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アンナのまほう -in The Polar Night Veil-  作者: 白ノ汽車
第一章〝Walpurgisfest〟
13/17

No.13:花の如く

 地平線から朝がくる。誰のものでもなく、誰のためのものでもある素晴らしい朝がくる。山々の下から、その白い光を届けるまえに青い光や赤い光が空を染めるのだ。今日から数えて七日、昼に浮かぶ月が見える。今日も含めて七日、あたたかい日差しが空から降りそそぐ。

 ああ、これほど素晴らしく白い光を、どうしてヴェールはさえぎられるのだろう。その光をひとり占めかのように包んで隠してしまう代償に、ヴェールは黒いに違いない。

 ボクの重たい足枷が解かれることも含めて、この〝自由週間(カデンツ・ウィーク)〟は素晴らしい。毎年のように首都へ向かう旅路と宿泊の供となったボクは、ご主人さまの積み荷の間で挟まれてちいさくなっていた脚を伸ばした。

 奴隷生活も何年目だろう。この荷馬車の上で、春を何回見ただろう。馬は四頭、人は……いちにぃさんしぃ、ボクを除いて五人だけというのは、屋敷に置いておかれた何頭と何十人の何分の一になるだろうか。最低限の荷物を抱えたご主人さまと奥さまは、今日から七日の休日だった。

 奴隷のボクに休日はないけれど、心はいつだって自由でいられる。まっとうに仕事をこなせるようになって何年も過ぎたが、まっとうに仕事をこなせてしまうから解放されない。とっくにボクを買った分の元はとっただろうに、この顔まで気に入られて……いつの間にかお側仕えの真似事だ。

 咲く花のようにニコニコしていられるけれど、咲く花のように枯れるときはくるけれど、種を落として芽吹くのは花のように新しいボクじゃない。雨の下で野ざらしにされた泥人形が形を変えていくように、少しずつ……、時には思いきり割れて欠けてしまうように、少しずつ摩耗していくものだった。ボクはモノに過ぎないのだ。



 ハーロルトさんの隠れ家の庭に椅子を三脚並べ、毛布にくるまっているぼくとアンナは座って景色を眺めている。いま、地平線の向こう側から一筋の光が見えた。空を見るだけでこれほど胸が高鳴る日はない。

 この美しい日の出を見るために、ぼくとアンナは早起きをした。その甲斐あって、青から赤へ移り変わり、やがて金色に染まる朝焼けの向こうから白い太陽が顔を出す瞬間を見られたのだ。まばらな雲すら同じ色になって、ぼくたちの視界いっぱいに朝がくる。

 いや、訪れたのは春だった。木の根元にラベンダーの花が咲いており、庭の向こうの丘へ向けてポピーの群生がつらなる。光が当たってやっとそれらの彩りがよく見えて、金色の光が花びらの脈を透けさせていた。

 太陽で照らされた花々は、赤やピンクや黄色、紫、白……外がこんなに色づく日を、まさかテオセアの騎士と、新しい友人の隣で迎えられるとは。そして、草原がこんなに神々しい緑だったのかと、毎年初めて見たかのように感動する。

 子リスが木の幹を伝って駆け下り、どこかへ走り去っていくのを指さして「いまの見た? この木ってリスが住んでたんだね」と笑うアンナの苔色の瞳も、いつもより金色がかって見えた。

「リスって珍しいか?」

「ううん、森でもよくいたけど。わたし、リスとか小鳥とか、ちいさい動物が好き」

「へえ……ぼくは動物なら大きい方が好きだな」

 リスも嫌いじゃないが、馬や牛とか。大型犬も好きだ。抱き心地がしっかりしていて安心する。

 昨夜は、エルヴァスティ守護騎士団の分隊が駐屯する首都南側の基地まで赴き、聞き取り調査の報告書とカーテンを届けた。アンナへの聴取には少し時間がかかったが、その間にハーロルトさんは使いを出して、貸し馬屋からぼくのもとへグラズルを届けてくれて心底うれしかった。

