16 柑橘-シトラス-②
【汐】
重たい頭部、狭い視界、くぐもった環境音。イチカはこんな状態でステージに立っていたのですね。この状態で、よくあれだけ弾けるものだと感心してしまいました。さすがはイチカです。
そして何よりも堪えるのはこの極端な暑さ。
世の着ぐるみを着たパフォーマンスは15分程度でローテーションが組まれると聞きますが、なるほど百聞は一見に如かずですね。着ぐるみを被ってすぐに額に汗が滲むのを感じました。
「しぃ、何してるの・・・?」
背後からかけられた声。たとえ音がくぐもっていてもわかります。聞き間違えるはずがないこの声は。私は今度は違う意味で汗を流すことになりました。
「・・・イチカ。」
「うん。でも着ぐるみの頭だけ回しても見えないよ?」
(ど、どう言い訳したものでしょうか!?)
時間稼ぎのために被っている頭部のみをくるっと180度回した私でしたが、不意にイチカに肩を抱かれて、今度は身体を180度回転させられました。
「あれ、これじゃまだ前が見えないね。じゃあ、これで・・・」
目の前で回る視界。三度180度回転したそれは、次の瞬間には微笑を浮かべるイチカの顔を捉えました。
「しぃ、好きなの?」
心臓が跳ねました。
それはイチカの笑顔が素敵とか、上気した頬が色っぽいとか、理由を探せばいくらでも見つかりますが、そうではありません。この感情に理由は必要ありません。
「・・・好きです。」
心臓が口から飛び出るかと思いました。
現実には、肺を突き抜け、食道を遡り口からまろび出るわけがないことはわかっています。あくまで比喩です。物の例えです。
ですが、この胸の高鳴りと頬が熱を持つこの感覚は比喩でも例えでもない現実でした。感情のまま口をついたそれは、紛れもない私の本心でした。
イチカは「そう」とだけ呟いて、私の視界からフェードアウトしました。
狭い視界でその後を追うと、急に目の前が真っ暗になりました。
それは私が目を閉じていたからです。反射で閉じられた瞼をそっと開けると、少しの不満と羞恥、訴えかけるような視線を向けるイチカが視界に入りました。
「しぃが着ぐるみ好きなのはわかったけど、その、私も汗かいたし・・・恥ずかしい。」
イチカは私から取り上げた着ぐるみの頭部を胸に抱くと、少しだけ上目遣いになって呟いていました。
雷に打たれたような衝撃が私の中を駆け巡りました。視界が揺れ、脳が震え、血が沸き立つのを感じました。
(か、可愛い!!何この可愛い生き物!?こんな愛らしいものが世界に存在しているなんて!これが生命の神秘・・・惑星がエクスプロージョンしてバースからのユニバースってことなのですね!)
我ながら言っている意味がわかりませんが、きっとそれだけ私の頭は混乱しているということなのでしょう。思わず鼻の奥から熱い何かが垂れてきそうな感覚を覚えて、鼻を押さえました。
幸いにも沸騰した血が出てくることはありませんでしたが、感情の高ぶりは本物です。私は必死に抑えつけて理性を取り戻しました。
いつまでもこの可愛い生物を眺めていたい気持ちはありますが、今は訂正しなければならないことがあります。
「い、イチカ・・・!」
世界が揺れているのではないかと思うほどの心臓の鼓動。滲む汗、熱い吐息。熱に浮かされ、思考もままならない状態で、私は口をついていました。
「私が好きなのは、い・・・」
言い淀む私を見て小首を傾げるその仕草はとても愛らしく、さらに私の心臓の律動を加速させました。早まる鼓動はちゃんと私の脳に酸素を送ってくれているのでしょうか。
たった数文字の言葉が浮かんでは消え、二の句を継げず引き絞られた唇は粘着テープでもくっついているのかというくらいに動きませんでした。
(しっかりしなさい!これは千載一遇のチャンスです。ここで伝えるべきです。積年の思いを伝えてイチカとハッピーエンディングを迎えるのです!私が好きなのは!)
「・・・い、意外でしょうがニワトリではなく、くまです・・・」
(・・・・・・わ、私のばか!イチカが好きですと伝えれば楽になれたのに!い、いやでも。本当に楽になるのでしょうか。イチカはノーマルですし、もしかしたら余計に辛い状況になる可能性もあるのでは?)
最悪を想像し加速する思考は、今までとは別の感情を想起させました。そして同時に、それまで熱に浮かされて真っ赤になっていた私を通常の三倍速で冷やしていきました。
(な、な、なんて恥ずかしいことを私は!?今じゃないですよね!なぜこのような場所で告白なんて!)
