十
話は歩兵衛の父、背兵衛の代までさかのぼる。背兵衛は備中のさる藩の武士であった。ある年、藩内で春から秋にかけて猟奇的な事件が起こった。嫁入り前の女たちが、腹を裂かれて臓物を食い荒らされていたのだ。
最初のときと二人目くらいまでは、熊か狼にでも襲われたのだろうと思われた。なにしろ領内の村の多くが山地で、平地のほとんどは百姓地である。遺体が見つかったのも山中だったから当然のことであった。
三人目の犠牲者が畑のなかに発見されたときには、獣が山を下りたのかと恐れられ、若い女に限らず夜の外出を控えるようになった。
にもかかわらず、四人目が出た。村を流れる小川に半身がつかったかたちで見つかった。やはり娘だった。
家の者たちが夜は出ないようにしていたのに、こっそりひとりで抜け出したらしい。娘には弟がいたのだが、その子によるとどうやら逢引きのために出かけたようだった。弟は、姉の秘密を探ることを面白がっていたのだ。感心した遊びではないが、そのときは役に立った。相手の男は、お侍さんの次男だか三男だかだったよ。おれ、お屋敷までつけていったんだ。
「そのお侍の家というのが是坊じゃ。三男はまだ幼く、次男の段之重というのが二十を回ったくらいで、その相手と目されたのじゃが……」
ところが是坊家ではそれを否定したのだった。そのような百姓の娘など知らぬ。存ぜぬ。
知らないというならば仕方がない、とにかく四人目の娘は誰かわからない男との逢引きのため夜中に家を出ていき、獣に襲われて命を落とした、ということで決着した。
このころになると、背兵衛は事件の共通点に気づいていた。被害者が全員若い女であるというだけではなく。
「つまり、親父殿は事件の起こるのがひと月ごとで、月の半ば、もっと言えば満月の晩であることに、いずれの事件もそうだったことに気がついたのじゃ」
「満月の晩……」
確かお幹もお蘭も見つかったのは十六日だ。ということは。
色吉は太助を振り返った。太助はこっくりこっくり、舟をこいでいた。
背兵衛はそうと気づいたというだけで、たいして気にかけはしなかった。満月は人を狂わせるとは昔から言うことで、ならば獣だって狂わされるのであろう。
それよりも背兵衛には気になることがあったのだ。許婚のお米の様子が最近どうもおかしい。呼びかけても応えないときが多く、何度も呼んでやっと気がついたようになる。そこからの受け答えも頓珍漢なものだった。「寝足らんのか?」「いえ、もうお腹いっぱいでございます」目を開いたまま寝ているかのようだった。
実はここひと月ばかり花嫁修業と称して、是坊家に通っているのが引っかかるといえば引っかかるのだった。
もともと少し抜けたところがあって、それもお米のかわいらしさのひとつではあったのだが、抜けるにしても限度というものがあるだろう。
お米に限って、是坊の餓鬼にたぶらかされるなどということもあるまいが。……しかし十六といえば立派に嫁入りできる年ではあるが、一方でまだまだ幼い、世間知らずの小娘でもある。
こんなことで悩むのも男らしくないと思い気にしないようにするのだが、しかしまたお米に会うとどうしてもその言動に不安にされてしまう。
考えまいとしても、村中の心配ごとであるけだものの事件と、ひそやかに囁かれる是坊殿の噂が重なって、どうしても頭から離れてくれないのだ。
どうにも不安だった。そこで背兵衛は一計を案じた。
次の満月の日の昼間、お米の家、美作邸に樽酒を届けさせておいて、夜になってから訪ねたのだ。お米をもらうまえに、その父の儀丈と酌み交わしたいという名目だった。儀丈は晩飯もいっしょにと誘ってくれたが、それは辞退して、飯どきを避け夜も充分に更けてから訪問した。そうして美作家で、夜通しお米を見張るつもりだった。
お米もその時分にはもう是坊から帰っていて、はじめのうちは向かいあって酒を飲んでいる儀丈と背兵衛に母の作る肴を運んだり、呑めぬ酒をなめて苦い、と顔をしかめたり、男二人の話に割って入ろうとして無視されたりしていたが、そのうちに「眠い」と言って自室に引っ込んだ。
なんとも愛おしい娘だ、と背兵衛は思わずにんまりと笑ってしまう。お米をもう秋には嫁として迎えることがうれしくなり、また儀丈との話も楽しく、つい当初の目的を忘れ、ふだんより過ごしてしまったくらいだった。
それがまずかった。
目を覚ましたことで、自分が寝ていたことに気がついたのだった。
儀丈も横になっていた。障子を開け、縁側に立つと、満月がまぶしいほどだった。どこか田圃で蛙が鳴いている。なかに戻ろうとして、並びの部屋の障子が開いていることに気がついた。
