箱庭
この作品は、基本的に順不同で読んでくださって構いませんが、出来ればこれは『最後に』読んでください。
再読の際は、このかぎりではありません。
それは、暗い部屋の中央に、浮いていました。
大人の男が腕をまわしても、抱えきれないぐらいに、大きな球体です。
透明な硝子細工のようなそれを、一人の男が見つめていました。
白衣を着たその男が、手のひらで撫でるように球体に触れますと、つれて光を放ちます。指でついと線を引き、おしまいとばかりに、ぽんとひとさし指で叩きます。
球体は喜んでいるように、赤くかがやきました。
次に橙、黄と色を変え、緑から青へと移り変わり、紫を経てさいごに黒く染まりました。
男は微笑んで、球体から一歩、離れます。
壁の一部がぴかぴかと光り、外から声が聞こえました。
白衣の男が、扉の横にある板に手のひらをつけますと、扉が上へ開き、年若い男が入ってきます。
「また、こちらにいらしたのですね、先生」
「見ていて、飽きることはないからの」
「それはそうかもしれませんが、少しは、お休みになるべきです」
はあとため息をつきますと、青年は中央の球体を見つめました。
「今は、夜ですか?」
「ちと早いとは思ったのだが、ウサギが、急いておるようでな」
「水巡りが、長かったせいですか?」
「とはいえ、森全体への供給を、とめるわけにはいかんしの」
先生と呼ばれた白衣の男は、ほほうとわらいます。
青年は球体に近寄って、その中を覗きこみました。
端のほうに目をやりますと、一本道を、外側へ向かって進む動物が見えます。
「ウサギとカメ、とは、おもしろい組み合わせですね」
「そうかの?」
「僕が知っている二匹は、かけっこをしていますよ」
「ずいぶんと、古い物語を、引き合いにだしてくるなぁ、君は」
「古き物語が、好きなものでして」
「ほうほう、年のわりに、古くさいと思うたら」
師にいわれ、青年は、口を尖らせました。
それをいうのであれば、先生のほうがよっぽど、古き考えを大事にしているじゃないかと、思ったからです。
球体は、ほのかに輝きながら、ゆっくりと、色を変えていきます。
今はもう、夜から朝へと、向かう時です。もうすぐ、太陽がすがたを見せるでしょう。
球体の中は、二倍も三倍も早い時間が、流れているのですから。
ウサギが、森へ入っていくすがたを見送りながら、青年はべつのことに気がつきました。
「先生。アリがまた、木にのぼっていますよ」
「ほうほう、変わらんのう」
「以前よりも、サイクルがみじかくなったように、思えるのですが」
「ふむ、もうすこし、知性を遅らせておくべきか」
白衣の男は、ふかくうなずきます。
そして青年に、命じました。
「さよならの実を、与えておきなさい」
「わかりました」
青年は、部屋の壁際に置かれている機械を、操作しました。
両手の指を使って、パネルのいくつかを押します。まるで、楽器を奏でるような指使いでした。すると、青年の背中側にある球体が、白く輝きました。
青年は球体のそばへ戻ってきて、中を覗きます。
七つの色をつらねる光が、森を抜けた先にある、背の高い塔から伸びていきます。こわれそうな吊橋がかかった大きな川を越えて、アリがいる木とつながりました。
細長い木の頂上、枝の先に成っている果実に、小さなアリが、はりついていることがわかります。
「……どうして、このようなことを、するのですか?」
「このような?」
「忘れてしまうのであれば、はじめから、登らせなければ、よいではありませんか」
「だが、それでは、進化をとめてしまう」
「アリに、そこまでの進化が、必要ですか?」
「アリである必要はないが、それがアリであって、悪いわけでもなかろうて」
クマが怖がりであったり、
キツネがずるがしこくなかったり、
ウサギとカメがともに歩みを揃えたりするように、
『世界』は矛盾に満ちている。
