迷いの庭
兎族の少年・レビウと別れ、不思議な気分で屋敷をあとにしたメルチェ。
広葉樹の林の中へ足を踏み入れると、空の真ん中まで昇った太陽が自分や木々の影を短くしていることに気が付いた。道の脇に咲いた可愛らしい小花たちが風に揺れ、ケーキとはまた違った甘い香りを漂わせている。
「あら?」
林を抜け、フラミンゴのゴルフ場にやってきたときだった。
何やら遠くの方から、トランプの兵隊が駆けてくるのが見える。四つのダイヤが描かれた兵隊は徐々にこちらへ近づいてきて、「兵隊さん、こんにちは」 と挨拶をしたメルチェに向かって、ビシッと敬礼を決めた。
「ただいま、女王様から集合の合図がかかりました! オーディションの参加者様は速やかに広場へ集まってください!」
どうやらトランプの兵隊は、姫候補の女の子たち全員に声をかけてまわっているようだった。
「わかったわ。兵隊さん、ご苦労様」
メルチェはスカートの裾を上げて行儀よくお辞儀をする。兵隊は次の女の子を見つけるため、すたこらと去っていった。その薄い背中を最後まで見つめていたメルチェだが、兵隊の姿が見えなくなると、ポケットに仕舞いこんだ不思議の国の地図を広げ始める。
女王の招集。用件が気になるところだけれど、とにかく広場に急がなければ。
メルチェは今いるゴルフ場から広場までの距離を確認する。大通りを通っていては遠まわり。女王のことだ、遅刻したものにはきつい罰を与えるに違いない。そう思い、近道を通ることに決めた。ここからいち早く広場へ行くには――
この庭を、通るしかなかった。
「おかしいわね。ここってさっきも通ったわ」
迷いの庭。
それはその名のとおり、入りこんだ人を道に迷わせるような、入り組んだ迷路になっている庭だった。
背の高い草壁に見通しを悪くする木々。通路は細く、景色は変わらないため、今来た道はさっき通った道と同じなのかもわからない。どうやら、迷いこんだ人をよっぽど帰らせたくないらしい。なんて意地悪な、否、寂しがり屋な庭なのか。
この噂を知らずに迷い込んでしまったメルチェ。庭が迷路になっていることにはすぐ気がついて、持っていたパンの欠片を置いていっていた。それにもかかわらず、メルチェの足元には自分が落としたパンの道。どうやら同じところに出てしまったらしい。
「どうして? 一本道だったはずなのに……」
迷いの庭の一本道は、一本道ではないようだ。仕方なく来た道を戻っていくと、さっきは存在していなかったはずの分かれ道ができている。
「ここが出口ね!」
メルチェが意気揚々とさっきはなかった方の道へと進むと、次に現れたのは三つに増えた分かれ道。残念ながら出口ではなかったようだ。思わずがっかりしてしまう。
分かれ道は、針葉樹が茂っている右の道と、相変らず草の壁が続く左の道、そして、たくさんのきのこが生えている真ん中の道があった。どれが正解なのだろう。メルチェは少し考えた後、指さしの歌を歌い――ヴィーナス様の言うとおり――真ん中のきのこの道へと進んでいった。
「変なきのこばっかりね」
いっこうに出口に辿り着けないメルチェは、一人でぼやきながら足元のきのこを避けて歩く。何がヴィーナス様よ。こんなの道ですらないじゃない。そんなふうに文句を言いながら、永遠に続くような迷路を進んでいく。
きのこはポコポコと不規則に生えていた。怪しい色をしたきのこ。平べったいきのこ。それらは大きかったり小さかったり、この道を進む人間のことを意図的に邪魔しているように思えた。メルチェはしばらくの間はいろいろな種類のきのこを興味深そうに観察したりもしていたが、次第に見覚えのあるきのこばかりになっていき、とうとう景色が変わらなくなると、その場にしゃがみ込んだ。
「いつまで経っても外に出られないじゃない。出口なんて、ほんとにあるの……!?」
歩きつづけていたメルチェは、体力も気力も限界だった。弱気になりながらも、涙なんて流すまいと顔を上げる。
そのときだった。
「くっくっくっ……」
馬鹿にするような笑い声。
驚いたメルチェはハッとしてあたりを見まわす。けれどそこには誰もおらず、何の姿も見当たらない。
「迷っちゃってるみたいだねえ~?」
すると、また同じ声が聞こえてきた。あそこの、怖い顔した木の横に生えている、大きなきのこの影法師からだ。
「だ、誰?」