 裏が取れたら表彰ものだと賞賛されたアンナは面映ゆそうに笑っていて、疲れているはずなのに夜はお互いに寝付けなくて庭に椅子と毛布を準備したのである。

 それにしても、ハーロルトさんが眠らなくていい体質だとは驚いた。一方で、アンナは人間のように食事をしたり、眠ったりして休息を取る。純粋な精霊ほど自分のような体質を持つとハーロルトさんは仰るが、そうとはいえ「疲れれば消耗はする」という。なんだかややこしい話だが、日の出を見るという目標を遂げてからどっと襲ってきたこの眠気に勝てるなら羨ましい。

「ギル、アンナ、少し寝ろ」

 あくびを我慢して眠たそうな顔が、ふたりぶん見つかった。アンナはともかく、ぼくは耐えなければ。

「これからハーロルトさんは巡回ですよね……」

「そうだが、眠いやつは馬に乗せられないから仕方ない。正午に時計広場で待ち合わせよう」

 首都の中央よりやや南西に位置する時計塔のことだ。時計盤の上層階に巨大な聖火が仕込まれており、普段は広場とその周囲の建物を照らしている。今日はきっと太陽の勝ちだ。

 こんな話をしている間に、朝日は昇る。青空を一番美しく見せる時間帯へ向けて。

 ハーロルトさんにうながされるままに、ぼくとアンナは毛布を持って寝室へ向かった。



 広場は朝から景気がいいね。祝祭だからって訳アリ品が破格でドサドサ売られ、ちいこいカブだっていつもの値段で三個も買える。ベンとヤルに任せた密輸品の荷さばきは昨日のうちに済んでおり、大量の〝人魚の秘薬(ジュース)〟だけ丸っと廃棄になっちまったが――騎士に目をつけられてお縄になるよりはずっとイイ――午前中だけでほぼ完売だ。

 庇の長い屋台の中で、籠のなかのものがスカスカなのは見栄えが悪い。明日売るはずの在庫を少し補充して、スリの収穫が悪かったベンとヤルに店番を任せた。スリはこうやるんだ、ちょっと見てろ。

 羽織を裏返して帽子を目深にかぶり出で立ちを変えた。路地から出てきたヒョロっとした兄ちゃんが買い物メモをにぎっていたので何食わぬ顔で近づき、ズボンのポッケに突っ込んだ手を相手の懐へスッと入れるのと同時にドンッとぶつかってコレよ。

 兄ちゃんは「あっ、ごめん」とあやまって、注視してんのはずっとメモ。バァカ、メモと袋ばっか大事そうにしやがって。前見てろ。オレの手の中には兄ちゃんのイイ感じの革張り財布がぎっちりだ。マジかよ結構持ってんな。襟が伸びちまってクタクタのリネンシャツなんか着てるのに、財布とその中身も立派だなんて。

 オレはいま鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしているに違いねぇよ。だってこんなん、真面目に茨刈りしたときの月収分なんだぜ。魔物退治のボーナスまで加算されていそうな額だ。屋台に戻って椅子に座り、ペラペラめくるごとにベンとヤルが興奮してく。

「やっべー! 酒っ、酒買いましょうよ、ボス」

「昼飯も贅沢しましょうよ〜!」

「うるせぇ、まだ終わってねーわ」

 金数えるときは二周しないと気が済まない。裏からも、ひぃふぅみぃよ……と数えてきっちり千五百メアだった。

 うち五メアずつをふたりへ渡し、さっさと買ってこいと手をほうきのようにして送り出す。屋台が去年よりちいさくなったから、地下室栽培のハーブや熟成チーズと、バーちゃん秘伝のジャムを売る小スペースに大人の男三人は狭すぎる。

 それにしても……この財布はちょっとマズかったかもな。中身はありがたくいただくとして、財布に刺繍された名がマズい。これは百合の渓谷(リリエンタール)の豪農で地主のひとつ、ゲルテンバウム家の名と大樹型の紋章が綺麗な手刺繍で縫われていた。

