第三話
菜々に初めての彼氏が出来たのは、二週間ほど前の事だった。
相手の名は松浦秀樹。陸上部の主将で、男女問わず人気者だ。
菜々の一目惚れから始まって、早数年。
秀樹からの告白で、菜々の片想いは終わりを告げた。
内気な彼女にしては、中々上出来といえるだろう。
二人は、幸せいっぱいの生活を送るはずだった。
そう。あの出来事さえなければ。
悪夢の始まりは、二人が付き合い始めた翌日の朝。
菜々が、学校に登校して来た時の事だった――。
「菜々、おはよ!」
「あ、ことちゃん! おはよ」
学校の校門前。菜々は、親友の塚本琴音に声を掛けられた。
琴音はいつもより明るい笑顔を浮かべながら、菜々を見やっている。
それも無理はない。
菜々の恋を誰よりも応援してくれたのは、他でもない、彼女だったのだから。
「菜々、昨日は本当おめでと! お幸せにね!!」
「あ、ありがと……」
そう言いながら、菜々は小さく俯く。恥ずかしいのか、顔は真っ赤に染まっていた。
「そういえば、朝は一緒じゃないの? 昨日は、あんなにラブラブに帰ってたくせに!」
「も、もう、そんなんじゃないよ!! ほら、秀樹君って陸上部じゃない。朝練早いから、朝は一緒に行けない、って」
「成程、ね。菜々ったら、めっちゃ愛されてるじゃん! うらやましいね~」
「ち、ちが……そんなんじゃないって!」
「あはは。ゴメンゴメン」
そんな他愛ない話をしながら、二人は玄関へと入っていく――。
それは、どこにでも売っているような、普通の茶封筒だった。
ラブレターにしては随分色気のないそれを見た時、菜々は思わず眉を顰めてしまう。
そんな菜々の様子に気付いたのだろう。琴音が、いつもより少し不安げな声で、問いかける。
「どしたの? 菜々、その封筒……」
「分かんない。何か、下駄箱に入ってたの」
「ふーん」
琴音にも、それがラブレターには見えなかったらしい。
思わず二人して、封筒をまじまじと凝視してしまう……。
「――何、入ってるんだろ?」
「そんなに厚みがある訳でもないしね」
菜々は訝しげに封筒を開ける。中には――一枚の、紙が入っていた。
封筒と同様、色気の欠片もない真っ白な紙。
三つ折りにされているのか、傍目では、何が書いているのかはうかがえなかった。
カサ――。菜々は、恐る恐る手紙を開ける。
何か、嫌な予感がした。
「えっ!? な、何よ、これ……」
「嘘、でしょ……?」
菜々は、怯えた顔で親友を見やる。
紙面に刻まれているのは、ワープロで打たれた赤い文字。
そこには、“松浦秀樹と別れろ”と、書かれていた――。
気が付くと、菜々は泣いていた。
余程辛かったのだろう。肩が小刻みに震えている。
「それを見た瞬間、私、もう頭の中が真っ白になっちゃって……。彼が人気者で、こういう事はありえる、っていうのは分かっていたんですけど――」
「……脅迫状、ですか。それだけでも、充分犯罪ですね」
それを聞きながら、啓輔は内心身震いしていた。
女というのは、些細な嫉妬心でも、ここまで残酷になれるものなのだ――と。
その内優も、こんな恐ろしい事をしでかさないだろうか、という考えが頭を過る。
いや、あのお気楽少女に限って、そんな事……。
「さ、沢内探偵? どうされたんですか? 顔、真っ青ですけど……」
「――いえ、すみません」
啓輔は一つ咳払いをし、馬鹿な考えを頭から追い払う。
依頼人を信じる筈の探偵が、自分の娘を信じられなくてどうするのだ――。
「被害は、他にも?」
「は、はい。……こんなの、まだ、序の口だったんです」
そう言うと菜々の表情が再び暗くなる。
一度は止まったかと思われた涙が、再び戻ってきたようだ。
瞳の淵には、雫が溜まっている。
「……本当の悪夢が始まったのは、その晩からの事でした――」
その晩、菜々は落ち込んでいた。
どこか様子のおかしい菜々を、秀樹も色々と気にかけてくれたのだが、まさか当時者に相談するわけにもいかない。
訝しげな彼の言葉にも、曖昧に微笑むしかなかった。
「あたし……どうしよう」
菜々は、自室のベッドに飛び乗り、盛大に溜息をつく。
自分は、れっきとした彼女なのだ。
脅迫なんかに怯まないで、堂々としていればいい。
分かってはいるのだ。……ただ、そう振舞うのは、内気な菜々には中々難しい。
もしかしたら、自分は彼に相応しくないんじゃないか――とまで、思ってしまう。
菜々は思考の悪循環に陥っていた。
と、そんな時。
部屋中に、聞き慣れたケータイのコール音が鳴り響く。
菜々は慣れた手つきで、通話ボタンを押した。
「もしもし、菜々ですけど」
「――」
「え? すみません。もう一度お願いします」
相手の言う事が、いまいち聞き取れない。
電波の状況が悪いのかと思い、一度アンテナを確認するが、きちんと三本立っている。
「もしもし。どちら様ですか?」
「――」
それでも電話は、うんともすんとも言わない。
きちんと通話時間が表示される事から、壊れている訳ではないらしい。
「……もしもし? 貴方、一体――」
ブチンッ! 突如、乱暴に電波が途切れた。
どうやら相手が切ったらしい。全く、一体何の用だというのだ……。
「もう、一体誰が……っ!」
かけなおそうと、着歴を見た時、菜々は、背筋が凍るのを感じた。
非通知。受信歴には、そう刻まれている。
菜々はようやく、それが無言電話だったのだと気付いた――。