寿永2年(1183年)木曽と平家宗家の激突・倶利伽羅合戦
年が明けて寿永2年(1183年)の春の依田城に私たちは集まっておりました。
そして義仲様が私に言ったのです。
「うむ、俺もとうとう30になった。
今年は平家の宗盛と雌雄を決せねばな」
私ももう28歳ですね、歳は取りたくないものです。
そして、京の都に潜ませていたものからの平家の北陸討伐が使えられたのです。
「平家宗家の宗盛は”謀反人木曽義仲及び新帝を僭称した以仁王の遺児一宮、東国北陸を虜掠し、前内大臣に仰せ追討せしむべし”との宣旨を後白河法王よりえて京の都に大量の兵を諸国よりかき集めているようでございます。
宗盛が山城、摂津、河内、和泉、播磨、美作、備前、備中などよりかき集めた兵は総勢約1万と」
それを聞いた義仲様は重苦しく頷きました。
「うむ、平家も本気で我らを討つつもりのようだな
しかし、1万もの兵を食わせるだけの食料はどうしているのだ?」
「は、平家は検非違使と私兵を用いて山城国の主に平安京の民家や貴族の家の蔵より食料や駄馬を徴収しております。
また兵粮米の片道分は進軍途中で強制取立てすることを許可されたとのことであります」
「愚かな、大軍で現地での強制徴収などしたら、北陸の民はますます宗盛に反発することもわからぬのか」
私はそこで言葉を続けました。
「宗盛は生まれた時より清盛の栄華にあやかって土地を耕したこともないのでしょう。
往路は路地追補で補い、我らを討てば我らの蓄えている食料を奪えば良いと思っているようですね」
私に言葉に使者が言葉を続けました。
「まことにその通りで平家の下郎が近郊の畑の麦を刈り取り畑を耕す牛馬を取り上げ、乱暴狼藉を働くものも多く、貴族が宗盛に訴えるもそれは止まず、宗盛は都の貴族と民に深く恨まれております」
義仲様は頷きました。
「うむ、どちらにせよ宗盛らが京に居座れるのもそう長い間ではないな。
とは言え、北陸宮を討たれるのはまずい。
我らも兵をまとめ北陸へ向かう」
そして義仲様は範頼に向かい言いました。
「同時に範頼は三河、遠江、伊豆、駿河より3000の兵を集め、東海道を進み尾張より敵が侵入してきたら、それを討ってくれ。
そして尾張を制圧してほしい。
その時は無論我らの指揮下に入るものは所領を安堵するが、もし源氏でも我らに与するを良しとせず抵抗するものは討て。」
義仲様の指示に範頼は頷きました。
「うむ、承知いたした」
次に義仲様は志田義広に言いました
「義広叔父上は相模と房総の兵3000を率い、東山道より美濃に進み美濃を制圧してほしい。
その時は無論我らの指揮下に入るものは所領を安堵するが、もし源氏でも我らに与するを良しとせず抵抗するものは討ってください」
義広は頷きました。
「わかった、東山道は私に任せてもらおう」
更に義仲様は行家へ言いました。
「行家叔父上は紀伊は熊野の諸将を我らに従うように調伏してほしい」
「なんじゃ儂は口のみで熊野を寝返らせろというのか?」
義仲様は頷きました。
「熊野新宮で生まれた叔父上には熊野の味方も多いでしょう。
いかがでしょうか?」
先の二人にように兵を与えられなかった行家は面白くなさそうでしたが、うなずきました。
「まあ、良かろう。
熊野を儂が調伏したら儂の所領とさせてもらうが良いか?」
義仲様は頷きました。
「それは無論であります叔父上」
「ふむ、では儂は熊野に向かうとするかの」
こうして私たちはそれぞれが目的を果たすべく動きはじめました。
4月17日宗盛により北陸宮と義仲様の追討のため総大将を平知盛、経正、清房、重衡、教経、行盛、通盛を侍大将に任命し、将兵1万の大軍が北陸に向かって都を立ったのです。
彼らは途中の近江国でも麦を奪い、国衙の上納物まで奪い取り狼藉をほしいままにしたようです。
一方、私たちは信濃、武蔵、上野、越後、出羽より兵10000を集め越後へ向かいますが、雪解けの泥道では思うように進むことができませんでした。
私たち本来は国に収めるべきである年貢米を収めた国衙の食料庫や、道中の寺に仏敵である、平家宗家の討伐のために食料の寄付を求め、寺の食料援助をえながら、略奪などを行うことなく、越後、越中へ兵を集めていました。
その間に知盛に率いられた平氏の1万の軍は4月27日、一昨年に敗れた水津まで進み平野で重盛の軍1000を打ち破りました。
そしてそのまま北陸道随一の要害である燧城を取り囲みます。