 あそこはどうもいい話を聞かない。オレとは違う種類の下衆が財を成し、地域で黙認された奴隷を何人か所有している。あの兄ちゃんがこの財布を持たされるほど信頼されている身なりには見えなかった。首の骨が浮きそうなほど痩せて、まるで奴隷のようだったのに……酔狂にもほどがある。

 とりあえず、この財布は捨てなきゃな。中身の札束を自分の財布に移し替え、飯だけを買って先に戻ってきたベンと入れ替わりに屋台を離れた。物を捨てるなら川の中だぜ。

 広場から離れた橋の上で、水面へ向かってポイッと捨てた。じゃあな、中身より高そうなお財布ちゃん。あんなもんオレには荷が重い。足と手も鉄輪で重たくなりそうだ。



 やらかした。奥さまから預かった財布を無くすなんて、十年前にパーティー用のスープ入りの大鍋をひっくり返したとき以来の大失態だ。

 メモにある、最近首都で流行りの〝人魚の秘薬(ジュース)〟ってやつがどこに売ってるのかわからなくて、というか今日奥さまに言われて初めて知った商品で――ああ、もういい、この人混みでウロウロしていたボクが悪い。

 下を向いて言い訳を考えてばかりじゃ、足取りだけじゃなく頭の中まで混乱し続ける。とにかく財布を探さなきゃ。

 自分が歩いたルートを引き返して探そうと踵を返したそのとき、大量のリンゴとレモンが入った袋ごと誰かにぶつかってしまった。

「あっ、ごめっ」

 宙に放り出されたリンゴとレモンがゴロゴロと路面に落ちていき、ボクの手は空間をかくだけ。あわててそのまま麦の収穫のような格好になって拾い集める羽目に。うわーん、もう、今日は災難の日だ。最低だ。

 でも、ぶつかった相手がボクと一緒に拾い集めてくれた。しかも、その子は王立士官学校の制服を着ている若い男の子である。品のいい身のこなしからして騎士階級を目指す生徒に違いないと考えたとき、腰に差す短剣の紋章に気がついた。

「キミ、従騎士なんだね」

「あ、はい。そうです」

 これはエルヴァスティ守護騎士団の、金牛をかたどる紋章だ。でも、散らばったレモンの最後の一つを拾いあげてくれたのは、この従騎士くんじゃない。

「どうぞ」

「ありがとう、お嬢さん」

 しゃがむボクにレモンを渡したその子が立ち上がるとき、腰まである茶髪がサラリと揺れた。睫毛の下にある瞳の色が印象的な緑色をしている。若い女の子なのに、睫毛を抜いていないなんて珍しい。ここ百年の化粧の流行は、睫毛や眉毛を薄くするために一本残らず脱色したり、抜くことなのに。

 ……あ、脚が義足だ。義足でしゃがみにくいだろうに、手伝ってくれたんだね。ふたりとも優しい子だって証明された。なぜなら、従騎士くんは女の子が立ち上がるのを手助けするために、肩を差し出して片膝を地面につけてしゃがんだ姿勢のままでいたから。

「ありがと、ギル」

「ああ」

「おや、お友だちだったんだね」

 はいそうです、と言わんばかりににっこりしたのはふたり同時で「ぼくはギルベルトです。最近彼女と知り合って、仲良くなったばっかりなんです」「わたしはアンナです。こんにちは」と自己紹介までしてくれた。

「ボクは……カイだよ。助けてくれて本当にありがとうね」

 落としたついでにもう一ついいかな。お財布も落としちゃったんだよね。奥さまから預かった、めっちゃいい鰐皮のお財布なんだけど。

 困りごとがあるをギルベルトくんに話すと、公務中の騎士のようにキリッとした顔になって特徴や中の金額をたずねてきた。二十万メアも入ってるんだよ。きみたちをひと月養えるくらいの額なんだ。別荘で七日間分のおやつを作る材料とお酒を買うだけなのにね。

