五
クランクインしてから、雅博は家を空けがちになった。ロケで地方に出かける事が多くなったのだ。最初の頃はメールが日に何度か届いたが、だんだん回数も減っていき、日に一度あるか無いかの状態になった。
寂しくは思ったが、牧子は心配していなかった。
彼の事だ。現場の雰囲気にも馴染み、芝居に没頭しているのだろう。便りのないのは元気な証拠。
牧子の推測通り、ロケを終えて帰ってきた雅博は活き活きした表情で現場での色々な話をしてくれた。牧子は話の内容よりも楽しそうに喋る雅博の顔を見るのが楽しかった。
映画の撮影は一年近くかかった。公開はまだまだ先になるようだった。
「編集作業が大変なんだよね。舞台はその場の一発勝負だから……。不思議な気分だね」
雅博はそう言いながら人懐こい笑みを浮かべた。ああ、こういう笑顔を私は見たかったんだ……。牧子は心の中がほっこりと温まるような気がした。
それからしばらくして、テレビの連続ドラマへのレギュラー出演の話が来た。脇役ではあったけれど、ほとんど毎回テレビに顔が映る。
「ワンクール、ちゃんと続けて出られるって。初めてだよ。……実家にも連絡出来るかな」
扉が少しずつ、しかし確実に開いていく事を、雅博自身がようやく実感してきたようだった。
雅博の元へ来るオファーは日毎に増えていった。雑誌の取材やトーク番組の出演なども入るようになってきた。
テレビや雑誌を目にする度、牧子は誇らしい思いがした。世間が気付く前ずっと前から彼の魅力を知っていたのだ。そして私はその傍らにいるのだ。ちょっとした優越感だった。しかし、それと同時に心の中にはなにか違和感が生まれてきていた。
一緒に過ごす時間はどんどん少なくなってきている。オフの日には今までは家にいることが多かった雅博だが、最近はよく外出するようになった。仕事を通じて仲良くなった同世代の俳優達と飲みに行くことが増えたのだ。お互いの舞台を観に行くことも多い。友人と称する人物が結構名の通った俳優であることも少なくなかった。
それに比べて自分はどうだろう。相変わらず、朝出勤し、終日事務仕事をこなし、くだらない昼休みを過ごし、買い物をして帰宅する、そんなかわり映えのしない一日を繰り返しているだけ。疲れて家に帰っても雅博の「おかえり」という明るい声を聞くこともなくなっていた。
どんどん雅博が遠くへ行ってしまうような、そんな気がした。
「そう。で、置いてけぼりを食って寂しいわけだ」
遊びにきた翔子がテーブルの上に無造作に置いてあった雑誌をパラパラとめくりながら言った。牧子はそれには答えず、コーヒーカップに湯を注いだ。
「昔言ったでしょ?『浪花恋しぐれ』みたいになるで~って。いいじゃん、糟糠≪そうこう≫の妻ってヤツでさ。結構多いよ、この業界の奥さん方って。……まぁ、売れてきた頃に離婚するパターンも少なくないけど」
売れっ子脚本家というのに、相変わらず見た目も中身も飾りっけのない女である。牧子は苦笑いした。
「縁起でもないからやめてよ。第一、私は妻ではありませんから。離婚もないっつうの」
「アホだね~。あんたみたいなのを世間では内縁の妻っていうのよ。ベタベタの演歌の世界だよ。あぁ、やだやだ、泥臭いわね~、まったく」
翔子のずけずけとした物言いは昔からだが、何故か腹が立たない。翔子はコーヒーカップを手に取ると、一口飲んで顔をしかめた。熱すぎたらしい。
「牧、なんで籍入れないのよ。あんた達もうだいぶ長いでしょう? そろそろ籍くらいいれれば? あの子も……って、歳でもないか。雅もいい大人だし、そこそこ稼ぐようになったし、いいんじゃないの? あんた、しっかりしてるから、やっていけるでしょうよ。それとも、子供出来てからとか思ってんの?」
牧子は首を振った。
「そういうんじゃない」
言葉を探しながら、自分のマグカップに湯を注ぐ。
「籍を入れるとか結婚するとか、あんまり意味ないかなって気もするし。それよりも、無理やり縛り付けるような気がして。……自分でもよくわからない」
牧子の脳裏に何年か前の光景が甦った。あの頃と状況は随分変わっていた。確実に立場は逆転している。
置いて行かれないように「結婚」という鎖をつけるのも、確かに一つの手段だろう。そうしたからといって、周りは牧子を責める事はない。当の雅博も恐らく甘んじて鎖に繋がれるだろう。よくも悪くも自然体でこだわることのない男だったし、二人の年齢や歴史を考えても、世間的には正当な手段だ。
だが、そうすることで失うものがあるのではないか。それが何かはわからない。法律というつながりを持つ事で、精神的なつながりが希薄にならないか、雅博の可能性を束縛するのではないか。そんな事を考え出したらきりがなかった。
それに、籍を入れたからと言って今の自分のもやもやした気持ちが吹っ切れる訳ではない事は確かだった。取り残されているという事実は、どうあがいたところで変わらないのだから。
答えは出そうにない。
翔子の隣に座ると牧子はコーヒーをすすった。翔子も黙ったまま雑誌のページをめくる。読んでないのは明らかだった。しばらくしておもむろに口を開く。
「ねぇ、牧、下手の考え休むに似たりっていうんだよ。雅に気を使いすぎてるんじゃない? もっとぶつければいいんだよ、色々と。大丈夫。あの子はあれで包容力あるから。あんたはだいたい、昔からものわかりが良すぎる。それも問題だと思うよ」
翔子の口調はだんだん説教じみてきた。牧子は顔をしかめて翔子の口を手で押さえる真似をした。
「わかったって。もういいよ、その話は」
翔子は肩をすくめた。
翔子との会話はそれから長く心の中に残っていた。いつまでも直らないさかむけのように、いつもわずかな痛みを感じさせる。そんな残り方だった。
それから一年近くの時が流れた。
牧子の生活の方は相変わらずだった。いや、変わった事はある。雅博の姿を見る機会は、家の中よりも、テレビや雑誌の中の方が多くなった。彼の仕事は順調で、今や仕事は絶えることなくやってくる。不規則な仕事なのだと改めて実感する。普通のサラリーマンでは考えられないような生活だった。
そして今夜も雅博はいない。ドラマの打ち上げに出かけている。きっと朝になってから、牧子が出勤した後くらいに、寝不足でぼーっとした顔で帰ってくるのだろう。そのままベッドに倒れこみ、そして芝居の稽古の時間ぎりぎりまで死んだように眠り込むのだろう。自分が帰宅する頃には部屋は無人になっている。テーブルの上にメモでもあれば上等……。
すれ違いの日々。雅博の体温を忘れてしまいそうだ。これじゃ一人暮らしと変わらない。
牧子はシャワーを浴びながら、同居人のことを考えた。涙はでなかったが、無性に寂しく、虚しかった。
消えてしまいそうな自分の肩を抱きしめながら、シャワーの下で立ち尽くしていた。
<続く>