備中水島合戦・平家軍主力の壊滅と宗盛の降伏
我々木曽の軍は京の治安維持や様々な朝廷との交渉・儀式などで時間を取られ、その間に宗盛は彼に従う平家一門を引き連れて、福原へ向かい、更にそこから船に乗り込み海路で西へ向かいました。
平家が西へ下った理由は東国は木曽が全て制圧しているので西側に逃げるしかないというのもありましたが、このときは播磨・淡路・阿波・讃岐・備中・周防・長門などの瀬戸内海の諸国を宗盛たちは知行国として保持していたことも有ったのです。
また屋島・彦島・赤間ヶ関などは海上交通の拠点であり、瀬戸内の海はいまだ平家の制海権の下にありました。
彼等が最初に向かったのは九州の大宰府で、清盛の父だった平忠盛の時代より大宰府は日宋貿易の拠点として平家一門が重要な拠点としていた地域でした。
しかし、平家は8月中旬には九州に上陸するのですが、もともと平家の家人であった原田種直は妻を重盛の養女としていたこともあり、宗盛を拒絶しました。
さらに、肥後の豪族菊池隆直、阿蘇惟安、木原盛実、豊後国の臼杵惟隆、緒方惟栄なども宗盛に敵対したのです。
もともと九州は重盛の家人であったものが多く、福原ができてからは平家も大宰府をあまり重視していなかった為寂れており、彼等は宗盛に反感を持っていたのです。
宗盛は九州を追われ、9月に四国の阿波国の田口成良の支援を受けなんとか四国に上陸し屋島に拠点をおいたのです。
私はその間に三浦半島などで作らせていた銅で周りを覆った軍船を福原まで向かわせそこで設置式の大弩や百匁筒(39.5mm口径の鉄砲)などを備え付けさせます。
熊野の水軍なども加わりそれなりに数を揃えた我々は平家追討のため山陽道に出立し先ずは播磨へと向かいました。
この時京には我が兄である樋口二郎兼光を京都守護職として京都に留め置きました。
治安維持を引き続き行いつつ、源行家の動きがこのときは不鮮明だったため、いざという時にはそちらにも対応してもらうためです。
宗盛は戦闘を避けようとしていたようでしたが、知盛や重衡、教経ら主戦派は和平案に反対し彼等は瀬戸内を渡り、備中の大島に陣をはりました。
我々木曽軍は播磨・備前・備中と進み、11月末に海上で、木曽と平家の主戦派が激突したのです。
柏島に平家軍、乙島に木曽軍がそれぞれ陣取って私たちはにらみ合いました。
そして今年1183年のこの日は日食が起こるはずです、それを予め兵に知らせるために義仲様は演説を行いました。
「皆の者、もうすぐ太陽は暗くなりあたり一面暗くなる。
これは今までおごりきった平家の栄華が失われることを示しているのだ。
恐れるな、勝利は我らのうちにある」
そこに青く輝く銅張りの巨大な船が一隻姿を表しました。
「これこそが我が便女、巴の作り上げた戦闘用の船、巴丸だ、これにより我軍の勝ちは約束された!」
「おおー!」
私は兵にナフサの入ったツボを手渡し火矢の用意もさせました。
一方の平家側は我々木曽郡の主力を打ち破れば倶利伽羅峠の後の我々のように京に上洛できると考えているでしょう、実際船の数では負けているのは事実ですからね。
しかしこちらは、三角帆の縦帆付きの船が含まれています。
我々木曽軍は、平家の本拠地である屋島を攻略するためには、まず備前国の児島周辺を押さえ、ここから四国の讃岐に上陸し、四国の反平家勢力を傘下に入れながら、陸上と海上から同時に攻撃するしかないのです。
淡路・阿波・讃岐は平家の知行地で、平家に味方するものがまだ多数存在していますからね。
義経がやったように太平洋側から渡るという手もありますが、一の谷の合戦で平家の主力がほぼ討ち取られていた状態と違います、少数での奇襲では落とせないでしょう。
「ならば正面決戦で勝負をつけるまでです」