「わたしも探しますね」

「ありがとう、アンナさん」

「またなにかあれば頼ってください。ぼくは今日、馬で広場周辺を警備していますから」

 立ち上がってボクに騎士の礼をしたギルベルトくんのきらきらした目には力がこもっている。頼もしいなぁ。いまのボクにはまぶしいや。

 晴れた空の下じゃ、なにもかも鮮やかで光に満ちている。

 人だけじゃない。窓辺の植え込みの花々が光の粉を纏って風にそよぐのを楽しんでいるようすや、樹木が陽射しをもっと受けたいと枝を広げる姿そのものすらまぶしい。

 生命が思い思いに過ごすそれぞれのなかでもいっとう輝いていたふたりと一頭の綺麗な葦毛の馬に手を振って別れ、ボクはボクのやるべきことを成し遂げるために来た道を戻った。後頭部に受ける日光が熱くて手を当てる。あーあ、今日は鞭が飛んでくるかも。

 ただの脅しで本当に当てることはないけれど、ほかの奴隷が二人やらかした日、とんでもない速度で一瞬のうちに生け花用の大きな壺をバラバラにしたのを見た日は怖かった。屋敷への搬入のとき大人二人でヒイヒイ言いながらやっと運べていたそれにブチ当たっただけじゃなく、気に入っていたモノを自分で割ってしまった遣る瀬無さが怒りの沸点をあっという間に通り越し、八つ当たりの波はやらかした奴隷をかばったボクに押し寄せた。

 けっきょくその二人は強制的に解雇になり、寒空の冬に外へ、少ない私物とともに放りだされたんだっけ。いまどうしているかなんて考えたくもない。

 ……考えられもしない。言葉が微妙に通じないうえに文化も違う異民族出身の彼らが、いまこの空の下をテオセアや自治領のどこかで、あたたかく過ごせているかどうかなんて。



 一年ぶりの青空の下とはいえ、今日の時計広場は例年よりもずっとにぎやかだ。というのも、おれのセレンが大人気なのである。セレンがもともと天馬だということはあまり有名ではないが、このつややかな黒い毛並みと大きな馬体だけで迫力があり、北側を中心とした首都全域の上空を飛ぶ天馬騎士団の天馬たちのように、皆の注目を浴びていた。

 ただ、不用意に近づかれると機嫌が怪しくなるからおさわり禁止で通ってる。セレンとふれあいたかった一人一人に謝罪をして、そのかわりにおれが握手やおすそわけの花を貰う役を請け負った。

「騎士さま、ばいばーい!」

「ありがとう。いい祝祭を」

 花のおすそわけは親に手を引かれて歩かなくなってすぐのような少女からもらった。少女は自分が選んで作ったようなブーケから、セレンに一輪くれたのである。

 セレンに花を近づけて見せてやってから、おれはそれを自分の礼装のマントの金具にひっかけて挿した。馬の視野は驚くほど広いから、どんなにかわいらしくても顔周りの馬具に着けることはできない。馬の装備には規定があるということも含めて、いつもと違うものが視野や体周りにあると、いつもと同じ走りができなかったときに良くないからだ。

 人混みを眺めていても、平常時とは違う不穏な動きはわかるものである。なにも不審者だけを探そうとしなくとも、そいつらは見つけやすい。全身から不審な気配を発するやつは珍しく、大多数は目立つ行動を起こすものだから。だが、隠れる術が長けているようなわかりにくいやつもいることはたしかだ。

 今日は既に一人摘発している。広場へ向かう途中の大通りから一本離れた道の数階建ての集合住宅で、この酒がうまいと瓶を見せびらかしながら二階のバルコニーに出て、カラフルなフラッグガーランドや行き交う人々を見下ろしている酔っぱらいの男だ。

 あかぎれと酒精分のせいで赤らんだその手には〝人魚の秘薬(ジュース)〟が一本にぎられていて、子どもだろうが大人だろうが誰彼構わず通行人に向かって「かんぱーい!」と叫んでいたのである。