あれは、お米殿の――
と考えたのが先かあとかもわからずその部屋に駆けつけた。月明りで、外から見ても布団が空なのがわかる。無礼もかえりみず探ると、もはや人肌は感じられなかった。
裸足のまま庭に降り立ち、横切り、裏門に行くとやはり戸が開け放たれていた。背兵衛はそこをくぐり、道に出て左右を見渡したがお米のいるはずもない。どちらに進むべきか迷ったが、すぐに是坊の家のある方に駆けだした。
是坊の家はここから半里ほども離れているがその半分ほどのところで、異様なものを見た背兵衛は立ちすくんだ。
人間ほどもある獣だった。犬か狼のようだ。道の真ん中に四つ足で立ち、こちらを見ていた。両の目が光っていた。そのうしろに、人の足のようなものが見える。女の足だ。
「うおお」
背兵衛は知らず声をあげ、刀を抜いて、獣に向かって再び駆けだした。
獣はぱっと飛んで逃げだした。
転がっている女から目をそらして、
――どうかお米殿ではありませんように。
背兵衛は獣を追いかけた。
しかし四つ足で書ける獣はおそろしく速く、すぐに見失いそうになる。背兵衛も必死で追いかけた。しかしとうとう見失ったときには、背兵衛は自分が広大な是坊邸のまえにいることに気がついた。
閉ざされた門をどんどんと叩いたが誰も出てこない。裏門にも回ったが同じだった。も一度おもてに回ってしつこく門を叩くと、中間が三人ほど出てきた。
「この深更にしつこいやつじゃ」
「ここを是坊家と知っての狼藉か」
三人とも槍を構えて背兵衛に突きつけてくる。
「遅くに申し訳ないが、火急のこととてお許し願いたい。拙者は羽生背兵衛と申すもので怪しいものではござらん。お屋敷に大きな獣が入り込まなかったであろうか」
「なにを言いよる」
「とんだ言いがかりじゃ」
「是坊家にケチをつける気か」
ますますいきり立って迫ってくる。
「いや、知らぬならばよいのだ。たいへん失礼いたした」
背兵衛は謝ってその場をあとにした。そして急いでさきほどの場所に戻ると、はたしてそこに倒れていた女はやはりお米であった。これまでの娘と同様、悲惨なことになっていた。背兵衛は脇にしゃがみ込むと、泣きこそはしなかったものの目をつむり歯を食いしばった。
お米の葬儀の日、背兵衛は参列者が是坊家の次男の段之重が家を出たという噂をしているのを聞いた。あのすぐ次の日のことらしかった。
初七日を待たずに、背兵衛も出奔した。家は弟に継がせることで親も納得した。おかしな事件に巻き込まれたということで、いずれ背兵衛は故郷には居づらかったのだ。
「ざっと七十年も昔の話じゃ」
歩兵衛が言った。
「待ってくだせえ。今の話じゃまるで、その是坊の段之重がばけものに変化した、ってことなんで?」
「わしもこの話を親父殿から聞かされたときに同じことを訊いた。親父殿はそう確信しておったようじゃな」
色吉は太助を振り返った。あいかわらず舟をこいでいた。
それから背兵衛は段之重を追って江戸まで流れついた。是坊の屋敷が上屋敷も下屋敷も江戸にあることは知っていたし、途中の町や村で、無惨に襲われた若い女の話をしばしば耳にして、それを追って着いたのが江戸だった。
段之重が下屋敷に入ったことを見届けて、気にかけていたが、それから満月の夜になっても若い女が犠牲になることはなかった。ふた月、三月後にもなにも起こらなかった。ひと月以上かけて江戸の周囲、武州、相州、総州まで足を延ばして探ってみたが、該当するような陰惨な事件は起こっていなかった。
被害者を数えてみると十二人、ちょうど一か年で終わったということのようだった。
その後、背兵衛は同心の株を手に入れて町方として勤めだし、妻も得てすっかり江戸に腰を落ち着けたのだった。
段之重は深川の下屋敷に引っ込んだままでいるらしく、背兵衛も気にかけてはいたがその後その姿を見かけることはなくなった。ところが。
背兵衛が江戸で暮らしはじめて、干支が三回りほどもしたころ。
背兵衛は壮年の、周りからなにかと頼りにされる中堅同心となっていた。
そもそも自分が江戸に来た理由も思いだすこともなくなっていた、そのころに、ふたたび事件が起こったのだった。
暖かな初夏の宵、町民も武家も、御府内じゅうが月見でなんとなくうきうきと浮足立っているような晩だった。
背兵衛も妻子とともに縁側で饅頭など食べ、さてそろそろお開きにするかというころになって、近くに住む同僚が訪ねてきた。
十五になる娘が、宵の口から見当たらないのだという。もう帰るだろう、そろそろだろう、と待っていたが帰ってこない。とうとうこんな刻限になってしまったということだった。
