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コロロと高カカオチョコ  作者: fudo_akira


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6/10

第5章|十月十一日の断絶、あるいは歪んだ聖戦

大きな事件なんてなくても、人の心は静かに変わっていく。

気づけば、昨日まで当たり前だったものが、今日は少しだけ遠い。

忙しさに紛れて見ないふりをしてきた違和感が、ふと輪郭を持つ瞬間がある。

この物語は、その“気づき”の手前で揺れる女性たちの話だ。

誰にも言えない心の温度を、そっと思い出すように読んでほしい。

十月十一日の朝、世界から音が消えたような静寂の中で、あきらは目を覚ました。 カーテンの隙間から差し込む秋の光が、昨日、イオンの駐車場で見せたユキの柔らかな笑顔の残像を、容赦なく白く飛ばしていく。

枕元のスマートフォンに手を伸ばす。通知はない。 彼は祈るような心地でLINEを開いた。トーク画面には、昨日自分が送った「今日はありがとう。またゆっくり話そう」という言葉が、既読がつかないまま、冷たい海の底に沈んだ石のように横たわっている。

「……まさか」

あきらの指先が、わずかに震える。彼はある「儀式」を始めた。 ユキが持っていないはずの、少し子供っぽい新作スタンプを選び、プレゼントしようとしてみる。 『ユキはこのスタンプを持っているため、プレゼントできません』

無機質なシステムメッセージ。何度試しても、別のスタンプを選んでも、画面に返ってくる答えは同じだった。 それは、彼女が自分を人生から完全に締め出したことを示す、電子的な死の宣告だった。

追い打ちをかけるようにInstagramを開く。しかし、そこにはもう、色鮮やかな彼女の日常は存在しなかった。 ユキがアップロードしていた日々の写真はすべて消え、やり取りしていたダイレクトメッセージの送信者名は、顔のない「Instagramユーザー」という名前に変わっていた。彼女が持っていた二つのアカウントは、両方とも、最初から存在しなかったかのように跡形もなく削除されていた。

「……ユキ、どうして。今、離れるのは危険すぎるんだ」

あきらはベッドの上に座り込み、頭を抱えた。 彼がこれほどまでに焦燥感に駆られているのは、自分自身の寂しさゆえではない。広報の女という女性が、この数ヶ月間、彼の心に静かに、しかし確実に植え付けてきた「毒」が、不安という形をとって芽吹いていたからだ。

広報の女の「教育」は、すでに七月の定例打ち合わせから、雨垂れが岩を穿つように始まっていた。 「何かあったときのために、やり取りはちゃんと記録スクショとして残しておいたほうがいいよ。大人としての『保険』よ」 広報の女はそう、ごく自然な「社会人の作法」として提示した。

そして八月上旬。あきらが、ユキとの関係が不倫であること、それでも将来を約束していることを打ち明けた際、広報の女は紅茶を揺らしながら、恐ろしいほどの「正論」を口にした。

「あきらくん、それ、いっそユキさんを訴えればいいのに」

あきらは絶句した。「そんな、彼女を傷つけるようなことは……」と反論する彼を、広報の女は憐れむような目で見つめた。 「傷つける? 違うわ。制度で自分を守るだけよ。結婚を前提にしていたのに、彼女が不誠実な態度をとるなら、それは一種の契約不履行に近い。感情の問題じゃないの。法的に処理可能な『案件』として整理すべきよ」

この瞬間、あきらの中で、ユキとの愛は「法的処理の対象」へと完全に転換された。 彼は、自分が不倫という加害構造の中にいるという視点を、広報の女の「あなたは被害者だ」という甘美な定義によって、完全に奪われてしまったのだ。

「一方が黙り続けるのは、暴力よ。対話の拒絶という、卑怯な暴力」

広報の女の言葉が、あきらの脳内でリフレインする。 あきらの自覚は、どこまでも「誠実に対話したい被害者」に基づいていた。 しかし、ユキの側から見れば、それは「記録」を撮り溜め、「訴訟」をちらつかせ、「対話」という名の下に執拗な説明を強要してくる、逃げ場のない白い包囲網だった。

「守らなきゃ。俺が、彼女を……あの人から」

昨日の車内での、彼女の震えるような声が蘇る。 『怖いの。本当に、怖いの』

ユキは、広報の女の存在に気づいている。そして、広報の女が自分を「案件」として処理しようとしていることに怯えている。 あきらの歪んだ思考は、一つの恐ろしい結論を導き出した。

(俺が彼女を追いかけることで、彼女が警察に逃げ込んでくれれば、彼女は救われる。警察という公的な力が介入すれば、広報の女だって手出しはできない。俺が加害者になれば、彼女を安全圏へ誘導できるんだ)

