49.婚約者の噂
「アカデミーの卒業おめでとう」
アカデミーを卒業し、やっと毎日見なくて良くなったはずの胡散臭い王太子の顔がアレクサンドラの目の前にある。その現実を受け止めたくなくて、アレクサンドラは遠い目をしていた。
「ありがとうございます、ローレンス殿下」
ここはリンドバーグ伯爵家のサロン。先触れ通りぴったりの時間にやってきたローレンスの手には赤いバラの花束が抱えられている。
この男には棘のあるバラの花がよく似合う。だが、多分自分にも似合う。そんなことをうっかり考えてしまったアレクサンドラは首を振った。いけない、これ以上自分との共通点を思い付いてしまう前に、彼を屋敷から追い出さなければ。
「いつもお伝えしておりますが、この花束は受け取れませんわ。私には婚約者がおりますの。婚約者以外の殿方から贈り物を受け取るわけにはまいりませんから」
「王太子であり君の師でもある私からの贈り物と言っても受け取れないのか? それは不敬と言っていいんじゃないか?」
「好きで師にしたわけではありませんけれど。あなたがアカデミーにいたのは完全に予想外でしたもの」
ついでに、まさかたった三年で講師を辞めるとも思わなかった、まるで本当に自分を追いかけていたようではないか、とも言おうと思ったもののそれを言っては薮蛇だ。
例の件の仔細を知れば知るほど、彼は自分を守るためにアカデミーの講師をしていたようなものだったと結論がついてしまうのだ。
いくつかの他愛ない世間話をした後で、アレクサンドラは切り出した。
「オフェリー・バティーユ様のことですけれど」
「ああ、バティーユ男爵家を出たと聞いたな」
「いろいろ困っているようですので、うちから出資することにしましたの」
「へえ。彼女は君が経営する商会を乗っ取ろうとしていたんじゃなかったか?」
興味深そうにするローレンスにアレクサンドラは続けた。
「卒業式の後、男爵家を出ると決めた後で、あの店の覆面経営者――私なのですけれど、その人物宛に彼女から面会したいと要請がありましたの。所定の日時に経営者として現れたところ、おもちゃで殴られたプードルのようなお顔をしていらしてよ」
「それはさぞ、君の庇護欲をくすぐったんじゃないか?」
「ええ、ですから事業計画書を見て差し上げましたの。大変興味深く、出資する価値があるものでしたわ」
「なるほど。その判断は君らしくていいな。さすがだよ」
ただの報告だったつもりなのに、褒められてしまった。
いつもなら、聞き流して次の話題に移るはずが、今日はそれができない。多忙な彼が自分を守るためにアカデミーの講師を三年間も務めたとほぼ確定してしまったからである。その意味がわからないほど、アレクサンドラは子供ではない。
(王太子妃として私を欲しいのであれば、護衛を厚く配置すればいい。自らそこまでする必要はないもの)
考えたくなかったことを思い出してしまい、急に勢いを失ったアレクサンドラにつられたかのように、なぜかローレンスは話題を変えた。
「……君の婚約者についてだが」
「卒業パーティーのあの会場からいつの間にか姿を消していたマルセル様のことですわね」
アレクサンドラとオフェリーが和解した卒業パーティー。途中でオフェリーに怒りの矛先を向けられたマルセルは尻尾を巻いて退散していた。
その前に、ローレンスがアレクサンドラの手に口付けたのを見ていたはずなのだが、まさか堅物女が王太子に見初められるとは思いもしないらしく、本当に演出か何かだと思っているようだった。心底おめでたい婚約者だ。
ローレンスは続ける。
「あの男、仮面舞踏会で遊んでいるという噂がある」
「あら」
この男にしては珍しくはっきりしない言い方だ。しかし、そんな噂は以前からある。婚約者の素行の悪さを元から知っているアレクサンドラは動揺することはない。
「……殿方の遊びは嗜みですわ。女性と遊んでいるのではなく、ただ情報を集めているのにすぎません。私も同じことをしていますから、咎めませんわ」
「――それが違うようだ。毎回違う女性を連れ帰り一晩を過ごした後、翌日の昼過ぎに家まで送り届けていると」
「…………」
手元でカップとソーサーが音を立てた。マルセルのあの素行だ。アカデミーを出て侯爵家の手綱が緩んだら、いつか醜聞になるだろうと予想はしていた。しかし、いくらなんでも早すぎやしないだろうか。
そこそこショックを受け、怒りを覚えたアレクサンドラは、ゆっくりと呼吸を整えながら瞬きをした。
「……そうですか。でしたら、我がリンドバーグ伯爵家を踏みにじった相手に然るべき対処をいたしますわ。殿下のお力添えは不要です」
「今、婚約者が王都にいないのは知っているか?」
「ええ。お父上の仕事に同行するとかで、数週間王都を離れていると」
「それが、調べたところ彼の父親は王都にいるんだ」
「えっ?」
つまり、婚約者はアレクサンドラにわざわざ嘘の予定を伝えてまで王都を離れたということになる。この話題と合わせて考えると、そういうことなのだろう。瞬時に理解したのと同じタイミングでローレンスはメモを差し出してくる。
「三日後に、アリンガム伯爵領内の田舎町で仮面舞踏会が開かれるらしい」
「アリンガム伯爵領……」
かつて家庭教師から聞いた『自分より賢い令嬢』がいるという家の名前が思わず引っかかった。
「どうかしたか?」
「いえ、何でもありませんわ。彼はここに行くのですね」
「そう読んでいる。王都から離れて羽目を外す人間が多く、田舎町の仮面舞踏会は品のないものになることが多い。ここに行けば現行犯で押さえられる可能性が高い」
そんなことをなぜ知っているのか。しかし今はどうでもいいことだ。すぐに出発すれば仮面舞踏会の夜に間に合うだろう。アレクサンドラは立ち上がり、王太子への挨拶もそこそこに部屋を退出しようとする。
しかしローレンスに手で制止された。
「私が行く。婚約者の情事にでくわすかもしれないんだ。君はここで待っていろ」
「あら、私を誰だと思っていらっしゃるのかしら? こんなことで逃げ帰る女ではありませんことよ」
「ああそうだろうな。だから私も一緒に行く。すぐに支度を」
思いがけない言葉に、アレクサンドラは呆然として固まった。そして。
「!? 私は一人で参りますわ!?」
「こんなときに君を一人にする気はないな」
揺るぎない意志が伝わる声音が響く。
聞き返す間もなく、アレクサンドラは急いで王都を出発することになった。





