第六部 忠義と裏切りの幕閣
享保十三年・晩春——江戸城本丸、老中評定の間。
襖が静かに閉ざされると、室内の空気は一気に張り詰めた。
その場に深く頭を垂れる一人の男——勘定方首座・藤嶋時頼。
老中四名が厳かに座す中、中央には稲葉和泉守正親。
その隣に座すのは、老中首座にして一切の政務を束ねる老将——**水野出羽守忠之(みずの でわのかみ ただゆき)**である。
「藤嶋殿——貴殿の推挙せし“清水久志”なる者、素性定かならず。発言は奇にして、民心を煽る行為、看過できぬ」
稲葉の言は、静かでありながら、底冷えするような斬気を帯びていた。
「その者を勘定方の席に列せしめ、挙句には民の面前にて演説を許す。これ、幕政を外へ晒すが如き蛮行」
だが藤嶋は、顔を上げると、静かに答えた。
「……清水殿の知恵は、確かに異なれど、民の苦を解き、財政を救う道筋を示しております。あの者の語る理は、夢物語に非ず。確と“現”に通ずるもの」
「未来より来たなどと申す、その戯れ言を、真に受けるというか?」
稲葉が一歩、席を離れ、鋭く詰め寄る。
藤嶋は言葉を返さず、静かにその眼差しを稲葉に向けた。
——沈黙。だが、その沈黙こそが「信」の証であった。
だが、評定の場においては、それは「答えを避けた」と映る。
「藤嶋殿——問答無用。これより、貴殿には役目を一時停止といたす」
「……っ」
その瞬間、原田利久が立ち上がる。
「それでは、改革が——! 江戸の財政は既に火急の——!」
「黙れ、原田利久ッ!」
稲葉の叱声が、石をも穿つように響いた。
「民の面前で演説を行わせたなど、武家の誇りを損ねる所業。貴殿もまた、処分の対象と心得よ」
重苦しい空気が場を包む——。
だがそのとき。
「待ってくださいっ!」
扉が開かれ、場に乱入せし者あり。
白地の裃に身を包んだ若き男——清水久志、その人であった。
「何たる無礼——!」
数名の幕臣が怒声を上げかけたが、稲葉が扇を掲げ、制す。
「……よかろう。語らせてみよ」
久志は静かに一礼し、中央へ進むと、膝をつき深く頭を垂れた。
「——藤嶋様を処罰なさる前に、どうか一つだけ、申し上げたきことがございます」
「申してみよ」
「……もし、私の提案が虚構であれば——五年以内に、この江戸は破綻いたします」
静寂が走る。
「流通は滞り、米価は乱れ、民は飢え、幕府の収入は底を尽く。ですが、私の知識は、理論と数値に基づいた“事実”でございます。試験を行えば、必ず証となる。……どうか、藤嶋様の首を斬るのではなく、“猶予”を——半年だけ、お与えくださいませ」
その言葉に、老中らは互いに目を交わし、ざわ……とさざめく。
稲葉は沈黙のまま、微笑を崩さずに扇を弄んでいた。
そして、もう一人の老中——水野忠之が、口を開いた。
「……なるほど。されど久志殿。民の前で語り、世の仕組みを語るその胆力、尋常の者に非ず。貴殿の覚悟、確と見届け申した」
水野は、重々しく頷いた。
「半年——その間に何を見せるか、儂ら老中、よく目を見開いて見定めよう」
稲葉が続ける。
「……半年、見物といたそう。藤嶋殿には“監督のもと”にて職を戻す。——その代わり、再び騒ぎを起こしたならば、即刻、断罪とする」
「……ありがとうございます。」
久志は深く頭を下げた。
——江戸城外。
評定を終えた久志は、帰路の途中、原田の隣を歩きながら、ぽつりと漏らす。
「……私のせいで、藤嶋様が……危うい立場になってしまいました」
原田は微笑し、歩を止めた。
「違う。貴殿が現れたからこそ、我らは目を覚ました。恐れず進め、清水殿。そなたの志、我らが支える」
久志は、静かに頷いた。
その胸の奥に、一つの影が芽吹いていた。
——この“政”という場において、忠義とは、裏切りと紙一重であるのだ、と。
——その夜、稲葉邸。
灯りの薄暗き一室にて、盃を掲げる稲葉と、向かいに座す若き男——嶋岡源十郎。
一見忠実なる藤嶋派の若手官吏。
「まさか、藤嶋殿が再び職に戻るとはな……」
源十郎が呟くと、稲葉はゆるりと盃を傾けた。
「……源十郎。貴殿の密なる耳と舌、まことに役立ったぞ。奴の“信”には傷がついた。次の一手、頼む」
源十郎の目が、静かに細まった。
「はい。信用銭の試験導入。混乱を演出し、改革の無力を示してみせます」
稲葉は微笑し、扇を軽くたたいた。
「よいな……“信”を失えば、“志”など塵芥に過ぎぬ」
——そのとき、久志はまだ知らなかった。
信じるべき者の中に、密やかな“裏切り”が潜んでいることを。
そしてその“裏切り”こそが、次なる嵐の火種であることも——。