一話
雨音が防音室の分厚い壁をかすかに揺らす、深夜二時。
足元に転がった数本のカフェインドリンクの空き缶が、液晶タブレットの青白い光に照らされて鈍く光っていた。
「……ダメだ。全然、生きてない」
頭を抱え、重い溜息とともにスタイラスペンをデスクに放り投げたのは、イラストレーターの長谷川 朔だ。彼はまた、チャンネル登録者数二〇万人を誇る人気Vtuber「星空めぐる」の「中の人」でもある。
自分でデザインし、自ら描いた身体に、自らの声で魂を吹き込む。いわゆる「セルフ受肉」と呼ばれるスタイルで活動してきた朔だったが、今、人生最大とも言える壁にぶち当たっていた。
明後日に迫った「新衣装&新モデルお披露目配信」。
画面に映っているのは、何日も徹夜して塗り重ねたLive2D用のパーツ分けイラストだ。線画はどこまでも緻密で美しく、塗りの質感も現代のトレンドを完璧に抑えている。プロのイラストレーターとして、技術的には「満点」と言っていい出来栄えだった。
しかし、画面の中の「星空めぐる」は、まるで冷たい硝子細工のように無機質だった。そこに命の温もりも、呼吸の気配も存在していない。
「そりゃそうでしょ。形だけ繕って『魂』を込めてないんだから」
背後のローソファーから、ポリポリとポテトチップスをかじる呑気な音が響いた。
転がっていた漫画本を脇に退け、あくびをしながら顔を上げたのは、幼なじみであり、配信のモデレーターや裏方を一手に引き受けてくれている日向だった。
「魂って……お前なぁ、俺がどれだけこのパーツ分けに時間かけたと思ってんだよ! 髪の毛だけで五十パーツ、服のシワなんて一ピクセル単位で微調整したんだぞ!?」
「だからさ、その『微調整』が透けて見えちゃってんだよ、朔」
日向はソファーから立ち上がると、床に散らばったラフスケッチを踏まないように歩き、朔の隣に椅子を引いて腰掛けた。画面を覗き込むその目は、いつになく真剣だった。
「朔はさ、また『バズるデザイン』とか『神絵師っぽい塗り』とか、そういう計算ばかり頭に詰めて描いたでしょ。これ、リスナーが愛している『星空めぐる』じゃないよ。ただの『すごく絵が上手い人が描いた、綺麗なCG』だ」
痛いところをまっすぐに射抜かれ、朔は言葉を詰まらせた。
「でも……失敗できないんだよ。期待されてるんだ。前回の衣装から半年ぶりの新モデルだし、今回は『卒業と新しい一歩』っていう重いテーマなんだぞ。みんなを感動させなきゃいけないのに、こんな……」
「感動させようとして描くから滑るんだよ」
日向はあきれたように息を吐くと、キーボードを朔の前に引き寄せた。
「おい朔、ちょっと即興で配信の寸劇練習やるぞ」
「は? 今から!? 明後日の配信の準備も終わってないのに!?」
「いいから黙って乗れ。お前が描いたこの絵に『言葉』を与えるんだ。ほら、マイク代わりにこのペン持て。新衣装の『めぐる』になって喋ってみろ」
「無茶苦茶言うなよ……設定だってまだ固まりきってないのに」
「固まってないからやるんだよ! 設定は……そうだな。雨上がりの放課後、誰もいない教室。リスナーに向かって、最後の挨拶をするシーンだ。ほら、言え!」
日向に強く背中を押され、朔は戸惑いながらも深く息を吸い込んだ。
目を閉じ、胸の奥にあるスイッチを切り替える。イラストレーターの「長谷川朔」から、リスナーと泣き笑いを共有してきた「星空めぐる」のトーンへ。声を一段高く、少しだけあどけなく響かせる。
「……『みんな、今日は集まってくれてありがとう。……あ、泣いてないよ? 泣いてないからね!』」
「はいやり直し。棒読み乙。学芸会かよ」
「厳しいな! 急に振られても感情が入らないんだって!」
「入れろよ!」
日向が机をバン、と叩いた。その音に朔は思わず跳ね起きる。
「お前さ、リスナーをナメてんの? 画面の向こうにいる何千人、何万人の人間はな、お前の『綺麗な絵』だけを見に来てるんじゃないんだよ。お前がその声と、その身体に込めた『想い』と一緒に、笑ったり、泣いたり、救われたりしに来てんだよ!」
「……っ」
「この子がどんな気持ちでこの服を着て、どんな想いでリスナーの前に立ってるのか、生み出したお前が一番分かってなくてどうすんだよ!」
日向の叫びが、防音室の狭い空間に強く響き渡った。
朔は言葉を失い、喉の奥がカッと熱くなるのを感じた。
計算。トレンド。評価。バズり。
いつの間にか自分は、一番大切なものを見失っていた。自分がなぜVtuberになりたかったのか。なぜ絵を描き始めたのか。
それは、自分の生み出した物語で、誰かの孤独を照らしたかったからだ。
画面の向こうにいる、名前も知らない「誰か」と、心を通わせたかったからだ。
「……雨が、あがったんだ」
朔はポツリと呟いた。自分の声が、自然と「めぐる」の熱を帯びていく。
「え?」