それは、狂気としか言いようのない「愛のすり替え」だった。

午後、広報の女から連絡が来た。 『昨日はどうだった? 整理はついたかしら』

あきらは、心臓の鼓動が速まるのを抑えながら返信を打った。ユキにSNSをすべて遮断され、スタンプ一つ送れない「拒絶」の状態にあることは、口が裂けても言えない。もし広報の女が「交渉決裂」だと判断すれば、彼女は即座に、あきらの預かり知らぬ場所で「次のフェーズ」へ移行するだろう。

広報の女が言う「保険」や「事実確認」という言葉の裏にある、剥き出しの実力行使の恐ろしさを、今のあきらは直感していた。

『会えたよ。彼女も……前向きだった気がする。ただ、少し考えたいって。だから、今はそっとしておいてあげてほしいんだ』

必死の防衛線だった。広報の女はそれ以上聞いてこなかったが、ただ一言、『そう。良かったわね』とだけ返してきた。その短さが、かえって暗い予感のようにあきらの胸をざわつかせた。

数日後、駅前のサイゼリヤ。昼食どきの喧騒の中で、広報の女はいつも通り、あきらの感情を勝手に「翻訳」し始める。

「今のあなたは、まだ彼女に縛られているように見えるわ。それは愛じゃなくて、未解決の傷が疼いているだけ。先のことは、今は一緒に考えなくていい。必要な時に、私が整理してあげるから。あなたは、ただ私の言うことだけを聞いていれば、何も間違えないわ」

広報の女の声は、温かいビロードのように耳を撫でる。 彼女の語る「将来」には、ユキというノイズは存在しない。あきらを広報の女というシステムの一部として取り込み、管理し、矯正していくための完璧な未来図。

あきらは、広報の女の理路整然とした語り口を聞きながら、背筋に冷たいものが走るのを感じていた。彼女の気を損ねるようなことがあれば、その刃は即座に、自分が守りたいユキへと向けられるだろう。

(この人は、本気だ。本気で俺を正しい道に戻そうとしている。そのためなら、手段を選ばない。ユキ、頼むから気づいてくれ。俺が君に執着しているんじゃなくて、君を守るために動いているんだということに)

「広報の女さん、俺……彼女が警察とかに相談するようなことになっても、それは彼女の自由だと思うんだ。恨みっこなしっていうか」 あきらは、喉の渇きを覚えながら広報の女の出方を探った。

「あら、それならそれでいいわ。法的に白黒はっきりさせるのは、お互いにとって良いことよ。私の知り合いの弁護士も、喜んで協力してくれるでしょうし。事実確認の資料は、あなたが撮っておいたあの『記録』があるものね」

広報の女の笑みには、一点の曇りもなかった。それが一番、恐ろしかった。 自分がユキへの「保険」だと思って撮り溜めていたスクリーンショットが、広報の女の手にかかれば、不倫の証拠、あるいは契約不履行の証拠として、ユキを社会的に葬り去るための「弾丸」に変貌する。

一週間が過ぎても、ユキとの断絶は解消されなかった。 あきらの目的は、もはや執着ではなく、歪んだ「避難勧告」に変わっていた。

ユキに、警察へ行ってほしい。自分のことを「危ない男」だと思って通報してくれても構わない。第三者の介入――警察という公的な力が介入すれば、広報の女のような個人が及ぼす「見えない力」も手出しができなくなるのではないか。

彼は、自分が「ストーカー」や「加害者」の役を演じてでも、ユキを警察という安全圏へ誘導しなければならないという、狂気じみた使命感に支配されていった。

あの日、エスカレーターの前で手を振ってくれたユキの笑顔。 あれは「もう追ってこないで」という彼女なりの決別だった。しかし、あきらはその笑顔を、「私は大丈夫だから、あなたはあなたの戦いをして」という自分へのエールとして、勝手に解釈を書き換えていた。

「守らなきゃ。俺が、彼女を……あの人から」

夜、あきらは冷蔵庫の奥で眠る『コロロ』の袋を指でなぞった。 ユキが以前「あんまり得意じゃない」と言っていた、この独特な食感。 今の自分には、この人工的な甘さだけが唯一の支えだった。

彼は、広報の女が手渡してくれた「正論」という名の凶器を、ユキを救うための「狂言」へと組み替え始めた。 十一月六日。 その日が、最初の直接的な「接触」になるはずだった。 彼は、自分自身を壊してでも、ユキを「正しい逃げ場」へと追い詰める決意を固めていた。



大人になると、恋も別れも、声を荒げずに静かに終わっていく。

その静けさの中で、自分だけが取り残されたように感じることもある。

けれど、痛みの正体に気づいた瞬間から、人は少しずつ前に進める。

ユキの物語は、誰かの過去の記憶と重なるかもしれない。

読み終えたあなたの心に、そっと寄り添う余韻が残っていたら嬉しい。

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