第4章|十月十日、最後のエスカレーター
大きな事件なんてなくても、人の心は静かに変わっていく。
気づけば、昨日まで当たり前だったものが、今日は少しだけ遠い。
忙しさに紛れて見ないふりをしてきた違和感が、ふと輪郭を持つ瞬間がある。
この物語は、その“気づき”の手前で揺れる女性たちの話だ。
誰にも言えない心の温度を、そっと思い出すように読んでほしい。
九月の終わりに届いたLINEは、それまでの執拗なあきらのメッセージを、静かに、そして決定的に断ち切るような短さだった。
『最後に、少しだけなら。10月10日、10時に新百合ヶ丘のコメダで』
句点も、感情も、そこには一滴も混じっていない。 それなのに、その二行はあきらの中で都合よく書き換えられていった。「最後」という言葉は、彼にとっては「一度区切りをつければ、また新しく始められる」という希望の裏返しであり、「少しだけ」は「本当はもっと会いたがっているけれど、立場上そう言わざるを得ないのだ」という身勝手な甘えへと形を変える。
広報の女が、ユキを無理やり引きずり出すための「調整」を、執拗に仕向けてくれたおかげで手に入れた機会だった。あきらは、自分が「将来をぶち壊された被害者」であることを再認識させ、彼女に謝罪と補償をさせる絶好のチャンスだと信じて疑わなかった。
当日。十月十日。 秋の気配が深まり始めた新百合ヶ丘のコメダ珈琲で向き合ったユキは、かつてのようにふわりと笑うことはなかった。 ベージュのカーディガンを羽織り、背筋を伸ばして座る彼女は、まるで初めて会う患者を検分する薬剤師のような、冷徹で事務的な空気を纏っている。
「……元気そうで、よかった。俺はさ、ユキにあんな風に突き放されてから、自分の将来の計画が全部狂っちゃって」
開口一番、あきらの口から出たのは「被害」の報告だった。広報の女から授けられた、非の打ち所がないはずの「正論」。 「二人で生きていくための貯金も、これからの予定も、全部ユキの身勝手な手術や療養のせいで壊れたんだ。俺、本当に傷ついてるんだよ」
ユキは、手元にあるコーヒーカップを見つめたまま、微動だにしない。店内に流れる喧騒も、彼女を覆う透明な繭を破ることはできなかった。沈黙が数秒続いたあと、彼女はゆっくりと顔を上げた。その瞳には、怒りも、悲しみも、憐れみすら浮かんでいなかった。ただ、そこには「拒絶」だけが結晶化していた。
「被害者ぶるの、やめて。……あなたの将来は、あなたのもの。私がどうあろうと、自分の人生に責任を持つのはあなた自身なの。私のせいにしないで」
冷ややかな指摘。 それは八月のLINEで放たれた言葉そのままだったが、対面で突きつけられるその質量に、あきらのプライドは無惨に剥がれ落ちていく。自分が用意してきた「正義」が、彼女の沈黙の前で、砂の城のように崩れていくのを感じた。
「……ここでは、話しにくいな。少し、移動しよう」
居たたまれなくなったあきらは、ユキを促し、近くのイオンの駐車場へと場所を移した。かつて五月、エンジンの熱と二人の体温が混ざり合い、コロロを分け合ったあの場所へ。
密室となった車内。 あきらは、かつての情に訴えようと彼女の手に指を伸ばした。だが、ユキが口にしたのは、愛の言葉でも拒絶の言葉でもなく、震えるような、悲痛な懇願だった。
「……あきらくん、お願い。私のことは、もう訴えないで。攻撃するようなことはしないで。……怖いの。本当に、怖いの」
その言葉に、あきらの指が凍りつく。「訴える」――それは、広報の女に唆されるまま、彼がユキを脅すように口にした言葉だった。そして「攻撃」とは、あの女の入れ知恵で送りつけた、彼女を法的・倫理的に追い詰めるための冷酷な専門用語の数々だ。 ユキは、あきらという一人の男の感情よりも、その後ろに透けて見える「正体の見えない悪意」に、心底怯えていた。
