養和の飢饉
北陸をほぼ平定し、尾張、美濃、近江で平氏宗家と対峙していた私達ですが、2年前より続いた旱魃で食料事情が極めて悪化しました。
特に昨年の養和元年(1181年)は市場まれに見る大凶作で、西国を中心に大飢饉となり餓死者が続出するほどひどい状況でした。
「まだ東国は雪解け水が得られる分だけだいぶマシなのですけどね」
方丈記では
また養和の頃(時代)であったでしょうか、長い時間が経ったので覚えてはいません。
二年の間、世の中では食料が欠乏して、あきれるほどひどいことがありました。
ある年には春と夏に日が強く照り、ある年には秋に大風や洪水などがあり、よくないことが続いて、穀物がすべて実りません。
無駄に春に畑を耕し、夏に苗を植える仕事があっても、秋に刈り取り、冬に収穫をするにぎわいはありません。
このために、諸国の人々は、土地を捨てて国境を越え、あるいは家を捨てて山に住む(ようになりました。)
(飢饉を鎮めようと、朝廷で)さまざまな祈りがはじまり、並々ではない修法などが行われはしますが、その効果はまったくありません。
京の街のならわしで、何事につけても、すべて(の物資)を、地方に頼っており、(地方の物資が)絶えて京に入ってくるものがないので、(京の人たちは)そうそう体裁をとりつくろうことができましょうか、いやできません。こらえきれなくなっては、様々な財物を片っ端から売り捨て(て食べ物と交換し)ようとしますが、まったく目をくれる人もいません。
たまに交換する人は、金(の価値)を軽く、粟(の価値)を重くします。乞食が道のほとりには多く、いたるところから憂い悲しむ声が耳に入ってきました。
前年は、このようにしてやっとのことで年が暮れました。
次の年には飢饉から立ち直るだろうと思っていると、そればかりか疫病まで加わって、程度がよりいっそうひどくなり、(以前の生活の)跡形もありません。
世の中の人は皆、飢えきってしまったので、日が経つにつれて窮まっていく様は、少しの水の中で苦しむ魚の例えにぴったりです。ついには、笠をかぶり、足を包んで、立派な姿をしている人が、いちずに家々を乞い歩いています。
このように、つらい目にあってぼけたようになっている者たちが、歩いているかと思ったら、すぐに倒れて伏せてしまいました。
土塀の傍ら、道のほとりには飢え死んでいる者の類は、数えきれないほどです。
死体を取り除く方法もわからないので、臭いが辺り一面に満ちて、(腐敗して)変わっていく様には、目もあてられないことが多いです。
まして河原などには、(遺体があふれて)馬や牛車の進む道すらありません。
身分の低い卑しい者や山に住む者も力尽きて、薪までもが不足していくので、頼りにする方法がない人は、自分の家を壊して、(薪として)市に出して売っています。
一人が持って出た薪の値段は、一日をしのぐ命にすら及ばないということです。
不思議な事は、(売っている)薪の中に赤い色がつき、箔などがところどころに見える木が混じっていたのです。
それを尋ねてみると、なすすべがなくなった者が、古寺に行って仏像を盗み、お堂の仏具を取り壊し、割り砕いたのでした。汚れや罪悪の世にも生まれ合わせて、このように情けない有り様を見たことでした。
また、とてもしみじみとすることもございました。
離れられない妻や夫を持った者は、その愛情が強くて深い者の方が、必ず先に死ぬのです。
その理由は、自分の身は二の次にして、相手のことを大切にしたいと思っているので、たまに手に入った食べ物をも相手に譲るためです。
それゆえに、親子の場合は決まったことで、親が先に死んでしまいました。
また、母親の命が尽きているのを知らずに、あどけない子どもが、依然として(母親の)お乳を吸いながら、横になっている様子などもありました。
仁和寺にいる隆暁法院という人が、このようにしながら人々が数がわからないほど死んでいることを悲しんで、その(死んだ人の)首が見えるごとに、額に阿字を書いて、仏と(死んだ人と)の縁を結ばせる(成仏させる)ことをなさいました。
死んだ人の数を知ろうとして、四月と五月に数えてみたところ、京のうち一条よりは南、九条よりは北、京極よりは西、朱雀よりは東の道のほとりにある(死体の)頭は、全部で四万二千三百ほどありました。
ましてその前後に死んだ者も多く、また、河原や白河、西の京やもろもろの辺鄙な田舎などを加えると、際限もないでしょう。ましてや畿内を除いた諸国を加えると(さらに際限がないでしょう。)
崇徳院の御時代に、長承のころであったとか、このような飢饉があったとは耳にしますが、その世の有り様は知りません。今回目の当たりにした光景は、めったにないことでございました。
と書かれています。
この養和の大飢饉により、清盛が日宋貿易で宋の国から輸入した宋銭の価値は急激に下落しました。
これにより平家の威光はさらに低下していき、九州や四国において反乱が相次ぐのでした。
私たちは依田城にて状況確認をしておりました。
木曽の傘下の豪族たちもあまり表情が優れません。
「ふむ、凶作も2年連続となると影響は深刻だな」
私はその言葉に頷きました。
「今年は兵を動かすことは考えず、食料の確保に専念したほうが良いかと思います。
山より降りてくる猪や鹿などから田畑を守るために兵をそちらへ向けましょう」
義仲様は頷きました。
「うむ、そうした方がいいだろうな。
せっかく育てても獣に食われては元も子もない」
私も頷きます。
「では、平家の勢力と近い若狭、信濃、三河などを除き今年は食料の確保を優先するため、鹿や猪や猿、鳥などを畑に近づけないようにしてください。
無論、若狭、信濃、三河でも畑を守ることを優先してください」
豪族たちは頷いてそれぞれの領地へ戻っていきました。
さて、この時代田畑を荒らす主な害獣や害鳥は鹿、猪、狸、猿、兎、土竜、鼠、カラス、鴨、雀、雉、鳩などです。
「ふむ、とりあえずはまずカカシですかね、あとは柵を作るのは基本ですか」
田畑にカカシを建て、猪垣を築き、落とし穴や跳ね上げ罠の設置も行います。
罠はあくまでも獣道に設置しますが人間がかかると危ないので目立つ目印を木につけておきます。
更に木酢液やオオカミの尿など猪などが嫌う匂いを放つものをを獣道において侵入を防ぎます。
鼠対策には猫を飼い、イノシシ・シカ対策には犬を飼い、兎対策には狐を貴狐天皇に呼び寄せてもらいます、鳥は網を張って捕らえます。
勿論捕獲した獣や鳥はさばいて食べます。
それでも被害が出る場所では見張り小屋を設置し、交代で山小屋に泊まって大声で騒ぎ追い払います。
「これくらいすればなんとかなるでしょうか……」
えらく疲れましたが、これも食料を守るためです。
子連れの動物などを見ると胸が痛みますが……。
今は情けをかける余裕がありません。