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婚約破棄された雑用係の私、公爵様の甘々な求愛に無自覚なまま愛されすぎている件  作者: おーちゃん


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32話

第32話 静かな嫉妬、静かな侵入者


 レティシアは、朝の薄い光の中で、静かに息を吐いた。

 昨日の出来事が胸の奥に沈殿し、まだ形を成さないまま重く漂っている。


(ギルバート様が滞在するなんて)


 伯爵家の嫡男であり、かつての婚約者。

 彼の姿を再び目にする日が来るとは思わなかった。

 ましてや、公爵邸で。


 レティシアは、鏡に映る自分を見つめた。

 短く切った髪は、もう令嬢の象徴ではない。

 雑用係としての自分を映す、ただの“形”だ。


(私はもう戻らない)


 そう決めたはずなのに、胸の奥がざわつくのはなぜだろう。


 その時、扉が控えめに叩かれた。


「レティ。入るぞ」


 低く落ち着いた声。

 ヴィクトールだ。


「おはようございます、閣下」


 レティシアが振り返ると、彼はいつものように無表情で立っていた。

 だが、その瞳の奥には、昨日から続く微かな焦りが潜んでいる。


「昨夜は眠れたか」


「はい。おかげさまで」


「本当にか?」


「本当です」


 ヴィクトールは、わずかに視線を逸らした。


「ギルバートと話したのか」


「少しだけ」


「少しでも多い」


「閣下?」


「いや、何でもない」


 その声音は、嫉妬を隠しきれていなかった。

 だが、彼は決して声を荒げない。

 静かに、しかし確実に、胸の奥で何かが燃えている。


(閣下)


 レティシアは胸が少しだけ熱くなるのを感じた。



 一方その頃、ギルバートは客室で静かに紅茶を飲んでいた。

 伯爵家の嫡男らしい、整った所作。

 だが、その瞳はどこか遠くを見ている。


(レティシア)


 彼は、昨日の彼女の姿を思い返していた。

 短く切られた髪。

 雑用係の服。

 それでもなお、彼女は美しかった。


(あの時私は間違えた)


 ギルバートは、ゆっくりと目を閉じた。


(もう一度やり直せるだろうか)


 その思いは、静かに胸の奥で膨らんでいく。


 朝食の席には、すでに全員が揃っていた。

 メイドたちは珍しく静かで、アレクシアは書類を片手にため息をつき、

 ウォーレスは紅茶を飲みながら微笑んでいる。


 レティシアが席につくと、ギルバートが穏やかに言った。


「レティシア。昨夜はよく眠れたかい?」


「はい。ありがとうございます」


「それは良かった。君が疲れているのではないかと心配していた」


 その言葉に、ヴィクトールの手がわずかに止まった。


「レティの体調は、私が管理している」


「そうかい? だが、彼女は私の元婚約者でもある。心配するのは当然だろう」


「元、だ」


「元でも、だ」


 静かな火花が散る。

 レティシアは、パンをちぎりながら小さくため息をついた。


(どうしてこうなるの)


 朝食後、レティシアはいつものように廊下の掃除を始めた。

 雑用係としての仕事は、彼女にとって心を落ち着ける時間でもある。


「レティシア。手伝おう」


 ギルバートが現れた。


「い、いえ! これは私の仕事ですので!」


「構わないよ。君が働いている姿を見るのは、嫌いじゃない」


「嫌いじゃないって」


 レティシアは顔が熱くなるのを感じた。


 そこへ、静かに足音が近づく。


「何をしている」


 ヴィクトールだ。


「掃除だよ、公爵閣下」


「レティの仕事を奪うな」


「奪っていない。手伝っているだけだ」


「手伝う必要はない」


「あると思うが?」


「ない」


「ある」


「ない」


 レティシアは、モップを握りしめた。


(静かに仕事がしたいだけなのに)




 アレクシアは、廊下の端で二人を見つめながら、

 静かに胃のあたりを押さえた。


「視察官の仕事に、恋愛の仲裁は含まれていないはずなのですが」


「アレクシアさん大丈夫ですか?」


「大丈夫ではありません」


 レティシアは申し訳なさそうに頭を下げた。


 ドロシーは、モップを肩に担ぎながら言った。


「レティ、あんた本当に罪な女ね」


「罪って」


「公爵様と元婚約者が、あんた一人で静かに争ってるのよ。

 普通の令嬢なら、誇っていいわよ」


「誇れません!!」


「そう?」


 ドロシーは豪快に笑った。



 その日の夕刻。

 屋敷の外壁に、ひっそりと影が落ちた。


「レティシア・アレン」


 低い声が、風に溶ける。


「公爵と伯爵家の男に囲まれて随分と楽しそうだな」


 影は、ゆっくりと窓の方へ視線を向けた。


「だがお前は“影の娘”。

 どれだけ逃げても、運命は追ってくる」


 その声は、静かで、冷たく、そしてどこか哀しげだった。

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