第八部 〜預証状と信用の再起〜
享保十三年・六月末。
混乱を極めた浅草の信用銭市場を経て、久志たちはついに“第二の手”を打つ。
幕府による「預証状」の発行。
それは、信用銭の裏付けとなる「公的な保証書」。持っていけば、銀銭・米・反物などの実物資産と交換できる——まさに“信”そのものを形にした書付だった。
老中たちの中でも意見は割れたが、藤嶋の強い進言により、条件付きでの実験的運用が許された。
——そしてその日、江戸・小伝馬町。
市中の掲示場に、幕府印の朱印状が貼り出された。
「浅草門前にて発行の信用銭、所定の預証状と共に差し出されし者には、銀三分または米三升と引き換うべし」
その知らせは、瞬く間に町を駆け抜けた。
「幕府が……ほんとうに交換してくれるのかい?」
「そいつぁただの紙じゃなかったのか……!」
「清水様の話、嘘じゃなかったんだな!」
——民の目が、再び久志へと向き始めた。
その頃、浅草門前町の茶屋。
原田と久志は、信用銭と預証状の交換の様子を密かに見守っていた。
「……問題なく、順調に進んでいますね」
「うむ。銀目当てで来た者もいたようだが、実際に交換が行われると分かると……」
原田が指差す先では、逆に信用銭での支払いを受け入れる商人が増え始めていた。
「“幕府が保証する貨幣”という信用が、人々の行動を変えた……」
久志は息を吐き、つぶやいた。
「……現代の通貨の原点も、こういう“信の積み重ね”から始まったのかもしれませんね」
だがその直後——
一人の浪人風の男が、久志に近づいた。
「お主が、清水久志殿か?」
「え、ええ。そうですが……」
男はふところから一通の文を差し出した。
「……“嶋岡源十郎殿より、密談の申し出”。……場所は、丑の刻、神田明神裏手の社にて」
久志の表情が緊張に変わる。
「嶋岡が、私に……?」
原田が男をにらみつける。
「誰の差し金だ?」
「……ただの伝言役です」
男はそう答えると、すぐさま姿を消した。
久志はその文を握りしめ、原田の顔を見た。
「行きます。逃げるわけにはいかない」
「ならば、私も共に行く」
「いえ……嶋岡は、私と“差し”で話したいはずです。情報を引き出すには、それが一番の道です」
久志の目には、覚悟の光が宿っていた。
——その夜、神田明神裏。
蝋燭一つ分の明かりの中、久志は待っていた。
やがて、社の影から姿を現したのは、かつての藤嶋の部下にして、今は稲葉に仕える嶋岡源十郎だった。
「……来てくれたか。未来の先生殿」
「……あなたが、裏で信用銭を潰そうとしたんですね」
「潰したのではない。ただ、“自然と壊れるように仕向けた”だけだ」
嶋岡は涼しげに言った。
「久志殿、私は“混乱こそが金を生む”と知っている。制度は脆い方がよい。動かぬ岩より、流れる水のようにして、己の利をつかむ」
「それで人の生活を踏みにじるのか……!」
久志が怒りをにじませて言うと、嶋岡は肩をすくめた。
「君は理想を語りすぎる。だが、理想は敵を作る。君の正しさは、幕閣の多くを不安にさせている。……だから、君は消えるべきだ」
その瞬間、背後から複数の影が現れた。
刺客——稲葉が再び放った“本物の刃”たちだった。
「清水久志、これまでだ」
刀が抜かれ、光を反射する。
だが——
「動くな!」
闇を裂くように声が響いた。
木陰から、原田利久と藤嶋の部下たちが一斉に飛び出す!
「おぬしら、これ以上の蛮行、許さぬ!」
「……ちっ、包囲されたか」
嶋岡は忌々しげに舌打ちし、手勢を引く。
久志は刀を向けられたまま、一歩も動かなかった。
「私は……恐れない。たとえ何度狙われようと、“正しさ”を手放すつもりはない」
嶋岡の目に、一瞬だけ戸惑いの色が浮かんだ。
「……ならば、お前の命が先になくなるだけだ」
そう吐き捨て、彼らは夜の闇に消えていった。
夜が明ける。
久志は無事に戻り、原田と静かに話していた。
「嶋岡の心には、まだ迷いがありました。……もしかしたら、彼も、かつては“理想”を信じていたのかもしれません」
原田は静かに頷いた。
「……人の信は、剣よりも難しい。だからこそ、貴殿の戦いには意味がある」
久志はそっと天を仰ぎ、誓うように言った。
「負けません。たとえ、裏切りと刃が迫ろうとも——“信”だけは、絶対に曲げません」
——この信念が、やがて江戸を、そして日本の未来を変える“柱”となる。