燧城は燧山の山裾にあり能美川と新道川を合流する場所を塞き止めて作った人工の湖に囲まれており、越前や加賀の豪族600が籠っていたのですが、知盛は城に容易には攻め込むことができなかったのです。
そこで一計を案じた知盛は数日間の間、城を包囲しつつ、夜間に小舟で湖を渡り、この城の持ち主である籠もっていた平泉寺長吏斉明をそそのかしたのです。
そして彼は裏切って平氏に内通し人造湖をせき止めている堤の場所を教えました。
知盛は彼から得た情報を元にあたりを調べて堤を発見し、それを破壊しました。
湖は一夜で失われ、その後平氏の大軍に攻めかかられた燧城はついに落城しました。
越前の重盛一門や越前の林光明・富樫仏誓は河上城へたてこもったのですが、兵糧が尽きたので城を放棄し、さらに引いて三条野で知盛を迎え撃ちましたが、この時林光明の息子、今城寺光平が平氏の猛将教経の手により討ち取られました。
北陸の諸将は更に東へ後退し、加賀の国の篠原に陣をはり、平家は越前の長畝城で休息を取りました。
5月2日に長畝城より知盛軍は出立し篠原に押し寄せ、ここでも敗れた北陸の諸将は越前へ逃げ延びました。
一方平氏は越前の平氏は越前、加賀でも略奪を思いのままに行いました。
我々は5月に入りようやく越前へ兵をまとめ、糧秣を輸送し合戦の準備を整えることができたのです。
重盛一門と越前加賀の豪族と我々は合流しました。
「重盛殿、遅くなり申し訳ございませぬ」
私の言葉に重盛は首を振りました。
「いや、我らこそ不甲斐なく申し訳ない」
続いて林光明らもいいました。
「燧城以来我らは負戦続きにて面目ござらぬ」
義仲様がにっと笑い、いいました。
「では、これより反撃開始といこうではないか」
これまで知盛軍は連戦連勝でした。
そろそろその勢いを削がないとならないでしょう。
知盛は越中の地理に詳しい越中前司平盛俊に500を与え越中へ進軍させました。
それに対し義仲様は我が兄今井兼平に兵600を与え、兄は御服山に布陣して平氏軍の先遣隊を迎え撃つ体勢を整えたのです。
5月8日に知盛軍の先遣隊である平盛俊軍は、加賀より倶利伽羅峠を越えて越中へ入り、般若野にまで軍を進めました。
そして、5月8日の夕刻、平盛俊軍が般若野で停止した様子を見た兼平軍は夜襲を決行、平盛俊軍を打ち破り加賀へ退却させました。
そして我々本隊は5月10日に般若野へ到着し兼平軍に合流したのです。
知盛軍は篠原で万の軍を二手に分け、知盛の本隊8000は加賀と越中の境の砺浪山へ、搦め手の通盛、知度の3000は能登と越中の堺の志雄山へそれぞれ向かったのです。
そして私たちは雄神川の御河端にて合戦評定をひらきました。
そして我が兄宮崎太郎が言いました。
「平家は此度の戦では常に兵を2つに分け、相争うように進んできております。
此度も一手は志雄山を超えて国衙へ向かい、もう一手は倶利伽羅峠を超えて来ようとしておるようであります。
道は倶利伽羅のほうが広いためこちらが主力のようで」
義仲様はうなずきました。
「うむ、では国衙への道は重盛殿の一門を中心として迎え撃っていただきたいと思うが如何か」
重盛が頷きます。
「うむ、承知いたした」
「では、我らよりも幾ばくかをそちらの兵へと回させていただこう」
「うむ、ありがたい」
そしてまず志雄山側の道へは重盛一門に加え、矢田義兼、楯親忠、落合兼行を加えた兵3000を急ぎ行かわせました。
そしてこちらは越中の住人に砺波山周辺の地形を案内させたのです。
そして一刻ばかり話し合った上で軍を分けることに決まりました。
「ではこれより軍分けの配分を申し述べるゆえ各自よく聞くように」
義仲さまはそういって言葉を続けました。
「まず一の手は樋口次郎兼光を大将に兵1000、案内人は加賀住人林六郎光明、冨樫泰家。
峠の北方を迂回して倶利伽羅峠搦め手の竹橋より敵の背後を攻撃せよ」
「はっ」
「二の手は依田次郎実信を大将に兵1000、案内人は宮崎太郎、向田荒次郎。
金峯坂、北黒坂を通り峠の北より攻撃せよ」
「はっ」
「三の手は今井四郎兼平を大将に兵1000、案内人は石黒太郎光弘、高楯次郎光延。
日宮林により本陣猿ケ馬場を攻撃せよ」
「はっ」
「四の手は巴お前が兵1000を率いよ。
案内人は水巻四郎、同小太郎、鷲尾山の尾根沿いに鷲ケ獄より攻撃せよ」
私は無論拝命しました。
「はい、かしこまりてございます」
「その前に山麓に兵を展開し白旗を立て奴らを山頂へ足止めせよ。
降りてこられては損害が増える」
「はい、かしこまりてございます」
