表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
喰情千界  作者: 遥斗
PR
38/38

第38話



雨と血の匂いが、すべての感覚を麻痺させていく。


「……ッ!」


理性の輪郭を失った俺は、ただの肉塊して突進した。

右腕に集約させた、ありったけ。

最短距離をまっすぐ、ヴェスパーの心臓を貫く――はずだった。


「……届きませんよ。」


冷酷な囁きが耳元を掠めた。

手応えはない。俺の決死の一撃は、ヴェスパーの洗練された体術の前に、ただの滑稽な舞いのように躱されていた。


体勢を崩し、無防備になった俺の首筋へ。

ヴェスパーの鋭利な腕が、死神の鎌のように振り上げられる。


「醜悪ですね。力に狂い、ただ血に溺れるだけの獣。」


見下ろすヴェスパーの瞳には、完全なる強者の余裕と、塵芥を見るような侮蔑が宿っていた。


「何も為せず、ただ壊すだけ。……さあ、もう終わりなさい」


ヴェスパーの手刀が俺の命を刈り取ろうと迫る。

避ける余力などない。



あぁ、これで終わる。

俺の罪も、罰も、すべてこの冷たい泥の底へ。


そう、死を受け入れようとした、その刹那だった。


『――待ってるね』


赤黒く塗り潰されていた俺の脳裏に、ふわりと、鈴を転がすような声が響いた。


『どんなに辛くても……私は、暁人くんと、快と。三人で一緒に生きたい。だから絶対帰ってきてね』


それは、陽だまりのような紬の笑顔。

あの日、三人で分け合った温かい日常の記憶。

俺が自ら壊した地獄の記憶の底に、まだ確かに残っていた、絶対に手放したくない光。


(……そうだ。俺は、俺は……ッ!)


過去の罪に溺れるためじゃない。

あいつらの元へ、帰るために立ち上がったはずだ。


「ガ、ァアアアアアッ!!」


死を受け入れようとしていた肉体が、理屈や限界を置き去りにして強引に捻れる。

獣の本能ではなく、人間として生きるための、反射。


「なっ……!?」


ヴェスパーの優雅な顔に、初めて明確な驚愕が走った。

必殺であったはずの凶刃が、俺の首の皮一枚を掠め――そのまま、俺の左肩から胸郭にかけてを深く、残酷に斬り裂いた。


「ガハッ……!」


肋骨が砕け、大量の鮮血が爆ぜる。

致命傷に等しい大怪我。肺が焼け焦げたように痛撃を訴え、片腕の感覚が完全に消失する。

だが、即死だけは免れた。


そして、肉を切らせたこの距離は。

ヴェスパーの懐に、俺自身が深く入り込むことを意味していた。


「貴様ァッ!!」


何かを察知したヴェスパーが腕を振りぬこうとする。

だが、それよりも早く。


(これで……ッ!!)


俺は、千切れかけた身体に残された最後の命の炎を、異形化した右腕に注ぎ込んだ。

視界の端で、過去の俺が友の胸を貫いた残像が重なる。

だが、今の俺が貫くのは、逃げ惑う弱者じゃない。

このふざけた運命を押し付けてくる、目の前の絶望だ。


「オオオオオオオオオオッ!!」


「馬鹿、な……この私が、こんな、劣等、種に……ッ!」


俺の右腕が、ヴェスパーの胸板を紙屑のようにブチ破り――その奥で脈打つ心臓を、抜き出し握りつぶす。

同時に、ヴェスパーの刃もまた、俺の腹部に深く突き刺さっている。


肉が裂け、骨が砕ける生々しい音が、二つ重なって響いた。


俺の手の中で、強大な化け物の心臓が、ビクンと大きく脈打ち……そして、完全に沈黙する。


「……あ、あ……」


ヴェスパーの口から大量の黒い血が溢れ落ちた。

その瞳から光が失われ、俺の肩に崩れ落ちる。


俺に突き刺さった腕を抜く、ヴェスパーの体が糸を失った人形のようにその場に崩れ落ちる。


「……は、はぁ……」


終わった。

相打ち。

俺の体からもとめどなく血が流れ出し、雨水と混ざって足元を赤く染めている。


空を仰ぐ。

冷たい雨粒が、火のように熱い頬を打ち据える。


視界が、急速にブラックアウトしていく。

だが、その暗闇の向こう側には、もうなにも浮かばなかった。


『暁人くん』

『暁人』


待っている二人の声だけが、俺の薄れゆく意識を優しく撫でていた。


そのまま、俺は雨音の中、静かに倒れた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