 もちろん、にぎっていた酒瓶だけが大問題の陽気な酔っぱらい本人と、家の中の収納庫から数本出てきた危ない酒――もとい、神経毒入りの飲料を回収して兵士に引き渡した。

 魔物だけではなく、この秘薬(ジュース)が関わる件も管轄する港湾騎士団のグスタフに話が行くだろう。彼は魔物討伐部隊の将でもあるが、魔物と秘薬(ジュース)の件は襤褸の魔法使いが絡んでいると見て調査を続けている。

 騎士や警察は確認できなかったが、取引や販売所になっていた港町の屋台通りでの目撃者の証言では「襤褸着の何者か」が近くにいたということだった。

 アンナが見つけた煤まみれのカーテンという手堅い物的証拠とあわせてみても、まだ国内に……それもこの首都内にいるとみていい。カーテンの件も、昨夜に出した伝令によって今日の午前中には多くの騎士たちの知れるところとなっただろう。

 この祝祭のように、今日が夜明けの日だ。明日の朝、襤褸の魔法使い討伐のために会議を開くため、魔物討伐部隊の将の面々に緊急招集をかけた。各部隊の主力たちが一堂に会するのはいつの議会ぶりだろう。

 おれの意識が視界からそれて頭の中の段取りに集中したことにセレンが気づき、鼻先でグイッとおれの顔を押してきた。

「ああ、すまないセレン」

 いい相棒を持てたおれは誇らしいよ。

 そろそろギルベルトとアンナもグラズルに乗ってやってくるはずだ。時計塔の真下からじゃ時間は見えないが、花壇の近くの目立つところにいれば向こうから見つけてくれるだろう。そう考えて、人が行き交う道の先を見たときのことだった。

 嫌な寒気が脳天に響いて背骨を伝い、おれは瞬発的に顔を空へ向けた。なんだ? なにがいまおれの毛並みを逆立てた? 周りの人間がおれの動きにつられて空を見上げ、手でひさしを作って雲のようすを観察している。

 違う、そうじゃない。青く輝かしいばかりの空じゃない。いま、たしかになにかが降ってきた。おれの背後を撃ち抜くように、硬い気配が矢のように。同じタイミングで気配に気づき、馬体を反らしていなないたセレンをなだめつつ、目だけは周囲を探った。

 セレンを落ち着かせたところで不穏な感覚がなくなったわけじゃない。おれは急いでセレンに跳び乗り、時計塔から離れて広場を一周した。馬の行く道を避けてくれる市民に感謝する。

 ……なにも、無い。無いわけがないと思うほど、あれは狩猟用の仕掛け罠を近くで誤作動させてしまったような悪寒だった。

 なにも異常がないならいい――と、セレンとともに時計塔へ戻ろうとした、そのとき。城塞の重たい鉄扉の蝶番が外れて崩れたような轟音とともに、広場の空が暗くなった。このあたりの地面から光柱がいくつも立ち、時計塔よりも天高い空の彼方で、鉄の鎖が勢いよく巻かれて落ちた音がする。

 たちどころに悲鳴と避難指示の怒声が飛び交い、おれは手綱をにぎりしめてセレンとともに市民を誘導した。

「広場から離れろ!!」

 混乱を極めた人々の流れを制御することは、囲いのない草原で羊の大群を誘導するより難しい。おれは二人の子どもを両脇に抱えた逃げ遅れた父親のうしろにつき、広場を中心に東西南北へ繋がる大通りへ人々が逃げていくのを待った。

 次々と乱立する光柱が行く手を阻むせいでずいぶん遅れたが、暗くなった広場からおれとセレンも退避して空を見上げる。

「あれはなんだ……?」

 なにやら楕円形の器のように見えた。時計塔の周りの花壇や地面に太い鎖を落として固定されている。海底から見る船の底はきっとこうだ。駆けつけた他の騎士や兵士たちも口々に「なにごとでしょうか?」「あれはいったいなんなんだ!」と状況を確認し始めた。おれは首を横に振り、いつでも剣を抜けるように体勢を整える。