思えば、普段の私ならこのような誰の目があるようなところでこんな大胆な行動はしません。
今日の今日までうまく押さえつけていた感情は、はたして、何かの拍子にタガが外れてしまったのかもしれません。
いえ、何かの拍子、ではありませんね。もう私にもわかっています。
もはや認めるしかないのかもしれません。私はあの3人とのセッションで心を熱くしてしまったのだと。
「別に意外ではないけど?しぃがくま好きなのは知ってるし。今日のくまマスクはイカしてた。」
目を白黒させている私のことなど露知らず、「くまなのにイカ・・・」と呟いてひとりほくそ笑んでいるイチカは、いつもどおりのマイペースでした。特段、私を変に思った様子はありませんでした。
その後イチカは「着ぐるみを洗ってくる」と言ってどこかへ行ってしまいました。
私の「着ぐるみって洗えるのですか?」という呟きは届いたのかそうでないのか、もはや私にそれを判断できるリソースは残されていませんでした。
茫然とする私は、崩れ落ちるようにパイプ椅子に腰かけました。
どのくらいそうしていたでしょうか。軽音部の機材が概ね捌けたころ、黒江さんがやってきて満面の笑みを向けてきました。
「いやー!橘さん!熱いセッションだったねー!最初あんなに渋ってたのに・・・っておーい?聞いてる?」
「あ、はい・・・」
「・・・えっと、ジュース飲む?」
「あ、はい・・・」
「セッション楽しかった?」
「あ、はい・・・」
「汐って呼んでもいい?私も朱って呼んで?」
「あ、はい・・・」
「コッキーポップ同好会に入部してくれる?」
「あ、はい・・・」
「チューしていい?」
「あ、はい・・・」
「汐ってそういう趣味だったんだ?」
「あ、はい・・・って!え!黒江さん!?」
「えー。朱でしょ?」
「え、あ、はい・・・朱さん・・・ど、どうしてここに?無期懲役では?」
「いやいや!流石に罪重すぎるでしょ!確かに怒られたけどさ・・・」
黒江さんは・・・いえ、朱さんは辟易した表情で肩を落としましたが、次の瞬間には悪戯な表情を浮かべていました。
「人の性癖にとやかく言うつもりはないけど、公衆の面前で着ぐるみの匂いかぐのはどうなの?乙女的に。」
(・・・い、いま何と言いましたか?まさか・・・)
「み、見ていたのですか・・・?」
「見ていたというか、声もかけたんだけどね。でも汐、反応なくてずっとシュコーって某銀河帝国の暗黒卿みたいになってたからそのままにしておいた。」
「そのあとは?」
「え、見てたけど?」
「・・・」
「いやー私だって盗み見るつもりはなかったんだよ?でも怜もいないし、とりあえず休憩と思って腰かけたら、目の前で突然告白し出すt・・・」
「わー!!」
私の人生史上最大の過ちを犯してしまったかもしれません。ずっと隠してきたこの気持ちを、よりにもよってこの悪魔大魔神に知られるとは。
加えてあの痴態。もはや身の処し方がわかりません。
「・・・どうするつもりですか?」
「え、何が?」
「私の、その、秘密を知って・・・」
「んー?どうもしないよ?人生色々さ。好きに生きればいいんだよ。あ!怜やっと見つけたー!」
朱さんはそれだけ言い残して颯爽と駆けていきました。
去り際、「また後でねー!」と快活に言い残していくその表情には、からかいや嘲り、偏見などは感じませんでした。
立ち去った彼女を視線で追うと「怜なんでコケなかったー?役目でしょ?」とからかいながらサディスティックな表情を浮かべています。
それは私に向けた表情とは全く異なるものでした。
精彩でいて飾らない性格。こういうところが彼女に人気がある理由なのでしょうか。
(なんだか、どっと疲れました。)
視線を手元に落とすと、未だ冷たい缶ジュースがありました。
普段の私には甘すぎる缶ジュースも、疲れ果てた今この時だけはありがたく思いました。
缶ジュースのプルタブを引くと炭酸が抜け、あわせて零れた柑橘の香料がイチカの香水を想起させました。
ほんの出来心だったのです。好きな人の匂いをかぎたいという、ある種本能的な行為だったのです。
着ぐるみがクリーニング済であることは知っていました。香水の香りはあるだろうということも。
はたして、鼻を打ったのは溶剤と柑橘系の香り、それと甘酸っぱい匂い。そこにイチカを感じる魅力的な香り。
缶ジュースを一足に呷ると、心地よい清涼感を感じ火照った身体を冷やしてくれます。喉をとおる小気味良い音に合わせて、知らず私の心臓はトクンと脈を打っていました。
20230307サブタイトルを変更しました。
20230314本編の表現を一部修正しました。
20230525サブタイトルの附番を変更しました。




