結界
樋口は朝の4:00をまわった頃、相馬家の玄関口に立って八画の板の真ん中に方位磁石を乗せて針の動きを見ている。
八画の板、それは八卦を見る為の板である。
樋口は正装しておりその立ち姿は 何をも寄せ付けない雰囲気を漂わせている。
八卦板を左手で水平に持ちながら右手の人差し指と中指の間に札を挟んで立てて軽く握ると右手を目の前で垂直に立て、歌の様な呪文を唱えてから、指で挟んだ札を玄関口に押し当つけてから更に違う呪文を唱えると札が玄関口に溶け込む様にゆっくりと消えて行く。
当てていた指をどけその場で北、東、南、西へ九字を飛ばすと玄関より家の中へ戻っていった。その行為を家の壁や庭の塀に順番に行い、一連の作業が終了したのは8:00を回った頃だった。
「ふー」と息を吐き 烏帽子と八卦板を左手に持って自分の為に用意された客間へ移動し左手に持った物を丁寧に置くと正装を着替えて昨日着て来た和装でリビングへ向かう。
リビングへ入ると聡、優子が声を掛けた。
「おはようございます」
「おはようございます、お疲れ様でした」
樋口も良く通る声で
「おはようございます」と挨拶をし、ソファに座る。
背後のキッチンから若林が
「おはようございます、今日の朝ご飯は和食でよろしいでしょうか?其れとも洋食に致しますか」と声を掛けると
「樋口さん、どちらが御好みですか」
聡が問うと「ありがとうございます。御手間で無ければ和食を御願いします」と答えた。
「良いですか、若林さん」聡が言うと
「はい、用意は出来ております」と答えたので、聡、優子、樋口は目を丸くしてキッチンを振り返ると 若林がテーブルに椀に入った味噌汁を置くところだった。
「良く分かりましたね、まるで超能力みたいだ」聡が言うと若林はにっこり笑って
「どうぞ用意出来ております。冷めない内にどうぞ」と3人を促す。
テーブルにつきながら優子は
「ねえねえ、若林さん何でわかったの」と聞くと若林は笑いながら
「質問の仕方で誘導しただけですわ」と言い、「樋口様は遠慮を御存じの方でしたので先に説明のすぐ後に和食と聞き 付け足す様に洋食と聞きました」コーヒーを用意しながら笑顔で答える。
「相馬さん、良く若林さんの様な方を見つけましたね、一流ホテルのホテルマン並の接客応対だ。頭が切れますよね」樋口が言うと
「若林さんの前職はまさにそれですよ」
聡が言うと
「えー、そうなんですか」樋口が驚く。
「若林さんがうちに来て呉れる様になって何年になるのかな〜」優子が言うと
「もうすぐ5年になりますね」若林が答えた
「そうだね、お父さんが家事に疲れた〜って言ってたのを覚えてるよ」
クスクス笑いながら優子が言い、
「其れから近所の方や知合いに聞いて6か7人目の面接で若林さんに決めたんだっけ」
「そうだね、何人目だったかは覚えていないけど面談して この人、凄く頭の良い人だって思ったよ、同じ印象を優子も持ったんだよね、で、誰にするって2人で別々に紙に書いた名前を見せ合ったら若林さんだった。あの時は大笑いしたね、でも履歴書にはホテルのフロントマネージャーとは書いて無くってホール係りってあってさ、優子の誕生日にたまたま予約したレストランが若林さんが前に居たホテルだった。その時初めて若林さんがフロントマネージャーだったってっわかったんだよね、あの時は驚いた」聡が笑いながら言った。
「すいません、隠す積もり無かったんですけど」若林が謝ると
「良いんですよ、全然、気にしてませんよ。でもあの時は本当にびっくりした。外資のホテルのフロントマネージャー何て普通は年行った人が漸く出来る重要なポストだからね」
聡は言い、大笑いした。
樋口も顔は笑っていたが、
(なるほど、そう言うカラクリか)と心の中で思いながら「相馬さん達は仕事は?」と聞くと
「私は、今日は講義がありませんので休みを貰っています」聡は言った。
「私も有給取っちゃったよ」優子が言うながら「味噌汁、美味しいねー」と呟いた。
「じゃ、朝はこの建物に結界を曳いたのでこの建物自体は全く術者からは見えなくなっています。後は、個々の結界を細かく分けて行って行きますので、それと真宮寺からメールがありまして影の痕跡が部分部分で見え隠れしているとの事です。今は、その影とは別の妖狐が一匹、別の人間を調べている様です」
樋口が言う。聡が、「その人の所に行かなくて良いんですか」と聞くと
「その人は、寺に逃げ込んでいる様です」と言い「任せておきましょう」と言い、