背兵衛と同僚は他にも何人か誘って、手分けして近所を探すことにした。
「ケケケケケケ」
八丁堀の裏手のさびしいあたりを歩いているとき、奇妙な物音が聞こえた。けものの鳴き声というには甲高い。鳥の啼き声だろうか。月明りはまだ明るく、背兵衛が顔を向けると獣とも人間ともつかぬ異様な物がそこにいた。そこは材木問屋が一時的に物を置く空き地で、いまはがらんとしているそこにそれは四つ足で立ち、その足元には人体が組み伏せられ、それはどうやら女で、死んでいるようだった。
考えるまえに背兵衛の体は動いていた。駆け寄りざま抜いて、そのまま横薙ぎに首をはねた。異様なけだものの首が転がった。刀が首に触れる一瞬前に、化け物の顔が驚愕した……ように見えた。
女を調べると、果たして同僚の娘だった。もう事切れていた。着物のまえがはだけられ、腹を引き裂かれていた。化け物の死骸とともに残していくのは忍びなかったが、これでは背負って運ぶわけにはいかない。背兵衛は取り急ぎ仲間を呼びに駆けだした。
仲間たちと戻ってくると、娘のなきがらはあったが獣の遺骸が消えていた。背兵衛は狐につままれた思いだったが、同僚たちは動物が咥えていったのだろうということで納得していた。
背兵衛はしかし得心のいかない思いだったので、翌日ひとり是坊の下屋敷をたずねた。段之重に会わせろとねばってやるつもりだったが、意想外にあっさりとなかに通されと思うと、こんどは背兵衛の驚愕したことに段之重が出てきたのだった。背兵衛と同じく五十を越えているはずだったが、頑健で若々しかった。なにも言えない背兵衛をしばらく眺めていたが、
「満足したか」
とにやりと笑うと奥に戻った。
背兵衛はそれでも得心がいかなかったが、しかしたしかに獣を仕留めたという手ごたえはあったし、それ以来ひと月以上たっても娘を狙った猟奇事件も起こらなかったので、忘れることにした。
娘は背兵衛の証言にもかかわらず、けだものに襲われたということになった。同僚の気持ちをおもんぱかり、背兵衛も強硬に言いつのることはなかった。
だが一年たらずのち、晩春の満月の翌朝、同じ場所で同じように娘が腹を裂かれて死んでいるのが見つかった。今度も以前と同様に野犬か狼の仕業ということでお調べは決着したが、背兵衛はあの化け物が、おのれの生きていることを誇示し、自分を挑発しているのだと受け取り、屈辱に臍を噛んだ。
そのときには勤めがあったので若いときのように自由に嗅ぎまわるわけにはいかなかったが、その後何年もかけて非番の日に地方に足を延ばし調べて回った。するとやはり江戸での二件の事件のあいだに、周りの州では娘が動物に襲われる事件が発生していたが、良く調べるとそれは満月の晩だったことがわかった。背兵衛はそのような事例を何件かつきとめることができた。
そして。
「あれは十年ほどまえか、親父殿がまだ生きておったときのことだ」
そのころ、背兵衛はすでに隠居していたが、しきりに歩兵衛を誘って釣りに出かけた。
「なにしろ――」
とここで歩兵衛は声をひそめた。「わしは倅を事故で失い、ひどく気落ちしておったでな」
色吉は振り返って太助を見た。今ではすっかり寝転がり、いびきまでかいていた。
歩兵衛も勤めの合間を縫ってつきあっていた。ある夕、釣りの帰りに深川を通ったときのことだ。
「親父殿が立ち止まった」
驚いた顔で前方を見ている。視線の先に目をやると、壮年の侍とその供が屋敷の門のなかに入っていくところだった。
「どうされましたか」
と歩兵衛が訊くと、
「あれが、是坊の次男、段之重だ」
と答えた。すぐに、「いや、そんなはずはない」と自問自答のように付け加えた。
是坊段之重の話は若いころから幾度か聞かされていたので、歩兵衛も緊張した。その屋敷に人が出入りするのを見たのはそれが初めてだった。
「そして、そののちも、いまに至るまでわしが見たことはない」
と歩兵衛は言う。「親父殿によれば、それは段之重であった。しかし四十代半ばといったところで年齢的にそんなはずはないから、息子か孫であろう、と。しかしまったく瓜二つで、親子でもあそこまで似ることはない、まるで双子だ、とのことじゃった」
「それが十年前の話となりやすと」
色吉は考え考え言った。「段之重は五十は越えてるはずでやすよね。しかしあっしが見たのはどう見ても……せいぜい三十半ばってとこで。となるといまの段之重は、そのさらに息子ってことなんでしょうか。そいつも畜生に変化しやがる力は受け継いでやがるんでしょうかね」
色吉は自分で言って怖くなってきた。