 ギルベルトとアンナはまだ来ていない。このパニックで、人々の避難誘導や自分の身の安全を優先させたならそれでいい。嫌な予感は当たるものだ。ほら、鎖を伝って降りてきた黒い魔物が、何体もズルズルとこちらに這い寄ってきたぞ。



 空の異変なら我々の出番だとばかりに、天馬乙女(ワルキュリア)騎士団の騎士たちが何騎も飛び上がった。なかでもフランチェスカ・フォン・リリエンタールの天馬であるエイルの白く長い翼は突風を起こし、彼らを応援するかのような街路樹であるマグノリアの花びらが空へ舞い上がる。

 坂を駆け上がるようなのびのびとした馬脚が宙を打ち、蹄の音もないのにそのリズムを錯覚させた。

 ぼくは市民が天馬乙女(ワルキュリア)たちに見とれないように誘導役に混じっていると、避難せずに立ち尽くしている若い男性を一人見つけた。

「あれ、ギル? あのひと、カイさんじゃない……?」

 誰だかわかったのはアンナも同時だったようで、グラズルを近づけて声をかける。

「ああ……きみたちか……」

「早く逃げてください、カイさん」

「いやいいよ、ボクは……」

 一瞬なにを言われたのかわからなかったが……先に体が動いたぼくはグラズルから降り、彼の細い腕を引いていた。

「ダメですよ、カイさん。ほら早く……」

「ダメなのはボクの方だよ……」

 ダメにならないために動いてくれと言っているのに、なんなんだこのひとは。アンナもいぶかしげな顔をしている。

「ねえカイさん、お財布が見つからなかったの?」

 カイさんはちいさく頷いた。こんなありさまじゃ、財布どころの話じゃないだろうに。

「広場でなにがあったか詳しくはわかりませんが、ここもそのうち危なくなるかもしれません。この騒ぎが終わったら、財布はぼくたちも必ず探しますから」

 うつむきがちだったカイさんは「そうだね……うん、ありがとう」と頷いてくれたので、アンナが乗るグラズルの手綱を引いた。くったりと力が抜けたようなカイさんとともに、我先にと走る人々に押し潰されないよう慌てず道の端を行く。

「キミたちはすごいね。怖くないのかい?」

「広場には、ぼくたちよりもっとすごい騎士がいますので」

「へえ、そうなんだ……」

 ハーロルトさんと落ち合う前にこんなことになるなんて。広場の上空を覆うあの巨大な船はいったいなんなんだろう。帆が畳まれて、先端に錨がついていることを想像させる太い鎖が、時計塔の足元あたりへ下りている。先に向かった何騎かの天馬は辿りついているようで、鎖を取り囲むように滞空していた。

 ぼくを含めた人々は皆いまなにがあったのか知りたいばっかりで、ある程度のところまで避難すれば空を見ているが、カイさんはいくらか冷静な顔で、背後の空に浮かぶ船には見向きもしない。

 バルコニーから落ちそうなほど身を乗り出して広場方面の空を見る子どもを、親が抱えて室内へ連れていったのが見えたのと、カイさんの言葉は同時だった。

「アレは襤褸の魔法使いが乗る空の船だよ」

 ――アンナが音もなく息を飲む。ぼくに目を丸くする暇はなく、ほぼ反射的に自分の違和感に従って「なぜそれを知っているんですか?」と問い詰めた。

「ボクは、魔法にかかっていないから」

 魔法にかかっていない……とは? まるでぼくたちがとっくに襤褸の魔法使いの手に落ちているかのようだ。カイさんは「言われるまで気づいていなかっただろう? そういうことさ。そういうのが魔法だよ」と手のひらをくるりとひるがえした。

