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最終話:寿永3年(1184) そして日本に平和は訪れた

 年が明けて寿永3年(1184年)私達木曽軍が水島にて平家の主戦派を討ち滅ぼした後、私たちは四国と九州へ兵を送り、その地の豪族は重盛の下へつくことを了承しました。


 これにより陸奥と出羽北部は奥州藤原氏が。


 畿内・北陸・中部・東海・甲信越・関東・出羽南部の地域は木曽が。


 中国・四国・九州・淡路などは重盛の平家がそれぞれ統治を行い、共同して日ノ本を治めていく体制となったのです。


 日本各地の津や湊は開放され、街道も整備され、お互いが自由に行き交い交易が盛んになりました。


 船の技術の発達により蝦夷地のアイヌや琉球、中国に逗留しているアラビアのペルシャ商人や東南アジア、インド地域にも交易の手は伸びることになり、香辛料や砂糖なども流通するようになりました。


 そして農業も木曽より肥料や合鴨を用いた農作の方法もだんだんと広まり、飢餓に苦しむものも少なくなりました。


 生き残った平家一門でも歌芸に優れたものは京に戻り公家とともに歌人として活躍し、宗盛は讃岐にて讃岐院を弔いながらひっそり静かに家族とともに暮らしています。


「むしろ彼には後のほうが幸せでしょうね」


 宗盛は平家の一門を率いるには優しすぎたのだと思います。


 そして讃岐院は清盛、後白河の死を見届け恨みも晴れたのか、この期西国の飢饉や京の様々な災いはあまり起こらなくなりました。


 北陸宮と呼ばれた今上天皇は、もはや崇徳院の祟りは収まったとし、率先して讃岐に渡り崇徳院へのお参りを行うことにし、また亡くなられた以仁王や源頼政などの鎮魂も行なったのです。


 退位された安徳帝は成人したあと出家し仏道の道に進んで、民衆の救済を目指し、木曽や平家の手も借りて比叡山や興福寺などの堕落した僧侶を追放し、僧侶としての正しい道を後世に示したのです。


 後白河法王の行動で権威を失墜した朝廷や公家ではありましたが、中原家や小松家は藤原と縁の深いこともあり、本来ほどの困窮を抱えることはありませんでした。


 しかし、私には懸念事項がありました。


「モンゴルはきっと日ノ本へ攻めてくるでしょうね。

 それを撃退できるように海上戦力や島嶼の防衛力を高めねばなりません」


 古代日本における最後の内乱である治承・寿永の乱はこうして幕を閉じましたが、私達の子孫のためにモンゴル帝国への対処を予めして置かなければなりません。


 私は義経や弁慶などの木曽時代からの郎党や、畠山重忠などの希望者を引き連れて、日本を巡りにでることにしました。


「それでは義仲様いってまいります」


 義仲さまは頷きました。


「おう、体に気をつけろよ。

 何時でも帰ってきていいからな」


 私は義仲様の言葉に頷いたのです。


「はい、必ず帰ってきます、義仲様」


 そして日本各地を巡るための諸国漫遊のたびに私達は出たのです。


  私たちの日本での大きな戦いは終わり、このあと日本は長きに渡り平和な時代を過ごすこととなったのです。

ようやく巴御前の日本の戦いも終わりました。

このあと大陸に渡った人たちがどうしたかは皆様の想像におまかせします。

ここまでお読みいただきありがとうございました。

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