第二・五話 幕間 カイン視点 ——背中を見送った男
カインは隠れ家の入口でノクスの後ろ姿が夜の中に消えるのを見ていた。
「一人で行く」とノクスが言った時カインは何も言わなかった。
言う必要がないと判断したからだ。
この男が一人で行くと決めた時、それを変える言葉は存在しない。
五年間でそれを学んだ。
口で止めても意味がない。
実力で止めることは最初から不可能だ。
しかし——今夜は少しだけ違和感があった。
ノクスが出発する前に——一瞬だけ、南の方角を見た。
ほんの一秒に満たない動作だった。
しかしカインは見逃さなかった。
今日、聖枢機卿の支援隊が南方へ向かったことはエルザが報告していた。
南。
そこに——昼の「ノクス」がいる可能性が高い。
ノクスは南を見た後すぐに北へ向いて歩き始めた。
その一秒にも満たない動作をカインは見逃さなかった。
五年間で初めて見る動作だった。
この男が出発前に「別の場所」を気にする姿を、カインは一度も見たことがなかった。
任務の前は常に目標だけを見る。
感傷はない。
それ以外の方向に目が行くことは——なかった。
今夜は違った。
エルザが隣に来た。
「……カイン様は、行かなくていいのですか」
「俺が行っても邪魔になるだけだ」
「それは分かっています」
「……何が聞きたい」
エルザはしばらく黙ってから言った。
「今夜のノクス様は、いつもと少し違う気がします」
「そうだな」
カインは答えた。
「今夜は違う」
「何が違うのですか」
「南を見た」
エルザが少し驚いた顔をした。
「……そういうことですか」
二人でしばらく、夜の北の空を見ていた。
ノクスの姿はもう見えない。
しかしカインには、その背中が今も見える気がした。
五年間この男のそばにいた。
「亡者」として裏社会を支配し、七賢院の証拠を積み上げ、民を守るために動き続けた男の背中を。
今夜はその背中が——少し違う重さを持っていた気がした。
南に向かった「昼の自分」へ向けた一瞬の眼差し。
それが何を意味するか、カインには言葉にできなかった。
しかし——この男が、何かに気づき始めているのは感じ取れた。
五年間でこの男が「別の方向を見る」のを今夜初めて見た。
それはカインにとって——小さいようで大きなことだった。
「……エルザ」
「はい」
「今夜の件は、記録しなくていい」
エルザは少し間を置いた。
「……南を見た件もですか」
「ああ」
エルザはゆっくりと手帳を閉じた。
「分かりました」
二人はしばらく夜の空を見ていた。
ノクスの姿はもうどこにもない。
王都の灯りが北の空の下に点々と続いている。
その先に——竜がいる。
「……戻ってくるのを待ちましょう」
エルザが言った。
「ああ」
カインは答えた。
「いつも通りに、戻ってくる」
それだけを信じることにした。
五年間この男を信じてきた。
今夜も——信じるだけだ。
ただ一つ今夜は違うことがある。
この男が戻ってくる時何かを持って帰ってくる気がした。
その「何か」が何なのかはまだ分からない。
しかし——今夜の一瞬の眼差しがその予兆だとカインは感じていた。
夜が深くなっていった。