「こう、丸っとつつまれちゃってるわけさ」

 脳裏によぎるのは、アンナの〝聖域を作る魔法〟の話だった。カイさんはふいに路地の隙間に入って「こっちにおいで」と手招きをする。

「行こう、ギル」

「アンナ……あいつ、信用できない」

 だから、ぼくも行く。アンナはぼくのうしろをついてきてくれ。

 グラズルが通れない、平均的な人間一人分の幅しかない路地に入ると、鼻を覆うほどでもないが妙にほこりっぽい湿気た異臭がして顔をしかめた。

 路地裏で待っていたカイの出で立ちをあらためてよく見ると、くたくたのリネンシャツを何度もつくろって長年着ているかのように……正直、貧しそうな服装だった。落とした財布には二十万メアも入れていたのに。

 陶磁器のような白い肌と、血色のない粘膜、眼振のある青と灰色の中間のような瞳、金と銀の光を帯びた白い髪、帽子やフードでも被っていなければ目を引くような端正な顔立ち。遺失物届の名前は、名字無し。

 財布には刺繍があるという。ゲルテンバウムという、悪名高いと風の噂で聞いた豪農と交易で名を馳せた地主の名が。なぜなら、士官学校に彼らの息子だか孫だかが一人いるから。

 ああ、やっとわかった。カイはゲルテンバウム家の奴隷だ。だからこんなにも目に覇気がなく、体は丸まりがちで、財布に首輪でもついているかのようにあきらめられない。主人から預かった大金入りの財布を置いては逃げられないのだ。

 だが、いまはカイがどんな身分かなんてどうでもいい。ぼくのうしろに続いたアンナになにもないように、彼女をかばいながら彼の前に立つと「やっと来た」と口端だけで笑った。

「ギルベルトくんは人間だね、うん、間違いない。でもそこのキミ、アンナちゃんは違う」

「……わたしは気がつきませんでした」

 わたしは? どういうことだ、と思ったところで、カイは空中に片手を掲げて、ババ抜きのカードをひっくり返すように指をひねる。

 すると、ただのなにもない路地裏の虚空から透明の薄い鏡が出現し、矢のように飛び込んできた透明のなにかをはね返した。透明のなにかは、遠くのレンガ造りの建物の角に当たって砕けた音がする。

「ほらこのとおり。わかったかな?」

 魔法使いだ。と言うのを、カイの唇に人差し指を当てるジェスチャーでさえぎられた。

「今日はだぁめ。禁句。彼、招待状が来なくて怒ってたときよりヤバくなってるから、自分以外のそういう存在を排除したいって気持ちでいっぱいだよ」

 まるで亡霊のようにね。

 そう終わらせたカイはため息をついた。目線の先には、アンナの片脚――義足の左脚の方がある。

「可哀想に。怖かったろうね」

「こわ、くは……」

 言葉でも強がりきれなかったアンナは、自分の指先が震えていることに気づかれて悔しい顔をしている。

「ボクの知り合いなら助けてあげられるかも」

「知り合いって……?」

 アンナが聞き返すと、カイは優しく微笑んだ。

「この大陸にはね、四人いるのさ」

 カイは続けた。

 まず一人目はボク。次にキミ、アンナ。隠していてもバレバレだったよ。毎日素肌の全身に魔法文字(マギアグラマ)を書いて練習してるって宣言して回るような痕跡の残り方をしているね。三人目はもちろん襤褸雑巾くん。あいつはヤバい。マジでヤバいよ。

 指折り数えながら説明しても、なにがどうヤバいのか聞く前に、カイは目をゆっくり閉じた。

「四人目はね、タハティラにいるんだ」

 その名を……ラーケ・タンファンパーというらしい。もちろん自分が魔法使いだということは隠し、薬品作りと開腹手術に長けた医者で通っている。

「医者をしているんですか?」

「そう。すごいだろう? ボクが知る魔法使いのなかでも、彼女は頭一つ抜けているんだ」

 カイは、彼女の性格はおすすめできないけどね、と乾いた笑いをこぼした。

 それよりちょっと待ってくれ。

「カイさん、あなたが……アンナと同じだってことはわかりました。でもさっきの攻撃と、それを返したあなたの魔法はなんですか? そして、襤褸の男を知るような口ぶりについて、いくつか質問させてください」

