第八話 アルス&ノクス編 鏡、再び——近づく境界
夜更けの礼拝堂でアルスは灯りの前に座っていた。
明日は南方への支援隊出発だ。
準備は整っている。
しかし——眠れない。
ランタンの炎が揺れている。
石造りの礼拝堂は夜になると音が消える。
外の風の音すら分厚い石壁が飲み込んでしまう。
目を閉じると鏡の残像が浮かぶ。
黒いフードをまとった自分の姿。
大通りのショーウィンドウで一瞬だけ見えた。
見えた気がした——では、もうない。
しかしあの感覚は錯覚と呼ぶには鮮明すぎた。
「……俺は夜に、何かをしている」
呟いた言葉が礼拝堂の石壁に吸われた。
夜の記憶がない。
これは昔からだ。
眠りにつき目が覚めると、その間の時間が丸ごと消えている。
夢遊病だと自分に言い聞かせてきた。
しかしそれだけでは説明のつかないことが積み上がってきた。
右手首に毎朝傷がつく。
戦った覚えはない。
誰かに触れられた記憶もない。
しかし傷は確かにある。
毎朝、同じ場所に。
孤児院に届いた匿名の封筒の字が自分の字に似ていた。
ライトが「差出人は特定できない」と言った。
アルス自身も、差出人に心当たりはない。
しかし——あの字を見た時懐かしかった。
自分の字が懐かしかった。
王宮の抜け道を体が覚えていた。
着任してからの三年間で、アルスが使ったことのない道を。
それなのに体が迷わず向かった。
どこで覚えたのか分からない。
一つ一つは、説明がつく。
夢遊病。疲れ。偶然の一致。記憶の歪み。
しかし——全てを並べた時その説明が苦しくなる。
アルスは右手を見た。
今夜の傷はまだ治していない。
細い線が手首の内側に走っている。
戦闘でつく傷ではない。
どこかが擦れた跡でもない。
体の内側から滲み出るような——そんな傷だ。
「私は——」
声に出した。
「二つに分かれているのか」
荒唐無稽な考えだ。
人格が二つに割れて昼と夜で別々に動く——そんなことが、人間に起きるとは思えない。
しかし——この言葉が今夜の自分には最も正直に感じた。
昼の自分と夜の誰か。
一つの体の中に。
夜の「誰か」が孤児院に毛布を届ける。
夜の「誰か」が王宮の抜け道を使う。
夜の「誰か」が右手首に傷を残す。
その「誰か」は——どんな顔をしているのか。
何を考えているのか。
なぜ、同じ方向を向いているのか。
孤児院への寄付。
七賢院の工作を潰す動き。
セリアへの「触れるな」という指示。
——敵ではない。
アルスは確信していた。
根拠はない。
しかし——確信があった。
鐘の音が遠くで鳴った。
深夜の鐘だ。
王都の時を刻む音が礼拝堂の石を静かに震わせた。
アルスはしばらくその音を聞いていた。
それから静かに立ち上がった。
答えはまだない。
しかし——問いを持った。
それだけで何かが変わった気がした。
明日南方へ向かう。
支援隊を率いて竜の被害を受けた民のもとへ。
そして——夜は「誰か」が動く。
アルスは礼拝堂の扉に手をかけた。
廊下の灯りが細く差し込んでくる。
「……頼む」
誰に言ったのか分からなかった。
しかし言葉は出た。
夜の「誰か」に向けた初めての言葉だった気がした。
* * *
同じ夜。
廃神殿から戻ったノクスは隠れ家の窓の前に立っていた。
カインもエルザも今夜は別室で休んでいる。
一人でいると——頭の奥が静かになる。
白いローブの残像。
水鏡の中の顔。
亜麻色の髪と、灰青の瞳。
「俺には昼の自分がいるのかもしれない」
今夜初めて口にした言葉をもう一度繰り返した。
反発はなかった。
奇妙なことに——その言葉を口にすると、頭の奥のぼやけが少しだけ収まる感覚があった。
霧が形を持ち始めるような。
昼の記憶がない。
なぜなら——昼には別の誰かが動いているから。
その「誰か」が——白いローブを着た男が——子供たちの顔を知っていて、王宮の毒を解いて、賢者評議会の使者を審議の場で退けた男が。
ノクスは窓の外を見た。
夜の王都。
石畳の上にランタンの光が点々と続いている。
あの光の中のどこかに神殿がある。
昼の「俺」が今頃眠っているはずの場所が。
いや——眠っているのか。
それとも、今夜も何かを考えているのか。
ノクスは目を閉じた。
廃神殿の碑文がまぶたの裏に浮かぶ。
「昼と夜の境を歩く者は一なる体を持つ」
一なる体を持つ——一つの体を共有しているとしたら。
昼と夜で別の意識が目覚めているとしたら。
それは——どちらが本当の「俺」だ。
問いに答えは出なかった。
しかし——問いを持ったことで、頭の奥のぼやけが少しだけ輪郭を持った気がした。
ノクスは窓枠に指を当てた。
夜風が入ってくる。
昼の「俺」は今夜南方への出発を前にしている——そんな気がした。
エルザが「聖枢機卿が明朝、支援隊を率いて出発する」と報告していた。
南方に行く。
昼の「俺」が、民のために。
——俺も行く。
ただし夜に。
竜が北上している。
その竜を止めに。
同じ夜同じ方向。
別々に同じことを。
「……お前は」
ノクスは呟いた。
「どんな顔をしているんだ」
答えは来なかった。
夜風だけが静かに答えた。
夜が深くなっていく。