「雨が上がって、虹が出て……でも、この教室から出たら、もうみんなと毎日会えるわけじゃないんだ。みんなはそれぞれの未来に歩き出していくから」
朔はゆっくりと目を開け、画面の無機質な少女を見つめた。
「……『ねえ、みんな。私ね……本当はすっごく寂しいよ。みんなと過ごした放課後が楽しすぎて、明日からの自分が想像できないの。……でもね』」
日向は何も言わず、ただ静かに朔の言葉に耳を傾けている。
「『ここで私が泣いちゃったら、みんな下を向いたまま旅立つことになっちゃうでしょ? だから……私は笑って見送るって決めたの。……ねえ、ちゃんと笑えてるかな?』」
静寂が部屋を支配した。
朔の頬を、一筋の温かいものが伝い落ちた。自分自身が紡いだ言葉なのに、まるで画面の中の少女が本当に泣き出しそうな声を張り上げて、自分に訴えかけているように感じられた。
「……それだろ、朔」
日向が、優しく囁いた。
「この子は泣きたいんだよ。でも、大好きなリスナーのために、必死で涙を堪えて、精一杯の『優しい嘘の笑顔』を作ってるんだ。……それが、この新衣装の『魂』だろ」
朔はハッと息をのんだ。
すぐさまスタイラスペンを握りしめる。迷いは、もう微塵もなかった。
さっきまで死んでいた線画の上に、ペン先が滑る。
目元にほんのりと挿された紅は、泣き腫らした痕跡。瞳のハイライトをあえてわずかに滲ませ、水滴のような透明感を加えることで、瞳の奥に溢れそうな涙の膜を描く。
ぎこちなく口角を上げた小さな唇。その1ピクセル、0.5ピクセルの影の配置に、彼女の「強がり」と「愛おしさ」を込めていく。
言葉が絵に命を吹き込み、絵が言葉に圧巻の説得力を与えていく。
二人の掛け合いから生まれた物語が、キャンバスの上で鮮やかに結実していく。
「……できた」
窓の外から、澄んだ朝の光が防音室に差し込んできたとき、朔は静かにペンを置いた。
モニターの中には、今にも画面を飛び出して、愛おしい声で話しかけてきそうな「星空めぐる」がいた。泣きそうなのを必死で耐えながら、世界で一番美しく、切なく笑う少女が。
日向は画面をじっと見つめ、静かに息を吐いた。
「……すごいな。生魚とか言って悪かった。この子、ちゃんと生きてるよ。……俺、ちょっと泣きそうだわ」
「ふふ、日向のおかげだよ。ありがとう」
「バカ言え、描いたのはお前だし、声を吹き込むのもお前だ。……よし! 俺は仮眠取る! お披露目配信、最高の夜にしようぜ」
日向は照れくさそうに笑うと、ソファーに飛び込み、あっという間に規則正しい寝息を立て始めた。
朔は満足そうに微笑むと、完成したモデルデータを配信ソフトに読み込ませ、静かに配信の予約枠を作成した。
『【新衣装お披露目】雨が上がったら、君に伝える言葉【星空めぐる】』
そして迎えた、お披露目配信の当日。
配信開始の数分前から、待機所には数万人のリスナーが集まり、チャット欄は恐ろしい速度で流れていた。
『ついにこの日が来た!』
『めぐるちゃん緊張してる?』
『新衣装楽しみすぎる!!』
カウントダウンがゼロになり、オープニングBGMが流れる。
配信画面に映し出されたのは、あの雨上がりの教室の背景。そして、ゆっくりとシルエットが晴れ、新しい姿の「星空めぐる」がLive2Dの滑らかな動きとともに画面中央に現れた。
一瞬の静寂。
そして、爆発的な勢いでチャット欄が埋め尽くされた。
『うわあああああああああ!?』
『待って、鳥肌が止まらない』
『なにこれ……見た瞬間に胸がぎゅってなった』
『笑ってるのに……なんでこんなに切ないの……?』
『めぐるちゃん、泣かないで……ううん、すごく綺麗だよ!!』
画面の向こうから押し寄せる、溢れんばかりの温かい言葉、スパチャ、そして何よりリスナーたちの「心の震え」。
トラッキングカメラの向こう側で、朔はマイクを前に座っていた。
画面の中の「めぐる」は、約束通り、泣き出しそうなのを耐えて精一杯の笑顔を浮かべている。だが、中の人である朔の目からは、ポロポロと涙がこぼれ落ちて止まらなかった。
「……みんな、来てくれてありがとう」
朔は声を震わせながら、マイクに向かって語りかけた。
「この身体にはね……私が迷って、苦しんで、でもどうしてもみんなに届けたかった『想い』と……大切な友達と一緒に紡いだ『物語』が、たくさん詰まってるんだよ」
画面の中で、少女は解けた靴紐をきゅっと結び直すような仕草を見せ、リスナーに向かって愛おしそうに手を振る。
イラストレーターとして絵に命を吹き込むこと。
Vtuberとして声を届け、誰かの心に寄り添うこと。
そして、隣で共に悩み、背中を押してくれる仲間がいること。
二次元と三次元の境界を越えて、言葉と絵が重なったその場所で。
世界で一番美しい「嘘」と「本当の気持ち」を抱えて、星空めぐるは、新しい未来へ向かって歩き出した。