「違うんだ、ユキ。あれは俺の本心じゃ……」 「私に、先のことを預けないで。もう、これきりにして。お願い」
彼女の声は小さかったが、そこには岩をも砕くような固い決意が宿っていた。あきらは、隣に座っている女性が、もう自分の知っている「ユキ」ではないことを、ようやく突きつけられた。
車を出て、二人はイオンの店内へと入った。家族連れで賑わう店内の喧騒の中、エスカレーターまで彼女を送っていく。 並んで歩くわずかな距離。ユキがぽつりと、掠れた声で言った。
「ねえ、あきらくん。……私に嫌われるようにって、誰かに言われた?」
あきらは答えられなかった。喉の奥に、広報の女の「正論」が小骨のように刺さっている。 (――ユキさんは、あなたを操作しているわ。これは、ショック療法なのよ) 広報の女の囁きを否定できない。それが答えだった。あきらの沈黙を、ユキは「肯定」として静かに受け止めた。
いつも、エスカレーターで見えなくなるまで、名残惜しそうに互いを見送るのが二人の「習慣」だった。 この時もそうだった。しかし、一つだけ決定的に違った。 あきらは背後に、言いようのない強烈な「視線」を感じたのだ。誰かが自分を監視しているような、自分の「成果」を値踏みしているような、冷たい、温度のない視線。
(誰だっ……!?)
一瞬、頭を掠めた恐怖に足を止め、彼はエスカレーターには乗り込まず、少し離れたフロアの喧騒の中に留まった。それは、彼が完全にあの女の支配下にありながら、無意識にその「見えない檻」に抗おうとした瞬間でもあった。
ユキはエスカレーターで下のフロアーに消えながら、笑顔であきらに手を振り続けた。 かつてあきらが愛した、あの柔らかい、すべてを包み込むような笑顔。彼女はそのまま、小さく、さよならを告げるように、何度も、何度も手を振り続けた。
それは、ユキにとっての「永遠の別れ」の儀式だった。 自分を攻撃し、広報の女という悪意を背負って目の前に現れた「かつて愛した男」への、精一杯の、そして最後の慈悲。 (私の愛したあなたは、もう――) その微笑みは、冷徹な判決を下した後の、弔いの色を帯びていた。
しかし、毒に侵されたあきらの脳は、その笑顔を瞬時に「再会の約束」へと変換した。 (あんなに笑って手を振ってくれたんだ。やっぱり、まだ終わってない。広報の女の言う通り、もっと正しく追い詰めれば、彼女は以前のように戻ってくるんだ)
ユキの姿が消えた後も、あきらはその場に立ち尽くしていた。 帰り道、ハンドルを握る彼の胸を占めていたのは、後悔ではなく、卑怯で歪んだ「勝利感」だった。
「また会える。絶対に、終わらせない」
あきらは、自分を「正義」に置くことでしか、自分を保てなかった。 ユキは前を向き、彼を人生から完全に遮断した。 広報の女は後ろで、彼という駒を確実に回収した。 あきらだけが、賞味期限の切れた思い出を握りしめたまま、猛毒を含んだ処方箋を飲み下し続けていた。
その夜、あきらは自宅の冷蔵庫の奥から、冷え切った『コロロ』の袋を取り出した。 彼はまだ、あの笑顔が、自分を社会的に葬るための、最後の静かな決別であったことに、気づいていなかった。
大人になると、恋も別れも、声を荒げずに静かに終わっていく。
その静けさの中で、自分だけが取り残されたように感じることもある。
けれど、痛みの正体に気づいた瞬間から、人は少しずつ前に進める。
ユキの物語は、誰かの過去の記憶と重なるかもしれない。
読み終えたあなたの心に、そっと寄り添う余韻が残っていたら嬉しい。