「いいよ、どうぞ、騎士さん」

「まだ見習いですが……。あなたは襤褸の男と知り合いですか?」

 ぼくの問いかけに「もちろん」と返事をして深く頷いたので、彼の背に逮捕の二文字が薄く浮かび上がってくるようだった。

「もちろん、ということは……友だちであるとか、精霊同士で仲間とか、ですか?」

「まさか。古い知人ってところかな。ここ何十年も会ってなかったよ。気づいてるだろうけど、ボク奴隷だし」

 普段は両足首を繋げる重たい鉄輪とジャラジャラとうるさい鎖が、足元の邪魔をするのだという。今日は祝祭で人の目に触れるところを随伴するので、主人が靴を履くことを許可したらしい。

「では、何十年も……とおっしゃいましたが、具体的な数字を思い出せませんか? そして、あなたの本当の年齢を聞かせてください」

「これ記録するんだよね? 信じてもらえるかなぁ」

「記録を上に出せるかは、ぼくの主人が決めます」

 まあそうか、とカイは自分の顎に手を当ててうーんうーんと考えだし、少し黙ってから「先代が生きてたら九十でしょ、だからえーっと……」と指折り数えている。

「六十年前くらいかな。ボクが奴隷になる前に会って、それっきり」

「それは向こうから会いにきたんですか? それともカイさんが?」

「精霊同士は引き合うものさ。お互いに会おうとして会ったわけじゃない。ただ偶然、百合の渓谷(リリエンタール)の田舎の川辺でばったり出会っただけ」

 その川や近くの町の名前は覚えてないようだ。六十年も前の話だから、仕方ないのかもしれない。精霊は長命だ。

 どんな話をしたのか、もっと聞き出そうとしたときのことである。広場方面から総勢数十頭かと思われる馬の蹄が駆ける音や、天馬乙女(ワルキュリア)たちの雄叫びが聞こえてきた。

 ハーロルトさんも戦っているかもしれない。ぼくも近くまで行かなければ。

「ここもマズいかもしれないね」

 カイは極めて冷静な顔をしてつぶやき、右手で頭をかいた。

「魔法使いなのにお財布一つ見つけられないなんてさ……」

 ああ、だから自分のことをダメだとか言っていたのだろうか。

「アンナちゃん、失せ物を探す魔法って知らない?」

「知ってます」

 そうか、やはりアンナも知らな……いや、知っているのか。

「さっき使ったんですけど、まだ見つけられなくて。もう少し時間をください」

「時間ないよぉ……ボクのご主人さまってすごーく厳しーんだからぁ……」

「場所も近くないとわからないんです。もっと歩き回らなきゃ」

 歩き回るのはよしてくれ。本当にいまこの場所はマズい。先ほど飛んできた矢のようなものはあれから飛んでこないから無差別に打ち込んでいるに違いないし、路地から顔を出して見る広場空も、なにかが差し迫っているように暗雲が立ち込めてきた。

 絶対に第二波が来る。ぼくの直感が鳴り響いてやまないのだ。来ることを想定して動かなければ。

「アンナ、カイさんと避難してくれ。騎士や兵士の言う通りに動いてくれよ!」

「あ、ギル……!」

「ぼくはハーロルトさんがいる方へ行く!」

 アンナはぼくを止めようとしたようだが、ひと足先にグラズルにまたがって走り出す。非常事態でもおびえずにぼくの指示をよく聞いてくれて、ぼくにとってはもはや相棒ともいえる馬だった。

 大道芸人が巻いた花びらは踏まれ尽くして茶色に変色し、道端は画家のパレットのようになっている。もはや騎士の馬の蹄の音すら、この空の下では不穏に響くのだった。

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