言葉をもう一度。
馬車が揺れる。
ライトが地図を確認している。
護衛の騎士が馬を並べている。
王都の外壁が遠くに見えてきた。
夜になれば「誰か」が目覚める。
その「誰か」は今夜、何をするのだろう。
アルスには分からない。
しかし——同じ方向を向いているはずだ。
それだけで、十分だった。
* * *
同じ頃。
夜がまだ終わりかけていた王都の外れで、ノクスは隠れ家に戻る途中だった。
南方の竜の件は決着した。
ヴァルガンという新しい仲間を得た。
ドゥルスがもたらした情報で、証拠の整理が進んでいる。
今夜、軍部の証拠をもう一つ積んだ。
七賢院の偽情報工作を逆手に取る道も見えた。
十分だ。
ノクスは空を見上げた。
東の空がかすかに白くなっていた。
夜が終わる。
右手首に視線を落とした。
今夜もついている。
竜との戦いの後につき直した薄い傷。
「……また、か」
低く呟いた。
頭の奥に何かが漂っていた。
白いローブ。子供たちの声。見たことのない顔。
しかし今夜は——その感覚を、打ち消さなかった。
少しだけ置いておいた。
ヴァルガンが言った。「昼の自分から目を背けるな。南の方角を見た感覚を、大事にしろ」と。
その言葉の意味が、今夜は少しだけ分かる気がした。
南の「俺」が、今頃馬車の中で王都に向かっているはずだ。
右手に鱗の痕を持って。
「……お前も」
ノクスは呟いた。
「同じものを持っているんだな」
夜が、終わろうとしていた。
一人は光の中に歩き出す。
一人は夜の終わりに止まる。
しかし——今夜は少しだけ。
二人の間の距離が縮まった気がした。
そして——南の空に、もう煙はなかった。
馬車が王都の門に近づいた時、ライトが言った。
「アルス様。一つだけ聞いていいですか」
「何だ」
「右手首の傷——今日は治されなかったですよね」
アルスは答えなかった。
「……それは、何かを決めたからですか」
しばらく沈黙があった。
「……そうだな」
アルスはゆっくり言った。
「何かを——決めた」
「何を決めたのですか」
「恐れるのを、やめた」
ライトは少しの間、アルスを見た。
「……そうですか」
「詳しくは、まだ言えない。しかし——いつか言える日が来る」
「はい」
ライトは静かに頷いた。
その「はい」には、「分かりました」と「信じています」の両方が込められていた気がした。
門番が敬礼した。
馬車が王都の中へ入っていく。
石畳の音が戻ってきた。
アルスは、帰ってきた。
夜が終わる直前。
ノクスは隠れ家の入口に立って、空を見上げた。
東の空が、白からほんのり橙に変わりかけている。
昼が来る。
昼の「俺」が目覚める。
「……また明日」
ノクスは静かに言った。
そして——扉の中へ消えた。
一人は光の中へ。
一人は暗がりの中へ。
しかし——同じ体が、同じ目標を持って、別々に動き続ける。
——そうして、終わった。
王都の朝が始まる。
石畳の上に、人々が動き始めた。
光の中に、昼が来た。
影の中に夜が去った。
一人は目覚め、一人は眠る。
しかし——同じ体が今日も続く。