船の数は源氏方は500隻、平家方は1000隻、その中には馬を乗せている200艘が含まれていました。
そして平氏は、軍船同士をつなぎ合わせ、船上に板を渡すことにより、陣を構築したのです。
「よし、全軍進め!」
我々の船が動き出すと敵も櫓を漕ぎ始め、両者の間隔が近づくにつれ弓による射撃戦が始まりました。
そして、その脇を三角帆の快速艇が風を切って突き進み、平家のつながれた船に向けてナフサの入った油壺を投げつけ、そこに火矢を放ちました。
「なんだ?!」
「油と火矢だ!、火を消せ、早く!」
平家は軍船同士をつなぎ合わせたのが裏目に出ました。
「三国志における赤壁の戦いと、私達が石油を分留してよく燃える油を持ってることを知っていたら、こんなことにならなかったでしょうにね」
快速艇は一撃離脱で戦列を離れ、燃え盛る平家の船上の人影を我々は次々と射落としていったのです。
しかし、燃え盛る敵船から一隻の小舟が突出してきました
「貴様ら木曽の田舎者などに平家の栄光をやらせはせんぞ!」
その船に乗っていたのは平家随一の猛将平教経でした。
彼はだっと船縁をけるとこちらの船に飛び移ってきたのです。
「木曽義仲、その首、能登守教経が貰い受ける!」
私は彼の前に立ちふさがりました。
「そうはさせません。
貴方の首、この巴御前が貰い受けます」
「小癪な、ならばゆくぞ」
「きませい!」
教経の長巻と私の方天画戟が打ち合わせれ、ガッキとぶつかりあいました。
「この長巻は貴様との再戦の時にために打たせた特注よ」
「やりますね」
そして幾度かうちあうと、互いの得物の刃が砕けたのです。
「折れたか……ならば組討にて決着をつけるのみ」
「受けて立ちます!」
教経と私が正面よりぶつかりガッシと手を組み合っての力比べとなりました。
「ぬぅっぅぅぅ!」
「おぉぉぉぉぉ!」
流石に強い、もしかしたら負けるかもしれない、そんな私の脳裏には大姫の無邪気な笑顔が浮かびました。
「そう、私の帰りを待っている大姫のために……私は負ける訳にはいかない!」
全力を出すと筋や骨を痛めるために、腕の力を抑えていたリミッターが外れました。
「ぬぁぁぁぁぁぁぁ!」
ミキミキというとともにグシャリと教経の手を私が握りつぶします。
そして私は彼を蹴り飛ばしました。
「ぐわぁぁぁ!な、何という力よ、恐るべくは信濃の女鬼よな。
ならば、せめてお前だけでも道連れにしてくれよう!」
「そうは行きません!」
そういって、よろよろと立ち上がり私に組みかかろうとした彼を私は回し蹴りで横に蹴り飛ばしました。
「くっ、無念なり」
バッシャーンと海面に落ちた彼は二度とは浮かんできませんでした。
私は痛む腕を抑えてつぶやきました。
「教経、貴方が敵でなければな……」
彼は武者の鏡と呼ばれたことでしょう。
その頃、銅甲軍艦の巴丸は総大将知盛、大将重衡の乗る船を百匁筒(39.5mm口径の鉄砲)で次々に粉砕していったのです。
ただしその反動で腕や肩を痛めた兵や船の本体にも損傷が出たのですが。
「五十匁でも十分でしたかね……」
まあ、鉄砲は誰でも使えるものではないという認識を植え付けられたと思うので良しとしましょう。
更にそこに日食が重なり、燃える平家の船はいい的となり、矢が次々と打ち込まれ、平家の戦力は壊滅したのです。
この戦いで平教盛、知盛、通盛、重衡、教経などの主戦派は討ち死にし壊滅しました。
そしてこの敗戦により宗盛は讃岐国のみは知行国として安堵するように申し出て事実上の木曽へ降伏をしたのでした。
重盛は四国屋島に向かい、小松家が平家の嫡流であることを宗盛に認めさせ、宗盛一門を屈服させました。
これにより木曽と平家本家の戦いに事実上の決着がついたのでした。