十二
次の日からしばらく、是坊家の見張りは昼間に色吉ひとりでやることになった。太助が、
「どうせつぎの動きがあんのはつぎの満月までつぎの動きはねえだろう」
と降りてしまったのだ。夜のあいだだけでも根吉か卒太を貸してくれと頼んだが、それも断られてしまった。
しかしそれ以来、すくなくとも朝から夕にかけては、是坊の下屋敷の門は閉ざされたままだった。門から続く塀が途絶えたところが裏門に通じる路地になっているのだが、そこに出入りする者もなかった。
やはり夕方から夜にかけて見張ったほうがいいだろうか、と考えはじめた四月の晦日も近いころ。
だいぶ薄暗くなってきて、そろそろ旦那の退勤のために番所に行こうかと腰をあげたときのことだ。
裏門への路地から人影が出てきた。格好からして娘だった。ひとりだ。暗さもてきめん、あとをつけるにはちょうどいい。
娘は高橋を渡って両国のほうへ向かう。そのころにはそれをお常だと色吉は確信していた。声をかけるか。いや――。しばらくつけてみることにした。
だいぶにぎやかなところまで来て、鶴屋に行くのかな、と思ったら違った。娘は甘味処に入っていった。店は鶴屋からは全く離れている。
少し迷ったが、色吉は店内に入った。やはり、お常だ。座敷にあがるとお常の横に腰をおろした。お常は甘味に夢中のようで横に座った者のことなど気にもしていない。色吉は甘蜜を注文した。店の娘は顔を赤らめながら奥に行った。甘蜜はすぐにきた。さっきとは違う娘が運んできて、やはり顔を赤らめながら去っていった。
「お嬢さん、よかったらこいつも食べてくれ。甘いのは苦手なんでね」
甘蜜をお常のまえにずらしながら、色吉は声をかけた。
「甘いもんが苦手なのに甘味やに入って甘味を頼むって、どっか頭んなかなにかはずれてんのかい」
このとき初めて色吉の顔を見たお常は、目を丸くした。腰を浮かしかけたがそのまえに色吉が「話を聞きてえだけだよ」と言うと、おとなしく座りなおした。甘いものに未練があるようだ。持ったままだった甘味を、ふたたびかきこみはじめる。「話すことなんかないよ」
「まず訊くが、あんたはお浅じゃなくてお常だ。そうだな?」
娘は不承不承、といったていでうなずいた。
「なぜ是坊の屋敷にいる。隠れてるのか?」
「いちゃ悪いのか。あたしの勝手だろ」
「いいや。おめえさんはおれからお幹やお蘭の話を聞いたあとで姿をくらました。なにかそのせいだ、って勘繰らざるを得ねえじゃねえか」
「勝手に勘繰ってりゃいいさ」
「なあ、頼むぜ。おれはおめえさんがどっかにかどわかされたんだと思ってたんだ。もっと言や、こう、やられちまったんじゃねえかともな」
「あいにくだったね」
「そうひねくれるなよ。おめえさんは自分から是坊のところに行ったのかい? あそこでなにしてるんだ。今日はどうして出てきた。これから自分の長屋に帰るのか、それともまた屋敷に戻るのか」
「ほんとにもらうよ」
「ああ」
お常は甘蜜を取りあげて、食べはじめた。
「そういっぺんに訊かれたってわかんないよ。でもお蘭ちゃんのことなんかが関係あるってんならそうかもね。あたしだって、けだものに喰われたかない」
色吉はどういうことだ、という顔をした。
「だから是坊様んとこでかくまってもらってるのさ。あのおおか……けだものからね」
「狼ってのは、お浅のとこの権太のことか。おめえさんはお幹やお蘭の件があれのしわざだってのかい」
お常はからになった器を畳に置いた。
「そ、そんなこと、あたしは言ってないよ。ごちそうさま、もう帰る」
「帰るって、また是坊の屋敷にかい」
色吉は追いすがりながら言った。
「そうだよ」
お常はそう答えてから、「べ、べつに、どこだっていいだろ」とつけくわえた。
「そりゃおめえさんが無事ならどこでも構わないがよ」
「え」
お常が色吉をちらりと見た。そして履物をはいて店から出た。色吉も自分の草履をはいてそれに続く。
「べつにおれはおめえさんをどうこうしたいわけじゃないんだ。ただもう、あんなひでえホトケさんを出したかねえんだよ」
「あたしが殺されるっていうのかよ」
「おまえさん、自分でそう言ったじゃねえか」
「……」
「今日出てきたってことは、閉じ込められてるってわけじゃあないんだな」
お常が黙ってしまったので、色吉は話を変えた。
「ああ、甘いもんが食べたい、って言ったら、是坊様が行ってこいって」
「不自由はしてないかえ」
「まあね」
お常はもう隠す気もないらしく、是坊屋敷に向かっていた。
「そうかい。ならいい」
色吉は迷った。お常はけだものを怖れて是坊の屋敷に隠れているということだが、歩兵衛の話によればその是坊こそがけだものの化け物なのかもしれないのだ。
しかしそれをお常にいっても馬鹿にされそうな気がする。
そもそも色吉からして、ご隠居の話を聞かされた晩はおそろしくて寝てられない、と寝床でふるえたものだったが、いつのまにか寝て朝起きたときにはもう前夜の話が信じがたい、ありそうにないことに思われた思われたのだった。
「じゃあおれはここで」
屋敷の近くまで来たので色吉は踵を返した。「満月の晩は気をつけるようにな。お幹とお蘭はお月見の夜にやられてる」
駆けだす色吉を、お常は思いつめた顔で見送り、なにか言いかけて、やめた。
お常の無事を確認して安心したので、つぎの日からは色吉も是坊屋敷の見張りをやめにした。
留緒が洗濯ものを干しているあいだに、理縫はちょこちょこと家の門を出ていってしまった。でもいつものことだ。
すべて干しおわって、留緒も門を出た。
「あれ、理縫ちゃん?」
いつもは出たすぐのところで鞠などついてひとりで遊んでいるのに、きょろきょろと見回してみても見つからない。往来には何人かの町人と、馬に乗ったお侍とそれをひく供が歩いているだけだ。
「理縫ちゃん、理縫ちゃん」
いやだな、どこに行ったんだろう。名前を呼びながら小走りになる。
「留緒ちゃん」
理縫の声がした。でも立ち止まってぐるりと見回してもどこにもいない。すぐ近くだったんだけど。
「ここだよ」
理縫が馬のうえから手を振っていた。お侍のまえにまたがっていたが、そんなとこにいるとはまさか思わないから目に入らなかったのだ。きついお香のにおいがつんと鼻をついた。
「理縫ちゃん、だめだよ、お行儀の悪い」
留緒はそれからお侍とお供に頭をさげた。「ごめんなさい、うちの子です。お馬さんに乗りたいとかわがまま言ったんでしょう」
お侍にはじかで話しかけてはいけないような気がしたので供のものに言った。
「なに、構わぬ」
しかし留緒にそう言ったのは馬上のお侍だった。「苦しうないぞ。面をあげてこちらを見よ」
留緒がもじもじしていると、「殿が申しておられるのだ、早く顔をあげろ」と供のものが言った。
はじめてお侍の顔を見ると、留緒は知らず息をのんでしまった。そしてそのまま息をするのを忘れてしまった。なんと美しい男だろうか。美しいものを見て頭がぼんやりとかすむ、という経験を留緒は初めてしたのだった。




