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其ノ玖 灯火

玖は九です。本当に難しいね

夕暮れの町は、昼間とは違う静けさに包まれていた。


軒先の提灯へ、一つ、また一つと灯がともる。


石畳には橙色の光が落ち、店じまいを始める者もいれば、夜の支度を始める者もいる。


妖怪たちの町は、夜になっても眠らない。


昼とは違う営みが、ゆっくりと動き始めていた。


凪は鈴音と渓太、そして風来の後ろを歩いていた。


さっきまで胸を締めつけていた違和感は、まだ消えていない。


夕焼け。


白い花。


誰かの背中。


思い出せそうで、思い出せない景色だけが胸の奥を漂っていた。


「凪」


鈴音が横から顔を覗き込む。


「大丈夫?」


凪は少しだけ驚いてから、小さく笑った。


「うん。大丈夫」


「ほんと?」


「ほんと」


その笑顔を見て、鈴音は安心したように尻尾を揺らした。


「じゃあ早く帰ろ!」


三人は再び歩き出す。


やがて、煙羅の屋敷が見えてきた。


門の前まで来ると、風来が足を止める。


「俺はここまでだ」


短く告げる。


凪は思わず顔を上げた。


風来は凪へ視線を向ける。


「煙羅の言うことを聞け」


それだけだった。


だが、不思議と冷たい言葉には聞こえなかった。


凪は小さく頭を下げる。


「……はい」


風来は頷くこともなく、そのまま背を向ける。


夕暮れの風が黒い翼を揺らした。


静かな足取りのまま、町の中へ消えていく。


それを見届けると、渓太も肩をすくめた。


「じゃあ俺も帰る」


鈴音が口を尖らせる。


「もう帰るの?」


「実家だからな」


「つまんない」


「また会うだろ」


渓太は苦笑しながら凪を見る。


「町で困ったことがあったら、煙羅か鈴音に聞け」


少し考えてから付け加えた。


「……鈴音だけだと心配なら、俺のところへ来てもいい」


「それどういう意味!?」


鈴音が抗議すると、渓太は笑う。


「そのままの意味だ」


「ひどーい!」


凪は思わず吹き出した。


渓太はその笑顔を見て、小さく頷く。


「その顔なら大丈夫そうだ」


それだけ言うと、軽く手を上げた。


「またな」


「はい。また」


凪が頭を下げる。


渓太は門を離れ、夕暮れの町へ歩いていった。


その背中が見えなくなるまで、鈴音は手を振っている。


やがて二人の姿が完全に見えなくなると、鈴音はくるりと振り返った。


「さ、帰ろ!」


門をくぐる。


庭には夕闇が静かに降り始めていた。


縁側には煙羅が腰を下ろし、いつものように煙管をくゆらせている。


二人に気づくと、ゆっくりと目を細めた。


「お帰り」


その一言が、静かに響く。


「ただいま!」


鈴音が元気よく答える。


煙羅は苦笑しながら頷いた。


「今日はちゃんと帰ってきたねぇ」


「ちゃんと帰ってきたもん!」


「途中で寄り道は?」


「いっぱいした!」


「正直だねぇ」


煙羅は煙を吐きながら笑う。


その視線が、凪へ向いた。


「町はどうだった?」


凪は少し考える。


知らない景色。


知らない妖怪たち。


墨耕の言葉。


風来の視線。


それでも最後に浮かんだのは、鈴音の笑顔だった。


「……不思議な町です」


凪は静かに答える。


「でも、あたたかい町でした」


煙羅は何も言わなかった。


ただ、煙管を灰皿へ置くと、小さく頷く。


「そう思えたなら十分さ」


縁側を吹き抜ける夜風が、三人の間を静かに通り過ぎた。


「さて」


煙羅が立ち上がる。


「夕餉にしようかね」


「やったー!」


鈴音の耳がぴんと立つ。


「今日は煮魚だよ」


「ほんと!?」


「炊き込みご飯もある」


「最高!」


鈴音は勢いよく家の中へ駆けていく。


「鈴音、廊下は走るんじゃないよ」


「はーい!」


返事だけは立派だった。


煙羅は呆れたように息をつき、凪を見た。


「行こうか」


「……はい」


凪は小さく頷く。


昨日まで、自分には帰る場所があったはずなのに。


それがどこだったのか、思い出せない。


けれど今は。


この屋敷へ戻ってくると、不思議と胸の奥が落ち着く。


煙羅が何気なく言った。


「ほら、入んな」


その一言に背中を押されるように、凪は家へ足を踏み入れた。


夕餉の香りが、ふわりと鼻をくすぐる。


その温かさに包まれながら、凪は小さく微笑んだ。

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