第五話
出会って数年。彼の、こんなにも悲しそうな顔を見るのは、初めてだった。
真剣な秀樹の眼差しに耐えきれず、菜々は目を伏せる。
そんな彼女を許さない、とでもいうように、秀樹は菜々の頬に手をやり、無理矢理目線を合わせた。
「目、反らすなよ。そんなにやましい事、隠してるわけ?」
「ち、違うよ! 私、そんな事……」
「じゃ、何で話してくれないの? 昨日からずっと上の空だし。何考えてんの、菜々?」
秀樹が心の底から心配しているのは、菜々にも伝わった。
しかし、本当に話していいのだろうか? 本当に、迷惑にならないだろうか……?
菜々の心は、揺れていた。
そんな戸惑いを感じ取ったのだろうか。不意に秀樹が、ふっと微笑む。
「俺の事気にしてんなら、大丈夫だから。俺、お前がそんな顔してんの、見たくない」
「秀樹、くん……」
「だから、話して? 辛いなら、我慢すんなよ」
その言葉が、菜々の心を溶かす。
菜々の頬に一筋の雫が流れおちると同時に、堰を切ったように、言葉が溢れだした――。
全てを話し終えると同時に、菜々は、心が軽くなるのを感じた。
秀樹は黙って聞いていたが、菜々が言い終えると同時に、そっと身体を引き寄せる。
「菜々。こっち、向いて」
「え?」
秀樹の言葉に少し驚きながら、菜々は、涙で濡れた顔を向ける。
その瞬間、額に軽い痛みを感じる。どうやら、デコピンをくらったようだ。
「いたっ……な、何するの――」
「何でそんな大事な事、今まで黙ってたの? 俺、そんな信用ない?」
秀樹の頬は、小さく膨れている。少し、機嫌が悪いようだ。
「ご、ごめん。秀樹君、陸上部の主将もやってるし、色々大変なのに、私なんかのせいで心配事増やしたくなくて」
「ばーか。好きな女の子が悩んでるのに、心配しない男がいるわけないだろ? もし、これからもこういう事があったら、絶対相談してくれよな?」
そう言うと、秀樹は小さく微笑む。
しかし、その笑みはすぐに真面目なものへと変わった。
「……で、話を戻すけど。菜々、それ立派な犯罪だよな? 脅迫罪だっけ? 俺、警察に言った方が良いと思う」
「警察? だ、だって、たかがこんな事で――」
「じゃあお前は、“たかがこんな事”にそんなに悩まされてたのか? 脅迫状は? ちゃんと証拠もあるなら、警察だって動いてくれるだろ」
「でも――」
「帰った後、一緒に行こう? 被害者はこっちなんだし、そんなに邪険に扱われる事もないだろ」
秀樹は、人を安心させる笑みを浮かべる。
少し躊躇いがちに、菜々は頷いた。
「ただいま」
菜々は小さく呟きながら、家の扉を開ける。
その声に、返ってくる言葉はない。
両親が共働きで、尚且つ放任主義で帰りも遅い為、菜々は実質一人暮らしも同然だった。
警察署からの帰りの為、いつもより帰宅時間は遅めだ。
秀樹の言うとおり、被害者にあたる菜々は決して邪険には扱われなかった。
鞄の奥底に入りっぱなしになっていた脅迫状を見せると、身辺警護の強化を約束してくれた程だ。
“また何かあったら、すぐに来て下さい”
最後に優しく伝えられた言葉が、未だ菜々の耳に残っていて、離れない。
「やっぱり、行ってよかったな。秀樹君に、明日ちゃんとお礼言わないと……」
心配してくれる秀樹や琴音達のおかげで、菜々は昨日の事にも、大分立ち直れつつあった。
と、そんな時。再び、携帯がコール音を鳴らす。
菜々はディスプレイを覗き、発信者の名前を確認する。
発信は――非通知。
「……もしもし、菜々です」
「――」
昨日と同様、相手は何も言わない。
同じ相手……ストーカー犯だ、と菜々は確信する。
先程までとは違う、落ち着いた、冷静な口調で菜々は言う。
「もしもし。……よく、聞いて。私は、あなたなんかに屈しない! あなたがどんな姑息な手を使っても、絶対秀樹君とは別れないから!」
ブチンッ! 今度は、菜々が乱暴に電源ボタンを押してやる。
久々にすかっとした気分になった。
「私は、こんな奴に負けない……。絶対、負けないんだからっ!」
同じ事を口にすると、段々と勇気が満ち溢れてくるのを感じる。
菜々は、名も知らぬ相手に、絶対に屈しない事を誓った。
だが彼女は知らない。その誓いは、数日後には跡形もなく崩れ落ちてしまう事を。
彼女を苛む悪夢は、まだ続く――。
※第三話の文章内におかしな部分があったので、一部改訂させて頂きました。
物語の内容には全く差し支えないので、読みなおされなくても大丈夫です!
今後とも、沢内探偵事件録を宜しくお願いいたしますm(__)m