第38話
雨と血の匂いが、すべての感覚を麻痺させていく。
「……ッ!」
理性の輪郭を失った俺は、ただの肉塊して突進した。
右腕に集約させた、ありったけ。
最短距離をまっすぐ、ヴェスパーの心臓を貫く――はずだった。
「……届きませんよ。」
冷酷な囁きが耳元を掠めた。
手応えはない。俺の決死の一撃は、ヴェスパーの洗練された体術の前に、ただの滑稽な舞いのように躱されていた。
体勢を崩し、無防備になった俺の首筋へ。
ヴェスパーの鋭利な腕が、死神の鎌のように振り上げられる。
「醜悪ですね。力に狂い、ただ血に溺れるだけの獣。」
見下ろすヴェスパーの瞳には、完全なる強者の余裕と、塵芥を見るような侮蔑が宿っていた。
「何も為せず、ただ壊すだけ。……さあ、もう終わりなさい」
ヴェスパーの手刀が俺の命を刈り取ろうと迫る。
避ける余力などない。
あぁ、これで終わる。
俺の罪も、罰も、すべてこの冷たい泥の底へ。
そう、死を受け入れようとした、その刹那だった。
『――待ってるね』
赤黒く塗り潰されていた俺の脳裏に、ふわりと、鈴を転がすような声が響いた。
『どんなに辛くても……私は、暁人くんと、快と。三人で一緒に生きたい。だから絶対帰ってきてね』
それは、陽だまりのような紬の笑顔。
あの日、三人で分け合った温かい日常の記憶。
俺が自ら壊した地獄の記憶の底に、まだ確かに残っていた、絶対に手放したくない光。
(……そうだ。俺は、俺は……ッ!)
過去の罪に溺れるためじゃない。
あいつらの元へ、帰るために立ち上がったはずだ。
「ガ、ァアアアアアッ!!」
死を受け入れようとしていた肉体が、理屈や限界を置き去りにして強引に捻れる。
獣の本能ではなく、人間として生きるための、反射。
「なっ……!?」
ヴェスパーの優雅な顔に、初めて明確な驚愕が走った。
必殺であったはずの凶刃が、俺の首の皮一枚を掠め――そのまま、俺の左肩から胸郭にかけてを深く、残酷に斬り裂いた。
「ガハッ……!」
肋骨が砕け、大量の鮮血が爆ぜる。
致命傷に等しい大怪我。肺が焼け焦げたように痛撃を訴え、片腕の感覚が完全に消失する。
だが、即死だけは免れた。
そして、肉を切らせたこの距離は。
ヴェスパーの懐に、俺自身が深く入り込むことを意味していた。
「貴様ァッ!!」
何かを察知したヴェスパーが腕を振りぬこうとする。
だが、それよりも早く。
(これで……ッ!!)
俺は、千切れかけた身体に残された最後の命の炎を、異形化した右腕に注ぎ込んだ。
視界の端で、過去の俺が友の胸を貫いた残像が重なる。
だが、今の俺が貫くのは、逃げ惑う弱者じゃない。
このふざけた運命を押し付けてくる、目の前の絶望だ。
「オオオオオオオオオオッ!!」
「馬鹿、な……この私が、こんな、劣等、種に……ッ!」
俺の右腕が、ヴェスパーの胸板を紙屑のようにブチ破り――その奥で脈打つ心臓を、抜き出し握りつぶす。
同時に、ヴェスパーの刃もまた、俺の腹部に深く突き刺さっている。
肉が裂け、骨が砕ける生々しい音が、二つ重なって響いた。
俺の手の中で、強大な化け物の心臓が、ビクンと大きく脈打ち……そして、完全に沈黙する。
「……あ、あ……」
ヴェスパーの口から大量の黒い血が溢れ落ちた。
その瞳から光が失われ、俺の肩に崩れ落ちる。
俺に突き刺さった腕を抜く、ヴェスパーの体が糸を失った人形のようにその場に崩れ落ちる。
「……は、はぁ……」
終わった。
相打ち。
俺の体からもとめどなく血が流れ出し、雨水と混ざって足元を赤く染めている。
空を仰ぐ。
冷たい雨粒が、火のように熱い頬を打ち据える。
視界が、急速にブラックアウトしていく。
だが、その暗闇の向こう側には、もうなにも浮かばなかった。
『暁人くん』
『暁人』
待っている二人の声だけが、俺の薄れゆく意識を優しく撫でていた。
そのまま、俺は雨音の中、静かに倒れた。




