第6章|十一月六日、歪んだ慈悲の処方箋
大きな事件なんてなくても、人の心は静かに変わっていく。
気づけば、昨日まで当たり前だったものが、今日は少しだけ遠い。
忙しさに紛れて見ないふりをしてきた違和感が、ふと輪郭を持つ瞬間がある。
この物語は、その“気づき”の手前で揺れる女性たちの話だ。
誰にも言えない心の温度を、そっと思い出すように読んでほしい。
十一月六日。 十月十日の、あのエスカレーターでの別れから一ヶ月近くが経とうとしていた。秋の気配は急速に深まり、吐き出す息がわずかに白く濁り始める。この季節特有の寂寞感が、あきらの胸を容赦なく締め付けていた。
その日の午前、あきらは駅前のサイゼリヤにいた。 午前中の店内は活気づいていたが、あきらと、その向かいに座る広報の女の周りだけは、まるで真空地帯のように冷え切った空気が停滞していた。広報の女は完璧に整えられた身だしなみで、タブレットを操作している。彼女にとってこの時間は、あきらという駒を最適化するための「メンテナンス」の時間だった。
「……それで、ユキさんとの件はどうなったの?」
広報の女が顔を上げずに問いかけた。あきらは、八月上旬に彼女から投げかけられた『いっそ、ユキさんを訴えればいいのに』という言葉を反芻していた。 感情で繋がっていたはずの関係を、損害賠償や契約不履行といった無機質な言葉の羅列へ変容させたのは、広報の女の「正論」という名の毒だった。
「……今日、これから会って話をつけます」
あきらは視線を逃れるようにコーヒーを口に運んだ。広報の女がこれほどまでに「整理」を急ぐのは、一度ターゲットと見なした相手を社会的に葬るまで止まらない、彼女なりの潔癖な「正義」ゆえだ。広報の女の実家の権力や、弁護士という実弾が動き出す前に、ユキを逃がさなければならない。あきらの脳内では、その強迫観念が唯一の使命へとすり替わっていた。
「そう。対話が成立しない状態は不誠実だもの。ちゃんと事実を確認してきなさい。あなたの人生に、これ以上のノイズは不要よ」
午後。あきらはポケットに入れておいたプロテインバーをかじり、空腹と焦燥を同時に飲み込みながら、ユキが薬局から出てくるのを待った。 突然目の前に現れたあきらに、ユキは明確な戦慄を見せた。彼女は震える手でスマートフォンを掲げ、動画の録画を開始した。レンズ越しに自分を凝視する彼女の拒絶反応。あきらはそれすらも「彼女が身を守るための正しい一歩だ」と歪んだ満足感で受け止めた。
その後、二人は駅ビルのスターバックスの奥まった席で向き合っていた。 ユキは、ただテーブルの上に置いた自分の手をじっと見つめている。あきらは、広報の女の影を悟られないよう、あえて用意していた最悪の「嘘」を、断定的に口にした。
「……ユキ。今日、ちゃんと伝えておかなきゃいけないことがあるんだ。俺の妻が、君のことを訴えようとしている。二〇二三年の夏、mixiでやり取りしていた時からずっと、俺たちのことを調べていたらしい」
ユキの肩が、目に見えて小さく震えた。「二〇二三年の……夏から?」 「ああ。証拠は全部握られている。君の仕事も、家族との関係も、このままじゃ全部壊される」
あきらは、嘘をつきながら自分の心臓が軋むのを感じた。「妻が訴える」事実は存在しない。だが、広報の女という「実在する、目に見えない巨大な恐怖」から彼女を遠ざけるには、この嘘が最も鋭い刃になると信じたのだ。
対話は数時間にも及んだ。あきらは、広報の女が九月に放った「対話の拒否は暴力だ」というロジックをなぞり、ユキを逃げ場のない言葉で包囲していった。 「俺は、ちゃんと話せる関係でいたいんだ。君が何も言わずに距離を置くのは、俺を不安にさせているって気づいてる?」
あきらの自覚は、どこまでも「誠実な被害者」の立場に固執していた。不倫という自業自得の構造すら、広報の女の洗脳によって「自分は翻弄された被害者だ」という認識に書き換えられていた。
しかし、そんな極限状態の中でも、ユキはバッグから小さな包みを取り出した。 「……これ。はい」 差し出されたのは、高カカオチョコのクランチが二個だった。 「疲れてるんでしょ。これ、食べなよ」
その無造作な優しさに触れた瞬間、あきらの心の中で何かが決壊した。 追い詰め、不気味な虚言を吐き続けている自分に対して、彼女はまだ、かつての慈愛を向けてくれる。差し出されたチョコを見つめ、あきらは声を上げて泣き出したい衝動を必死に抑え込んだ。
(……ああ、やっぱり好きだ。こんなに優しくされたら、いつまでもそばにいたいと思ってしまう)
だが、その甘美な誘惑は、即座に黒い絶望へと反転した。 いま、この優しさに甘えてしまえば、ユキは決して警察には行かない。通報もせず、相談もせず、ただこの「歪んだ対話」に応じ続けてしまう。そうなれば、いつか必ず広報の女の「整理」が、実弾となって彼女に届く。
(君が俺を『ストーカー』として通報し、警察という安全圏に逃げ込まない限り、あの人の牙からは逃れられない……)
「……お願い、訴えないで」 ユキが震える声で懇願した。その目に宿ったのは、信頼ではなく、正体不明の「加害者」への根源的な恐怖だった。 七月の記録、八月の訴訟の匂わせ、九月の強要、十月の待ち伏せ。そして今日の、監視という嘘。 ユキの中で、あきらはもう愛した人ではなく、人生を壊しにくる「侵入者」へと完全に固定された。
「送るよ。改札まで」 「……うん。ありがと」
改札を抜けたユキは、十月のあの時のように、また手を振った。何度も、何度も振り返りながら、雑踏へと消えていった。
(これでいい。これで彼女は警察に行く。俺を『不気味なストーカー』として突き出してくれれば、広報の女の手は届かなくなる。彼女の人生は、俺からも、あの人からも守られる……)
それが、自分にできる唯一の愛の形なのだと、彼は自分を欺き続けた。たとえ、自分が彼女の記憶の中で、一生消えないトラウマに変わったとしても。
ポケットの中の、食べ残したプロテインバーのチョコは、体温で無残に溶け、もうすっかり形を失っていた。 それは、彼らがかつて共有した「愛」という名の、あまりにも惨めな残骸に似ていた。
大人になると、恋も別れも、声を荒げずに静かに終わっていく。
その静けさの中で、自分だけが取り残されたように感じることもある。
けれど、痛みの正体に気づいた瞬間から、人は少しずつ前に進める。
ユキの物語は、誰かの過去の記憶と重なるかもしれない。
読み終えたあなたの心に、そっと寄り添う余韻が残っていたら嬉しい。