メルチェはドキドキしながらきのこの陰を見つめた。鼓動が騒ぐ。そこにいるのは、もしかしたら、同じように迷ってしまったアリスかもしれない。そうじゃなくても、トランプの兵隊かもしれない。だけど、だけど、もしかしたら。さっきの狼かもしれない――
「ねえ、いるんでしょ。返事して!」
メルチェは怯えながらもゆっくりときのこに手を伸ばす。相手からの返事はないままだったが、勢いよくきのこの裏側を覗いた。
「あ、あれ?」
しかし、誰もいない。
ふう、と、ため息を吐いた刹那、先ほどと同じ声がまたもや後ろから聞こえてくる。
「可哀相にねえ~。助けを呼ばないとねえ~。誰か来ないかなあ~。くっくっくっ」
そんなことを言うならあなたが助けてくれればいいのに、と思ったが、呑気な声にその気はまったく感じられない。どれだけあたりを見まわしても姿を見せない誰かに、メルチェは思わず「なんなのよ!」と大声を出した。
「まあまあ、そんなに怒らないで~」
すると、今度は頭上から声が降ってきた。慌てて上を見上げると――
太い木の枝に、一匹の猫。
大きな白猫だった。
縞柄のマフラーを巻きつけて、ビー玉のような黒い瞳を輝かせている。その目を細めて白猫は笑う。長くふさふさとした尻尾をくねらせ、枝から舞い降りてきた。
「あ、あなたは?」
「そうだよね~。初めましてだもんね~」
白猫は優雅に地面を二、三歩歩き、「僕はエシャ」と白鯨のように身を反らせてみせた。
「エシャ!」
小さな口から告げられた名前に、メルチェの顔はパッと明るくなる。
「私、この庭で迷子になっちゃったみたいなの。ここからはどうやったら出られるの?」
メルチェは、ずっと変わらなかった景色の中に、自分以外の誰かが現れてくれたのがとても嬉しかった。しかも、こんなにも可愛らしい白猫が。
「さあ~? この庭は気まぐれらしいからね~。魔法がかかってるみたいだし~、一生出られないとかもありえそうかも~。くっくっく」
……前言撤回。
エシャの態度は飄々としており、全然可愛くなんてなかった。しかも、恐ろしいことを口にする。
「そ、そんな……嘘でしょ……?」
一生ここから出られない――
エシャの言葉を聞いて、メルチェの血の気はどんどん引いていった。絶望的な感情に襲われて、力なくその場に腰を落とす。というより、落ちたと言う方が正しいかもしれない。どちらにせよ、メルチェが泣きだしたことに変わりはなかった。
「大丈夫か~い? そんな泣かなくっても~、いつか出られる日がくるさ~」
毛繕いを始めたエシャに、メルチェは泣きじゃくりながら苛立ちをぶつける。
「だめなのよ! 今出られなきゃ間に合わないわ。あの短気な女王のことだもの、ちょっとでも集合に遅れたら、私は姫になれないどころかフラミンゴに飛ばされちゃうわよ!」
溢れて止まらない涙を必死に拭い、メルチェはエシャに訴えかける。しかし猫は相変わらず笑うだけ。
「ごめんごめん、冗談だよ~。メルチェはここから出られるよ~」
楽観的なエシャに、メルチェは呆れている。呆れながらも涙は止まらない。
だが、そのとき。なんとなく違和感を覚えた。さっきと同じ、レビウに感じた違和感だ。メルチェはエシャの言葉にはてなを浮かべる。
「……エシャ。どうして私の名前を知ってるの?」
たしか、エシャの名前を聞いただけで自分の名前は教えていないはず。それなのに、エシャはしっかりとメルチェの名前を口にした。驚いたせいで涙は止まり、悲しみさえも忘れてしまう。
「どうしてって~。メルチェのことはずいぶんと前から知ってるもの~」
「だけど、私たち初めましてじゃない。さっきエシャだってそう言ってたはずよ」
「そりゃあ僕らは初対面さ~。だけど、君のことをずうっと前から知ってるやつがいたからね~」
「な、何それ。どういうこと? いったい誰が……」
「おっとっと~、しゃべりすぎちゃったかな~。怒られちゃうかも~」
瞬間、風が吹いた。
「……わかったよ~。一旦、ね~」
生ぬるい空気が一気にメルチェの視界を暗くして、エシャが誰かと話しているのがわかった。けれど、だめだ。立っていられない。力が、足元から抜けてゆく。
メルチェは突然の耐えられない眠気に襲われて地面に倒れた。が、ふんわりと誰かに受けとめられた気がした。スカートから伸びた素足にだけ芝生の感触がある。気分が悪いわけではなかった。毛布の中のような、心地良い感覚だった。遠くで誰かの声がする。そこにいるのは誰? 瞼が重くて開けられない。
メルチェはそのまま眠りに落ちて、白昼夢の中に溶けていった。