「伍の手は根井小弥太行親を大将に兵1000、人蟹谷次郎を案内人に、南か弥勒山より攻撃せよ」
「はっ」
「俺は残りの兵を率いて正面の倶利伽羅口の黒坂口に布陣して知盛を待ち受ける。
此度の兵力は五分と五分ならば地の利がある我らの勝利は固い!」
「おお!」
知盛にはこのあたりを案内できるであろいう北陸の地形を知っているものはいません。
一方北陸の武士や住民はこちらの味方です。
そしてこのとき見つけ立ち寄ったのは埴生八幡で、どこよりともなく白い鳩が舞い降りこんこんと湧く清水を見つけた私たちはそれを飲み喉を潤したのです。
「うむ、誠にうまい」
「はい、生き返る心地でございます」
我々は禊をして身を清め覚明に命じて願文書き記すとそれを奉納し必勝を祈願したのです。
5月11日、平知盛の軍と我々木曽軍は決戦の時を迎えたのです。
知盛は竹橋を超え倶利伽羅峠の頂上まで進むと付近の猿ケ馬場においた本陣を中心として屋根に沿って陣を敷いたのです。
そこへ私の直属部隊は、先行して小矢部側の麓に陣を敷き源氏の白旗300本を立て、平家を足止めしました。
私達の狙いどうり平家軍は峠の狭い場所に本陣をおいたのです。
義仲様の本隊は倶利伽羅峠に通じる黒坂口に進んで陣を構えると、平家方もその近くまで陣を進めてにらみ合ったのですが、本格的な戦闘には至らず、わずかな兵が前に進んで出て、矢合わせを行なったのみで終わりました。
我々は日暮れを待ちました。
平家方に夜襲に対する警戒心がなかったわけではないでしょうが、この季節には、とても心地よい涼風が吹きぬける休息には最適な環境であったため、大半の兵士は長い距離の行軍と山登りの疲れもあって早い時刻より深く寝入ってしまったようです。
朧月の夜、山の木々にもさえぎられて光も薄暗いなか、軍装を解いた平家軍の兵たちは狭い山上にひしめき合って寝入ってしまったのです。
そんな中を我らは音を殺しながら静かに山頂へ向かう間道を進んでいました。
やがて、山頂付近に到着した私達は兼光兄上の兵が敵軍後陣を襲い鬨の声が上がるのを待ちました。
そしてときの声が上がり法螺貝、陣太鼓などの鳴り物が大きく打ち鳴らされました。
「よし、全兵私に続け」
「うおぉぉぉぉ!}
「うわぁぁぁぁぁ!」
私たちは山頂でたかれた篝火に向けて矢を打ち込み、鉈や太刀を持って知盛軍へせめかかりました。
平氏の兵たちは、予期しない方向からの攻撃に周章狼狽しました。
飛び起きたものの皆が慌てふためいて武具を取り合うありそこかしこで混乱が起こり、それがだんだん全てへと広がっていきます。
しかし、身なりの良い一人の男が私の行く手に立ちはだかりました。
「そこなう者は名のあるものとお見受けする。
われこそは最勝王より平氏追悼の勅を受け、旗揚げした、源氏の御曹司木曽次郎六位蔵人源義仲殿の乳母子にして便女、木曽中三信濃権守兼遠が娘の巴申す女武者なり。
名を名乗られよ」
「われこそは平教盛の次男にて能登守教経なり。
巴とやら我と勝負せよ」
ふむ、平氏きっての猛将教経ですか。
「相手にとって不足なし、いざやまいる」
「さあ、こい!」
私と教経はナタと太刀で何合か切り合いましたが教経の太刀が折れ、徒士の武者が彼を守るようによってきました。
そして、私達の兵と切り合いになりましたが、平家の兵は討ち取られていきます。
「くっ今日のところはひくとする。
巴とやら京にて決着をつけようぞ」
彼はそういって西へにげていきました。
「ふむ、引き際も心得ていますか、厄介ですね」
一方、東、北、西のすべての方向から木曽軍は攻め寄せ矢を射かけときの声を上げました。
「どうなってるんだ! 取り囲まれているぞ!」
「い、いつの間に!」
「こうなっては南に逃げるしかない!」
「ああ、みんな、南へ逃げろ!」
平家軍は皆南へ逃げた、しかしそこには、地獄谷と呼ばれる断崖絶壁だったのです。
「やめろ、こっちはが……ああああー落ちる!」
「押すな、押すなー、こっちは崖だ落ちるぞ!」
「うわぁー! 助けてくれ!」
このように平家軍の兵は混乱のなか人馬もろとも、次々と地獄谷の谷底へ落ちていったのです。
一方能登志尾山においても重盛が通盛を打ち破り平知度が討ち死にしました。
これは宗盛率いる平家宗家の最初の戦死者であり、重盛と宗盛は完全に敵対することになったのです。
そして範頼は尾張を、義広は美濃を、行家は熊野をそれぞれ木曽の勢力下としました。
熊野は行家の所領となったたのです。