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二十五、奈津子と要一

「こんなところで、レッスンしていらっしゃったのね」

 初めて訪れた藤巻要一のレッスン室をマジマジと見回した雨宮奈津子は要一を振り返って言った。

「むさ苦しくて申し訳ないね」

 そう言って、要一は頭をかきむしった。その言葉を受けて奈津子は首を振った。

「いいえ、そんなことないわ。要一さんらしくていいわ。いつからここでレッスンを?」

 奈津子は要一の方を振り返って訊いた。

「日本に戻ってきてからだから、十年くらい前かな。細々とやってるよ」

 奈津子は、ピアノに駆け寄って弾いてみた。

「これ、昔のままのピアノね」

 要一は、ピアノの側板に手をかけて、それに応えて言った。

「そうだよ。使い慣れた道具が一番さ」

 奈津子は嬉々としてピアノを引き続けた。

「なんだか、とっても懐かしいわ」

 奈津子は嬉しそうに話したが、どこか表情が暗かった。要一はそれを察して話を切り返した。

「世間話や思い出話だけのために来たんじゃないだろ?」

 その言葉を聞いて奈津子は、ピアノを弾く手を止めた。


 あの土曜日の出来事は、奈津子にとってもショッキングなことだった。

 律子が手ぶらで家に帰ってくるなり、部屋に閉じこもったままで口も聞けない有様だった。

 だが、律子の父親であり奈津子の夫である雨宮健一は、全く動じていなかった。むしろその事態を歓迎さえしている様子だった。

 戸倉駿平から掛かってくる電話の応対で奈津子は薄々感じていたが、まさかと思いながら二、三日して落ち着いてきた律子に、なだめるように聞いてみたのだった。

 土曜日のスタジオのレッスンのこと、休憩していたら別のスタジオから駿平が現れたこと、そしてそれが横恋慕だったこと。

 奈津子は、律子の話を聞いて愕然とした。

『あの人、またやったのね』

 奈津子は、そうとしか思えなかった。健一が自分の娘にさえそんな想いをさせるとは考えもしなかった。

 だが、悲しんでいる娘の律子にそのことを話すべきかどうかの判断はつかなかった。それよりも律子を慰めることが先だと、今しなければならないことだと母親である奈津子は思った。

「律子、今はあなたを慰めることしかできないわ。ごめんなさいね」

 そう言って、奈津子は律子を抱きしめた。そして、誰に相談しなければならないか、奈津子の心にはすぐに思い浮かんだ。

 藤巻要一であった。

 すぐに、藤巻要一ところに連絡を入れ、奈津子は藤巻のレッスン室に出向いてきたのだった。


「うちの人、また……」

 古ぼけたソファに座った奈津子は、目の前に置かれたマグカップになみなみと注がれたコーヒーに手を付けず、神妙な顔でポツリと呟き始めた。

 だが、マグカップを持ったままソファの前で仁王立ちしていた要一は、奈津子の言葉をさえぎった。

「あぁ、知ってるよ」

 要一から発せられた意外な言葉に、奈津子は要一の方に向けて顔を上げた。

「……知ってたの?」

 要一は、奈津子と向き合うように反対側のチェアに腰を下ろした。

「あぁ、健一の仕掛け人にさせられたのは、阿川真理だ」

 そう言って、要一はグビグビとコーヒーを飲んだ。

「阿川真理さんって、うちの人の門下生の? 来年デビューだって、うちの人が言ってたわ」

 奈津子は少し驚いていたが、要一は相槌を打ちながら続きを話した。

「一番最初は、俺の弟子、だったんだがな。その話はまあいい。その阿川真理が、ちょっと前にここを訪ねてきたんだ。そして、そのことを告白したんだ。」

 奈津子は更に驚いて、落ち着きがなくなっていた。そんな奈津子の様子を見て要一が声を掛けた。

「大丈夫だ。真理は横恋慕じゃない。もっとも途中まではヤツの言うなりだったそうだがね」

 要一は落ち着き払った声で淡々と述べた。要一の言葉に安堵しながらも、奈津子は律子のことを思うと気が気でなかった。

 要一は、テーブルにマグカップを置いて話し始めた。

「でも、俺達の時と同じような状況だ」

 その言葉を聞いた奈津子は表情が硬くなった。

「お、同じって?」

 要一は身を乗り出した。

「真理のヤツ、駿平をアメリカに連れて行きたい、って言ってるんだ。もうその渡りも付けたらしい。どこまでが、健一の企みなのかは解からないがな」

 奈津子は下を向いたが、要一は話を続けた。

「だが、真理には釘を注しておいた。『選ぶのは駿平だぞ』ってね」

 奈津子はようやく、コーヒーに口を付けた。少しすすってから顔を上げた。

「そう、そんな話になっていたの。律子はどう思うかしら」

 要一はコーヒーをすすって、言葉を出さなかった。

 奈津子は深い溜息をついてから呟いた。

「律子は付いて行くかしら? それよりもうちの人がそれを許すかしら?」

 要一は腕を組んだ。

「まず、無理だろうな。俺達と同じ道を辿るって訳か」

 マグカップを持つ奈津子の手が小刻みに震えた。

「それは、それはあんまりよ。私と同じ想いを律子にはさせたくない」

 奈津子は顔を上げて、要一の顔を見つめた。奈津子のその頬には涙の跡があった。

 要一は身体を伸ばし、マグカップを持っている奈津子の両手を包み込むようにそっと握った。

「君次第だよ、奈津子。君がシッカリしないとダメだ」

 要一は、奈津子の手をシッカリと握った。

 奈津子は、要一を見つめてうなづいた。


 その時、レッスン室の扉が開いた。

「師匠、おはようございま〜す」

 そう言って入ってきたのは、戸倉駿平だった。

「今日はバッチリ練習してき……」

 駿平は言いかけた言葉を途中で切り、ドアのところで動きを止めた。

「あれ? 律子のお母さん…」

 駿平は、ビックリして目を丸くした。

 奈津子は、優しく駿平に微笑んだ。

「しばらくぶりね。元気そうで何よりだわ」

 駿平は慌てて頭を下げて詫びた。

「すみません! 僕が、僕が…」

 ひたすら謝り続ける駿平に、奈津子は声を掛けた。

「いいのよ、謝らなくて。大丈夫よ。」

 それでも頭を下げ続ける駿平の肩を要一が叩いた。

「もういいんだ、駿平」

 駿平は要一の顔を見上げた。それに呼応するように要一はうなづいた。

「事情は分かっている。今度、律子さんも加えて話をしよう」

 要一の言葉に、奈津子はうなづいて言った。

「そうね、それがいいわ。そうしましょうよ」

 駿平は頭を上げて、潤んだ目を奈津子と要一に向けていた。

 要一と奈津子は、駿平に向ってうなずいた。

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