二十四、師匠と弟子
藤巻が自分のレッスン室であるロフトの鍵を開けて中に入ろうとした時、後から、若い女性に声を掛けられた。
「藤巻先生、お久しぶりです」
その声がする方に反射的に素早く振り返った。
「なんだ、君か」
藤巻の驚きは安堵に変わった。
そこに立っていたのは、阿川真理だった。
「ずい分、立派になったなぁ」
そう言いながら、レッスン室のドアを開けると同時に、真理をレッスン室の中に招き入れた。
「君が初めて俺のところに来た時は、小学生だった。ピアノはおろか、何も出来なかったのにな」
真理は照れながら、クスッと笑った。
「それはそうですわ。先生のピアノを聞いてから始めたんですもの、音楽を」
藤巻もフフと笑った。
「そうだったっけな」
レッスン室の隅にある、古ぼけて艶がなくなったレザーのソファに真理は腰掛けた。
「先生、あの頃と何も変わってないですね」
真理は古ぼけたソファの表面を撫でた。
「このソファ、懐かしいわ」
そこへ、コーヒーをなみなみと注いだマグカップを二つ、藤巻が持ってきた。そして、一つを真理の前のテーブルに置いた。
「変える必要がないからな」
藤巻は、自分の淹れたコーヒーをすすりながら言った。
「今日はどうしたんだ? 俺のところなんかに来る必要は、もう無いはずだぞ」
真理はコーヒーを一口、ゆっくりと飲んでから、言葉を出した。
「そんなことは無いですわ、先生。私の原点は、先生なんですもの。いつでも、原点に戻って確認したいですわ」
藤巻はその言葉に照れて、コーヒーをガブガブと飲んだ。
真理はマグカップのコーヒーを見つめていたが、やがて、藤巻を見据えてこう言った。
「先生、実はお願いがあって来たんです」
その言葉に、藤巻はたじろぎ居直った。
「藪から棒に何だ?」
真理はまた俯いて、マグカップを見つめた。
「あの、戸倉駿平クンのことなんです」
藤巻はピクッとした。そして、一瞬のうちに思考が頭の中を駆け巡った。
「ま、まさか……!」
真理は、マグカップを見つめたままうなずいた。
「えぇ、雨宮先生に頼まれて……」
藤巻は、左手の親指のつめを噛んで「チッ」と唇を鳴らした。
「そうだったな。君も一応、雨宮の門弟だったな」
藤巻はコーヒーをあおった。
「雨宮のやつ、未だに『憂い』なんて言ってるのか。横恋慕の好きな奴だ、まったく」
だが、真理は髪を振り乱すほどの勢いで顔を上げて、藤巻を見据えた。
「でも、今は違うんですっ! もう、そんなつもりじゃないんですっ!」
藤巻は真理を睨んだ。
「何が違うというんだ?!」
真理はスッと立ち上がり、藤巻と変わらぬ形相で藤巻を睨み付けた。
「私は、彼と音楽がしたいんです。藤巻先生譲りの、彼の感性が欲しいんです」
藤巻は眉間にシワを寄せ、一瞬たじろいだ。
「ん? どういうことだ?」
真理はソファに腰を下ろして、静かに話し始めた。
「最初は、雨宮先生の思惑通りに彼を誘惑しました。何度か、彼のピアノの演奏、そしてトランペットの演奏を聴きました。それで、だんだんと彼の才能に引き込まれていきました」
藤巻は、顔を背けて聞いていた。
「桜沢宗和をご存知ですか?」
真理がそう言うと、藤巻は後ろ向きのままうなずいた。
「桜沢と私は、組んでアメリカで活動する予定なのですが、桜沢がトランペット奏者を一人望んでいました」
真理はソファに座り直した。
「そして、彼を桜沢宗和に引き合わせました。桜沢も、彼が気に入りました」
藤巻は白いTシャツの背を向けたままだった。
「駿平を連れて行きたいんです! 彼を育ててみたいんです!」
藤巻はゆっくりとこちらを向いた。
「君に『育てたい』なんて台詞は十年早いぞ」
真理は恐縮した。
「生意気言ってすみません」
藤巻は真理を睨んだ。
「だが、本気なんだな?」
その言葉に真理はシッカリとうなずいた。それを見て、藤巻は伸びをしながら言った。
「まぁ、そろそろ、奴も追い出す時期に来ているがな」
そう言った藤巻の顔は少し緩んでいた。
「でも、そのままだと雨宮の思う壺だぞ。雨宮律子のことを、君は知っているのか?」
藤巻の言葉に、真理は真顔になった。
「律子さんのことは承知しています。でも、二人を引き裂こうとは思っていません」
真理は急にうつむいた。
「……確かに、途中まではそうでしたけど」
真理は居住まいを正した。
「駿平は、ホントに律子さんことが好きです。律子さんもそうです」
藤巻は頭を掻きむしった。
「ややこしいことは苦手なんだがなー。ま、教え子のことだ、何とかしなきゃな」
藤巻の言葉に、真理の表情は明るくなった。だが、藤巻は厳しい言葉を続けた。
「だが、君に選択権はないんだぞ。選択権があるのはあの二人だ。二人が何を選択しても文句は言えない」
藤巻は厳しい顔になった。
「いいかい、これだけは約束してくれよ」
藤巻は真理を指差しながら微笑んだ。
真理は、ニコッとしてうなずいた。




