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寿永元年(1182年)
翌養和2年(1182年)3月、藤原定能・藤原光能・高階泰経が還任しされました。
昨年までほぼ壊滅状態だった院政派も清盛の死に息を吹き返したのです。
宗盛は政治的発言力を高める後白河法皇への対応に苦慮していたらしく、平氏と後白河法皇の連絡交渉を担当する親宗に「天下の乱、君の御政の不当等、偏に汝の所為なり。故禅門は遺恨ありし時、直にこれを報答す。宗盛に於いては、尋常と存じ、万事存ぜざるが如く知らざるが如し。仍つてことに於て面目を損ず。頗る怨み申す所なり」と八つ当たりとも取れる発言をしていたようです。
ただし、九条兼実に代表される藤原氏などの貴族層は日和見的態度を取ったため、後白河法皇も一挙に主導権を握ることはできなかったようです。