この『世界』でもっとも小さな動物であるアリが、ほかの誰よりも、『世界』を知り。
そしてそれ故に、忘却しつづける。
「賢さは、罪ですね」
「知ろうとすることは、罪ではないよ」
「ではなぜ、消去するのです」
「彼らは、ここで生きるしかないのだ。この箱庭から出られぬ以上、外を知ることに、なんの意味があろうか」
「それは、傲慢では、ないのですか?」
青年は、師に尋ねました。
師は、答えます。
「神は見えぬもの。彼らにとって我々は、神のようなものであろうが、我らの上にも、見えぬ神々はおるのだろう。君は、今の自分が、すべて己の意思のみであると、思うかね? そこに何の介入もないと、どうして、言い切れる?」
「それは――」
「時が許すかぎり、これらの種を保ち、いずれかの時へ託す。それが、我らの役割であり、我の後は、君が担うお役目じゃ」
師の言葉に、青年は目を伏せ、ため息を落としました。
二人の前で、球体がぽわりと光ります。
七つ色の光が、まるで虹のように、浮かびあがります。
「先生。供給配管を、虹になぞらえるのはわかるのですが、なぜ『逆さ虹』と、呼称するのでしょう。正位置では、ありませんか」
青年は、供給塔と、動物の住まう森をつないでいる虹――七本の配管を指さして、問いました。
地表に対して、半円の曲線が上となっている、お椀を伏せたような形は、青年が知っている虹の形と、変わりありません。
「色の順番が、逆であろう?」
「順番ですか?」
「虹は、赤色からはじまり、青みを帯びてゆくものだ」
「だから、逆さ虹、ですか。しかし、なぜ、そんなことを……?」
虹になぞらえるのであれば、その配色に準じておけばよいものを、なぜ、わざわざ、逆さまに配置したのでしょう。
箱庭をつくった「誰か」は、何を意図したのか――
動物たちの『世界』は、平面です。
川から向こうへ立ち入ることはできず、空間はねじれ、逆の方向へ導かれます。
崖の下は底もなく、落ちた先は、ただの「無」でしかありません。
彼らは、森の中に生きる、動物でした。
「閉じた世界の先に、いったい何があるというのでしょう」
「それは、我々とて同じこと。神は、常にどこかで我らを見つめ、けれど、手をくだすこともない。我らは、我らの庭で生きてゆく」
「神は天にいまし、すべて世は事もなし、ですか」
「君は、本当に古き言葉が好きじゃのう」
「先生の弟子ですから」
師匠と弟子は、部屋をあとにしました。
誰もいなくなった部屋のなかで、透明な球体が浮いていました。
七つの光が壁を照らし、小さな部屋に、きれいな虹が浮かんでいました。
あとがき
種族の違う動物たちが、仲良く共存する世界ってあるのかな?
という、身もふたもない、夢のないことをうっかり考えてしまった私は、「夢ならいいんじゃね?」と思いました。
「ノアの箱舟」みたいに、色んな動物たちがひとつの空間で過ごす。
森は、その為に用意された場所。舞台装置。
「箱庭だ」
ぽんとその言葉が浮かんで、おかげでこの作品集は出来上がりました。
争いのない世界で、幸せに暮らす動物たちの物語。
泡沫な世界。
幸せなようで、どこか儚い。けれど、何も知らない彼らは、どこまでも幸せであり続ける。
何をもって「逆さ」にするか迷いましたが、色の並びを逆にしてみました。
現実の「逆さ虹」は、形も反転してるらしいんですが、この作品はいつもの形です。
動物たちの見ている「虹」は、人工的に作り出された光の集合体。
七つそれぞれが、何らかの維持装置と繋がっていて、川向こうの機械から供給されている設定です。
この「箱庭」を踏まえたうえで、前の作品群に戻っていただけると、また違った味わいで楽しんでいただけるのではないかと思っております。
一篇でも心に留まる作品がありましたら、幸いです。
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読んでいただき、ありがとうございました。