届かぬ声
城館の奥、朝もやの差し込む回廊を一人の婦人が歩いていた。
マクレイン伯爵家の当主の妻、クラリスである。
細やかなレースを施した淡い青のドレスは、時代遅れにならぬように仕立て直されたものだったが、彼女の気品にかかればそれすら古典の風格を帯びる。
無言のまま書斎の扉の前で立ち止まり、小さく息を吸う。
躊躇いがちにノックをすると、重厚な声が応じた。
「入れ」
その部屋の主は、ギルベルト・フォン・マクレイン伯爵――かつての王国の有力貴族であり、今は犯罪者であるリディアの親として肩身の狭い思いをしている身である。
クラリスは静かに入室し、机に向かって書類を整理していた夫の正面に歩み寄った。
「今日もまた、リディアからの便りはありませんでした」
その言葉に、伯爵は手を止めることなく答えた。
「当然だ。あれは、罪を犯したのだ。反省すべきは我々も同じ。過剰な情は家を潰す」
クラリスは手紙を机に置き、夫の顔を見つめた。
「それでも……娘は一人きりで辺境に。あの子がどんな想いで日々を生きているか、それを考えると―――」
伯爵は視線を上げず、冷静に言い放った。
「そんなことを考えなくともよい。リディアが正しくない道を選んだことに変わりはない」
クラリスの瞳が揺れる。だが口元は、憂いを帯びながらも微かに笑んでいた。
「あなたは昔から、弱さを許さぬ方。でも私は母です。
たとえ娘が罪を犯したとしても……あの子が風邪を引いていないか、食事をとれているか、そればかりが気になります」
伯爵は無言のまま、手元の羽根ペンを置いた。
「私だって案じていないわけではない」
ようやく顔を上げた彼の表情は、険しくもどこか遠くを見ていた。
彼の視線の先にあるのは、城館の外、遥かな辺境に暮らす娘の面影か、それとも自らの決断か。
「ただ、それを口にしたところで何になる。リディアの立場は変わらぬし、我が家が抱える責務もまた変わらぬ」
クラリスは手袋を外し、机に手を置いた。
「あの子は本当に罪を犯したのでしょうか?」
静寂が降りた。
「誰も、リディアがエリザベート様に薬品をかけた瞬間を見たわけではありません。
状況証拠だけで決めつけられた。……あなたは、それでも納得していますか」
ギルベルトは目を閉じ、長く息を吐いた。
「王家の裁きが全てだ。
そうでなければ、秩序が成り立たん」
「でも父としては、どうなのですか?」
クラリスの問いは鋭く、切なかった。
その言葉に応じるように、ギルベルトの手が小さく震える。
「私は……マクレイン伯爵だ」
彼は、苦い声音で続けた。
「下手なことを申すでない。王家への反逆と受け止められかねんぞ」
クラリスは、唇を噛みながら
「申し訳ございません」
と返した。
その瞳には涙がにじんでいた。
やがて彼女は椅子を立ち、出口に向かって歩き出す。
扉の前で一度だけ振り返り、夫を見つめる。
「私は、娘を信じています」
そう言い残して扉を閉めた。
部屋に残されたギルベルトは、一人つぶやく。
「私だって、娘を信じている」
そのつぶやきの中に、表に出せない想いがにじんでいた。
最近王都では、王家に不満を持つ者が立場を悪くしている。
いや、エリザベートに、と言った方が正確か。
だが、その者たちも決して迂闊にその不満を顕していたわけではない。
(貴族の屋敷に密偵が忍び込んでいるのではないか)
そういった不安を抱くギルベルトは、妻とも本心を語り合えない苦しみを抱えていた。
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