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二話

あの熱狂のお披露目配信から二週間。

「星空めぐる」の新衣装動画は瞬く間にSNSで拡散され、チャンネル登録者数は一気に五万人以上増加した。イラストレーター・長谷川朔(はせがわ さく)としてのSNSアカウントにも、国内外から絶え間なく称賛のメッセージが届いている。

だが、朔のアトリエを満たしているのは、栄光の余韻ではなく、重苦しい沈黙だった。

「……朔、入るぞ。差し入れのピザ買ってきた」

合鍵でドアを開けて入ってきた日向(ひなた)は、部屋の光景を目にして言葉を失った。

部屋の中は真っ暗で、液晶タブレットの光だけが怪しく浮かび上がっている。デスクの周りには丸められたクロッキー用紙が散乱し、朔は髪をぼさぼさにしたまま、画面を死んだような目で見つめていた。

「おいおい……お披露目配信は大成功だったろ? なんでそんな『全世界にフラれた』みたいな顔してんだよ」

日向がピザの箱を空きスペースに置き、散らばった紙を何枚か拾い上げる。そこに描かれていたのは、どれも途中で太い斜線が引かれた「星空めぐる」のラフ画だった。

「……描けないんだ」

朔の声はかすれていた。

「え? 描けないって……何が? 新衣装のファンアート? それとも案件のイラスト?」

「全部だよ」

朔は両手で顔を覆い、深く重い息を吐き出した。

「お披露目配信のあと、絵を描こうとすると手が止まるんだ。どんなに線を引いても、色を乗せても……あの日、お前と一緒に見つけた『あの笑顔』を超えられない。何を描いても、自分の過去の作品の焼き直しに思えて……偽物に見えるんだよ」

一度「魂の宿った絵」を描いてしまったがゆえの、スランプ。

最高傑作を生み出したクリエイターが陥る、完璧主義の呪縛だった。評価が高まれば高まるほど、次に生み出す作品への恐怖が朔の指先を縛り付けていた。

日向は静かに腕を組み、ソファーの背もたれに寄りかかった。

「……なるほどね。『一発屋の恐怖』ってやつか」

「言い方!」

「だってそうだろ? 一回ゾーンに入って神絵が描けたからって、自分を神様か何かと勘違いしてんじゃないの?」

日向の容赦ない言葉に、朔は痛そうに顔を歪めた。

「勘違いなんてしてない! ただ……リスナーやクライアントを失望させたくないんだよ! 『あの新衣装がピークだったね』なんて言われたくないだろ!?」

「じゃあ訊くけどさ」

日向は歩み寄り、朔のデスクの端に腰掛けた。

「お前、配信でリスナーに言ったよな。『この身体には大切な物語が詰まってる』って。……物語ってさ、あの卒業式のシーン一回で終わりなのか?」

「え……?」

「『星空めぐる』の人生は、あの雨上がりの教室でストップしてんの? 卒業したあと、あの子はどこに行って、どんな空を見て、どんな失敗をして笑ってんだよ」

日向の言葉が、朔の胸の奥に冷たい水を投げかける。

「お前が描けないのはさ、プレッシャーのせいじゃない。『今のめぐる』がどこで何をしてるのか、お前自身が追うのをやめて、過去の『あの瞬間』に縛り付けてるからだろ」

「……あの子の、続き……」

朔は呆然と画面の少女を見つめた。

あの日、解けた靴紐を結び直し、泣きそうなのを耐えて「またね」と笑った少女。

彼女はあのあと、門を出て、どこへ歩いて行ったのだろうか。

「……日向」

「ん?」

「マイク、入れろ」

「は? また配信の練習か?」

「練習じゃない。『続き』を探すんだよ」

朔はキーボードを引き寄せ、画面のキャンバスを白紙に戻した。

「設定は……そうだな。卒業式から数ヶ月後。一人暮らしを始めた小さなアパート。……外は、また雨だ」

日向はふっと口元を緩めると、胸の前で腕を組み、声のトーンを少し低く落とした。

「……『雨、止まないな。……東京の雨って、地元より冷たい気がする』」

朔の指が、キーボードの上を滑り始める。

「『ダンボール、まだ片付いてないや。……あはは、めぐるちゃん、引っ越し三日目にしてホームシックです!』」

「『強がらなくていいのに』」と日向がボソッと言う。「『誰も見てないんだから、部屋の中くらい、泣けばいいじゃん』」

「……っ」

朔は息をのんだ。キーボードを叩く手が止まり、スタイラスペンへと手が伸びる。

「『泣かないよ。だって……自分で決めて出てきたんだもん。……でもね、時々怖くなるの。私の声、ちゃんとみんなに届いてるのかなって。私、ちゃんと前に進めてるのかなって』」

