10『危険な誘い』
……などと意気込んで出発したものの、一人でラングス邸を訪れるのは初めてだ。今更ながら、緊張してきた。
『お嬢様、本当に大丈夫ですか? やっぱり今からでも帰りませんか?』
向かい合わせに座る年若い侍女が眉尻をへにゃり、と下げて私の顔を覗き込む。
『大丈夫ですよ、……多分』
自信はないけど。
だが、とにかく迅速に行動しなくては。
手紙の内容を知る執事長や侍女頭には随分と無理を強いてしまったが、恐らく両親や兄には既に報告済みだろう。
──ううっ、絶対、物凄く怒られる。
だから謝罪を受けたらすぐさま帰宅して、何事もなかったのだと笑顔で皆を出迎えなくてはならない。
まあ、王妃様主催のお茶会に出席している母は退出はおろか中座も難しいから、まだ大丈夫。
父も、数日前から続く帝国大使との会談や懇親会が長引くらしく、日付の変わる頃にはなんとか帰れる筈だとぼやいていたので、こちらも余裕で大丈夫。
最大の問題は兄。
過保護を自認する両親に輪を掛けて過保護な彼は、私がサラーティカと関わる事を極端に嫌う。私が彼女の名前を匂わすだけで露骨に不機嫌になる程だ。
そんな人が、私のこの決断を知ったのならどうなるか……想像するだけで震える。
私に関する箍は最初から外れていると皆に揶揄される兄なので、仕事を放り出して駆け付けかねない。
大丈夫だとは思うけれど、大いに不安だ。
そうこうしている内にガタッ、と馬車が小さく左右に揺れて止まった。
『ほらぁ、もう着いちゃったじゃないですか!』
頬を膨らませ、ぷんぷんと怒る侍女は年齢よりも幼く見える。確か兄と同い年だったから、十八歳か。うん、とてもそうは見えない。
『だから私一人で行くって言ったのに。チェインはサラーティカが苦手なのだから、無理して付いて来なくても良かったのですよ?』
『何言ってるんですか!?』
そう言って侍女──チェインは大仰に目を剥いた。その目が若干、涙ぐんでいるのは気のせいだろうか?
『お嬢様お一人でラングス邸に行かせたなんて若様に知られたら私の首が吹っ飛ぶんですよ!?』
首が……吹っ飛ぶ?
馘首されるという事? それにしては随分と物騒な比喩だな、と首を傾げるが。
『チェインだけじゃなくって俺も、です。お嬢様』
馬車の扉を開けて顔を覗かせたマリウスがやや呆れた様子で、チェインに同意した。
『下手したら、執事長や侍女頭だって無事では済まないかも知れませんよ?』
『そんな大袈裟な、』
思いがけない言葉に驚く私だが、二人は至って真剣だ。
『大袈裟じゃないです! もし万が一にでもお嬢様に何かあれば若様の感情が暴走してしまうんですよ!? そうなったら誰にも止められないんですよ!? 私の首なんて一瞬で吹っ飛んじゃうんですよ!!』
と、チェインが真っ青になって叫べば。
『今からあの性悪ご令嬢に会われるんでしょう? こう言っちゃなんですが何してくるか分からんですからね』
とマリウスは嘆息する。
どうやら彼等が言うには、私がサラーティカにほんの僅かでも危害を加えられれば、チェインを始め馬車を出したマリウスも外出を許した執事長も当然、重い処罰を与えられるという事らしい。兄の逆鱗に触れたら最後、後には何も残らないのだと顔面蒼白で語る。
──確かにお兄様は怒ると怖いけれど、
『でも、サラーティカだってそこまで愚かではないでしょう? だからきっと大丈夫よ』
聞いた話ではあの後、随分と叔父様に叱られたそうだ。大変に反省しているとも聞いた。
『それに皆が馘首になったら私も一緒に家を出るから、ね?』
安心して貰おうと笑顔で言えば何故だろう、二人して非常に微妙な表情を浮かべて言葉を詰まらせた。……何故?
暫しの沈黙の後、マリウスは声を潜めて呟いた。
『なんでうちのお嬢様はこんなにおバカ可愛いんだ? 家出ってのはまあ確かに若様には効果絶大だろうけど、あのご令嬢が本物の愚か者だから皆が心配してるってなんで分かんないかな』
『ちょっ!? 止めて下さいよっ、どこに若様の耳があるか分からないんですから!! それと、お嬢様はおバカなのではなくて、とっても慈悲深い方なんです!!』
小声で怒鳴るという器用な芸当を見せるチェインは、辺りを探るようにキョロキョロと視線を動かした。その本気の怯えっぷりにマリウスは顔を引き攣らせた。
『うえぇ。あの噂、本当だったのか?』
使用人達の間でまことしやかに囁かれている、オルディアスがフィオネッタの全てを掌握する為に目と耳を張り巡らせているという噂。
『噂は噂ですよ。先輩ならご存知でしょうけど──あ、お嬢様、お手を』
『有り難う、チェイン』
馬車を降りるフィオネッタに手を差し出せば笑顔で礼を言われた。そのなんと愛らしい事か、チェインの猫のような瞳が興奮に輝いた。
そして快哉を叫ぶのだ、
うちのお嬢様の可愛さは最高で最強で、無敵!!
