七
どこに行くという考えはなかった。とにかくあの場から逃げたかったのだ。どうしようもないくらいに、いたたまれない気持ちだった。感情の爆発にまかせて口走った言葉を今さらどうやって取り消せるというのだろう。情けなくて、雅博の顔をまともに見られなかった。
いつもならバスで十五分はかかる道をひたすら歩き、駅にたどり着いた頃には真夜中に近い時間だった。肌寒いくらいの外気だったが、必死に歩いたので身体はじっとり汗ばんでいた。全身に疲労感を感じる。
のろのろと階段を上り、券売機の前に立つ。時刻表を見ると、次の電車が最終だった。
どうしようか……。
切符を買って、終電に乗って、何処にいくというのか。
財布から五千円札を取り出し券売機に入れた。目の前のほとんどのランプが点き、そのうちの一つを迷いながら押した。
どこへ?
でも、他に思いつかなかった……。
実家に辿りつくには電車を二つ乗り継がなければならない。一つ目の乗り継ぎで既に電車はなくなった。仕方ないので駅の外へ出た。未明まで開いている店を探して周辺を歩いたが、結局見つけられず駅前のコンビニに入る。
さっきまで汗ばんでいた身体はとっくに冷たくなり、ひどく寒かった。暖かいコーヒーを買い、手で包み込む。ほっとするような温もりだ。
バックの中で携帯電話が何度もなっているのは気付いていたが、出る気にはなれなかった。雅博が心配してかけているのだろう。そういう人だ。
ふと外を見ると、高校生くらいの若者が数人外で地べたに座り込んでいた。この世の誰もが行き場を失っているような気がした。
コンビニの店員が不審そうな顔をしているのはわかったが、牧子はそのままコンビニに居座り、空が白んでくる頃に駅に戻った。
実家に辿りついたのはまだ早朝だった。ふと今日がまだ金曜日だったことを思い出した。あとで職場に連絡をいれなければならない。
久しぶりの帰郷だ。半年、いやもう少し経っているだろう。鍵は一応持っているのだが、こんな時間に勝手に開けたら母はびっくりするに違いない。そう思い、インターホンを鳴らした。
「……はい?」
だいぶ時間が経ってから寝ぼけたような母の声がした。
「牧子です。ただいま」
「はぁ?」
すっとんきょうな声だった。牧子は吹き出しそうになった。しばらくしてガチャリと施錠を外す音がして、門扉の向こうの戸が開いた。
「どうしたの?」
寝巻き姿でびっくりしている母の姿を見て、牧子は涙が出そうになった。慌てて洟を啜り上げ、不自然なまでに陽気な声を出す。
「帰って来ちゃった」
家に入ると牧子は食卓についた。母が湯を沸かし、コーヒーを入れた。
「朝ご飯は? パンでいい?」
パジャマの上にエプロンをかけ、手早く二人分の朝食を作る。無駄の無い母の仕事をぼんやりと眺めた。
しばらくするとこんがり焼けた食パンと、一つの皿に豪快に盛ったオムレツとブロッコリーが牧子の目の前に現れた。
「で、なんで急に帰って来ちゃったの?」
母は牧子を見つめた。
牧子はぽつりぽつりと昨夜の顛末を説明した。母は黙って聴いていた。
「気が済むまで居てたらいいけどね。……あんまり雅博くんに心配かけなさんなよ」
母はそれだけ言うと食べ終わった自分の食器を片付け始めた。
「あんた、なんでもいいけどお仏壇に挨拶なさいよ」
牧子は気の無い返事をした。隣の部屋には父親の仏壇がある。牧子が大学生の頃に亡くなり、昨年十三回忌を済ませている。
食事を終えテーブルの上を片付けると牧子は仏壇に手を合わせた。優しい表情の父の遺影を見上げる。優しい笑顔なのに怒られているような気がした。
「私もうちょっとしたら出かけるから。あんた、出かけるんだったらちゃんと戸締りしてよ」
母が洗面所から叫んでいる。長年の仕事は昨年退職していた。
「仕事?」
「パートよ、パート。言ってなかったっけ? お年寄りにお弁当の宅配やってるトコの手伝いしてるのよ。一人で家にいても暇だしね。ボケられても困るでしょ?」
母はばたばたと身支度すると慌ただしく出て行った。まったく相変わらずせわしい母だった。
就職を機に牧子が家を出たいと言った時、
「いいんじゃない? 私も身軽になるわ」
と笑っていた。半分強がりもあるのだろうが、残りの半分は本音のようだった。
慣れない一人暮らしに四苦八苦する牧子を尻目に、随分自由を満喫していたようだ。世間の母親とは違い、腹が立つ程個人主義の母なのだ。若い頃には随分ウーマンリブだとかフェミニズムと言った思想に相当影響されたらしい。きっと小生意気な女だったのだろう。もっとも当の本人は、
「私のそういうところにアノ人は惚れたのよ」
と臆面も無く豪語しているのだからどうしようもない。
プチ台風のような母が出勤した後のシーンと静まり返った家の中に、時計の音だけが響く。八時半だった。
牧子は携帯をバックから出す。待ち受け画面には不在着信の表示が出てくるが、その内容を確認せず、会社に電話をかけた。
フレックス勤務をいいことに無駄に早朝から出勤している後輩に「体調不良で休む」とだけ伝えた。
「お大事に」
後輩の言葉はいかにも事務的で、社交辞令的だった。牧子は顔をしかめながら電話を切った。再び待ち受け画面に戻る。メールの表示も出ていた。一瞬迷いながらも、メールを開ける。
四通のメールが届いていた。
『何処にいるんですか。電話にもでないし。ちゃんと話しましょう。連絡ください』
『牧ちゃん、心配しています。連絡してよ』
『大丈夫? 何処にいるの。連絡してください』
『今日から一週間大阪に行かなくちゃいけない。その前にちゃんと話したかったんだけど。一週間いないから、その間に帰ってきてください。僕の顔を見なくても済む。それと、できたらメールでも電話でもいいから連絡して。直接がイヤならマネージャーの携帯でもいいから、連絡して。牧ちゃんの気持ちに全然気付かなかった。怒るのも当然かもしれない。大阪の舞台が終わったらちゃんと話そう』
どんな顔をしながらこのメールを打ったのかが容易に想像できる。雅博にこんな事を書かせる自分の莫迦さと、彼の優しさに耐えられないほど切なくなった。
牧子は携帯を握り締めながら声を上げて泣いた。
<続く>