画面の上に、新しい線が生まれていく。

今度の「めぐる」は、華やかな衣装を着ていない。大きめのスウェットの袖を伸ばし、膝を抱えて窓の外を見つめている。

髪は少し乱れ、メイクもしていない。そこにあるのは、完璧なアイドルとしての「星空めぐる」ではなく、夢を追って傷つき、迷いながらも生きている一人の少女の姿だった。

「……『届いてるよ』」

日向が、静かに言った。

「『画面の向こうで、みんなお前と同じように、雨の音を聞きながらお前の声を待ってるんだよ』」

朔のペン先が、少女の瞳に光を灯す。

それは、お披露目配信のときの「悲劇のヒロインの瞳」ではない。

不安と孤独に押し潰されそうになりながらも、泥臭く泥を跳ね返して立ち上がろうとする、人間の「強い光」だった。

「……できた」

画面の中に現れたのは、これまでのどんな美しいイラストよりも生々しく、愛おしい「星空めぐる」の日常の一コマだった。

日向は画面を覗き込み、満足そうに頷いた。

「ほらな。神絵師様の完璧な作品より、こっちのほうがずっと『お前』らしいよ」

「……ありがとな、日向。俺、また自分のことしか見えなくなってた」

「いいってことよ。……で、その絵、どうすんの?」

「今から、配信で描く」

朔は目を見開いた。

「え!? 突発配信!?」

「おう。『めぐるの休日作業配信』だ。リスナーと一緒に雑談しながら、この絵を完成させる。完璧な自分を見せるんじゃなくて、迷いながら描いてる姿も、全部見せるんだ」

朔は配信ソフトを立ち上げ、ツイッター(X)に一文を投稿した。

『急だけど、少しだけお話ししながら絵を描いてもいいですか? 雨の日の、静かな配信です。』

通知を出して三分後。

配信を開始すると、深夜にもかかわらず、あっという間に一万人以上のリスナーが集まってきた。

画面に映し出されたのは、膝を抱えて雨を見る「めぐる」のラフ画。

そして、朔はマイクに向かって、飾らない素の声で語りかけた。

「みんな、こんばんは。……実はね、ここ最近、絵が描けなくなっちゃってて。みんなにすごいものを見せなきゃって、勝手にプレッシャーを感じて、怖くなってたんだ」

チャット欄が温かい言葉で埋まっていく。

『めぐるちゃん、無理しないで!』

『話してくれてありがとう』

『どんな絵でも、めぐるちゃんが描くものが大好きだよ』

「でもね、大切な友達に教えてもらったの。めぐるの物語は、まだ始まったばかりなんだって。……だから今日は、少し格好悪いかもしれないけど、今の私の気持ちをそのまま絵にさせてね」

画面の中で、ペンが動き出す。

リスナーとリアルタイムで言葉を交わし、雨の音をBGMにしながら、絵に色が塗られていく。

そこには「神絵師」の完璧な計算も、「バズり」の狙いもなかった。ただ、今この場所で、画面の向こうの誰かと繋がっていたいという、切実な祈りだけが存在していた。

配信が終わる頃、画面の中の少女は、窓ガラスに映る自分の顔を見て、ほんの少しだけ照れくさそうに笑っていた。

『すごく素敵な絵……涙が出てきた』

『完璧じゃなくていいんだって、救われた気がする』

『めぐるちゃん、一緒に歩んでいこうね』

チャット欄に溢れる言葉を見つめながら、朔は深く、温かい息を吐いた。

スランプの出口は、「完璧な作品」を描くことではなかった。

不完全な自分を受け入れ、誰かと一緒に物語の「続き」を紡ぎ続けることだったのだ。

「……ピザ、冷めちゃったな」

朔が苦笑いすると、ソファーでウトウトしていた日向が目を覚ました。

「温め直せば食えるだろ。それより……次はどんな物語を描くんだ?」

「そうだな……」

朔は窓の外を見上げた。いつの間にか雨は上がり、雲の隙間から小さな星が顔を覗かせていた。

「次は、晴れた日の話を描こう。あの子が、新しい靴を履いて走り出す話を」

描くことと、書くこと。

立ち止まり、悩み、それでも描くことをやめない限り、物語はどこまでも続いていく。

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