と。
一瞬、己を見失ったチェインだったがすぐ我に返り、一つ咳払い。
『とにかく! マリウスさんはここで待機です。お嬢様、参りましょう』
『はい。では行ってきますね、マリウス』
『じゃあ、行ってらっしゃいませ、お嬢様』
ひらひらと手を振って二人を見送ってからマリウスは、
『何も起きなきゃいいけど』
と苦い顔で呟いた。
通された部屋はサラーティカの自室だった。彼女らしい華やかな調度品が設えられた部屋には彼女と私の二人きり。チェインはかなり食い下がったが入室は認められず、ならば扉の前で待つと言い張ったが、戻ってマリウスと一緒にいるようにと私が説得した。
気位の高いサラーティカだから、例え上辺だけだとはいえ謝罪など他人に見聞きされたくはないだろう。
『今日は随分と粗末な馬車で来たのね?』
挨拶もそこそこに、サラーティカは薄く嗤う。言外に、貴女にはお似合いよ──と含ませて。
『私一人で乗るのには充分だもの』
本気で謝る気がないのは明らかで、私は胸の内でひっそりと嘆息した。やはり早々に引き揚げるべきだろう……普段通りのサラーティカに辟易としながら、私は殊更に冷たい声音を使った。
『謝罪する気はあるの? ないのなら私も受ける気はないわ』
『っ! ……やっぱり生意気な子……』
私には聞こえていないと思ったのか、サラーティカは視線を逸らしてそう吐き捨てた。
『……ごめんなさい、私が悪かったわ、二度とこんな事は致しません、どうか赦して下さい──これで良い?』
だがすぐに表情を取り繕って、なんとも抑揚のない謝罪の言葉を並べ立てた。私は呆れつつもそれを受け入れ、努めて冷ややかに宣言する。
『心よりの謝罪、確かに頂戴しました。私は貴女を赦します』
ふんっ、と鼻を鳴らすサラーティカを一瞥してから、私は帰宅の意思を告げる。だが、ここで彼女から思わぬ言葉を掛けられた。
『そんな事を言わずに、ねぇフィオネッタ。もう少しゆっくりしていったらいかが?』
驚いた。まさか引き留められるなど思わなかった。その真意が探れなくて上手く断れないでいる私の腕を引いて、サラーティカはにこやかに続ける。
『美味しい紅茶があるの。一緒に頂きましょうよ』
『サ、サラーティカ、あの、誘ってくれて嬉しいのだけれど私、今日は早く帰らないといけないの』
『あら、オルディアスお兄様に内緒で来たから?』
図星を指されて返答に詰まる私に向ける彼女の笑みは母エメンダに似た艶麗さで、焦がれて止まない私の胸には見えない刃が突き刺さる。
『私ね、近頃は自分で淹れられるように練習しているの。いつかオルディアスお兄様に飲んで頂きたくて』
また驚いた。典型的な貴族令嬢の彼女が手ずから紅茶を淹れるだなんて。本当に恋する乙女だ、素直に想いを口に出来る彼女が少し……羨ましい。
そして、そんな風に言われてしまえば私が拒めない事を理解している彼女がまた、憎らしい。
『……一杯だけ、頂くわ』
『じゃあ座って』
サラーティカのたどたどしい手付きを眺めながら、自分も最初はこうだったなと思った。いつの間にか兄が褒めてくれるくらいに上手に淹れられるようになったけれど。
『はい、どうぞ』
差し出されたのは、兄が好んで飲むメイヴィス葉の紅茶だった。甘い香りが柔らかく鼻腔を擽って、少しだけ私の動揺を鎮めてくれた。一口含めば僅かな渋味が舌に残って、懐かしい気持ちを呼び起こす。
『……美味しい……』
『そう? 良かったわ』
目を細めるサラーティカはやはり、とても魅力的だった。
『いつかね、お兄様にも褒めて貰いたいわ──貴女みたいにね』
私の目を奪うサラーティカの妖しい微笑が、霞がかったようにぼんやりとする。何故だか急に頭が重くなって、思考があちこちに散らばっていく。落としたティーカップの割れる高い音を酷く遠くに聞きながら、私の意識は混濁していった。
くすくす。
くすくす。
『眠いの? 眠れば良いわ、フィオネッタ。お休みなさい、良い夢を……』
暗転する刹那、そうサラーティカが囁いた気がした。