「御馳走様でした」と食事を終えると「一寸、部屋に行ってます。すぐに戻って来ますので、又、美味しいコーヒーを御願いして良いですか」と若林に言う。
「はい、皆さんの分、用意しておりますよ」とにっこり笑いながら言い、「私、今日、午前中だけ私用がありますので失礼させて頂きますね」と聡に言う。
「あ、そうか今日は、病院の日でしたね。ゆっくりして来てください」と言った。
「買い物あるなら書いておいて下さい。私、行ってきますから」優子が言う。
「昨日、買い物はすべて済ませてありますので、では、コーヒーを用意させて頂きましたら用意して出ますので、よろしく御願いします」若林が言い、リビングのテーブルにコーヒーを3つ用意して自室に行った。
「若林さんの子供さん、気の毒だよね。治る見込み、無いのかな」優子が小声で聡に聞くと
「うん、難しい問題だね。明るく振舞っているから尚更に・・・ねぇ」聡が言った。
若林は、自転車に乗り相馬家から出る。行先は、大きな池を挟んだ向こう側にある大きな病院であった。
池をぐるりと半周し、信号を渡ると歩道を右に曲がると左手に病院が見えて来る。
若林は「ふぅ~」とため息をつきながら病院の駐輪場に自転車を止めて玄関へと向かって行く。
人がごった返しているロビーを抜け、小児科病棟に向かう。
エレベーターで5階に上がり息子のいる病室へ向かう。
病室は個室部屋になっていて奥の窓際に向かうとカーテンを開け、
「おはよう、毅」と声を掛ける。
だが、返事は、無かった。
いつもの事だった。
若林は、ベットの横の椅子に座り、寝ている息子の頭を優しく撫でると
「ちょっと待っててね、体を拭いてあげるから、さっぱりするわよ」と一人で言う。
ベットの上の息子は、目を瞑り鼻と口は、透明のホースのついた半透明のカップで覆われている。
左手にはいくつかの注射針の付いたホースが刺さり、血液や栄養剤などを体の中へ送り込んでいる。
そう、息子は目覚める事の無い病気に侵され生まれて8年間この病室から出た事が無かったのだった。
(あの時、夢の中で天使と約束したのに、やっぱり夢だったのね。其れに天使じゃ無かった、あれは魔物だったのね)若林は呟きながら洗面器に湯を注ぎ、タオルを絞って息子の体を拭いてやる用意をして病室に戻ると寝間着のボタンを外し 優しく身体を拭いて行く。
全身を拭き終わるとバッグから表紙の擦り切れた本を出した。
息子が生まれた時に今はもう他界した夫が買って夫が息子の横で読んで聞かせていた本だった。夫は不慮の事故に寄り6年前に死んだ。生前、ずっと息子に読もうと夫と約束したが、いつも2〜3頁も読むと本の文字が涙で見えなくなって読めなくなってしまっていた。
だが、今日は違った。
取り出した本の裏表紙に挟んである封筒を取り出し、其れを持って病室を後にするとエレベーターを使い、一階に降り そのまま病院の裏に回る。
病院の裏は いづれ此処にも病院の建屋が出来る事を容易に想像が出来る程の広いグラウンドになっていた。
若林はしゃがみ込むと封筒の中身ごと持って来たライターで火を点ける。
紙の焼ける匂いと共に髪の毛の焼ける匂いが辺りを漂うが風が匂いと灰を何処かへ運んで行った。
(これで良いんだわ、あの夢に出て来て私にこの毛をあの家に置かせたのは、天使でも何でも無かった。あの黒い影の魔物だったんだわ。相馬さんには本当に優しくして貰っている。これ以上、私のわがままで苦しめる事等出来るもんですか)と呟き、(毅、ごめんね。母さん、馬鹿だったわ。許してね)と呟くとその場で泣き崩れた。
「貴女は決して悪くない」樋口の良く通る声が響く。
相馬家のリビングである。
聡と優子の座るソファの前で若林が正座して謝っている。
「そうとも若林さんは悪く無い。悪いのは貴女をそそのかした黒い影を操っている者だ」
聡が言うと優子が
「そうですよ。だから立ってソファに座って今後の事を話合いましょ」と言った。
樋口は「若林さん、ありがとう。どうやってあの影が入って来たかを相馬さん達に御教え様か、悩んでいたんですよ」と言うと
「え、御存じだったんですか」若林が聞く
「昨日、庭で狐の毛を見つけて拾い集めて処分しました。若林さんと同じ方法でね。火で焼き尽くすのは、不動明王の力を借りる行為に成りますよ」樋口が言うと
「術の名前って有るんですか」と聡が聞く
「ええ、不動明王火炎呪と言います」
樋口は笑いながら答えた。




